街道内遺跡

街道内遺跡

④街道内(かいどうない)遺跡

 市内高木在住の尾崎庄市さんは、自宅前の畑を耕作した際に出てきた土器や石器を丹念に拾い集め、発見地点を記録して保存している。特に先土器時代の石器には好資料が揃っていて貴重である。

 『大和町史』が編纂された昭和三十年代には一般にその存在は知られておらず、その後の尾崎さんの大和町教育委員会への通報にはじまり、一九七五年(昭和五十)に行われた市内遺跡分布調査や翌年の多摩湖遺跡群調査に伴う市内遺跡の調査・分析によって、遺跡の範囲や性格が徐々に知られるようになってきた。そして、この地域の字名から街道内遺跡と命名されるようになった。

 小規模な発掘調査は一九六八年(昭和四十三)や一九八〇年(昭和五十五)に行われた経過があるが、本格的な広範囲に渡る発掘調査は、尾崎さんが農業に励まれていることもあっていまだかつてない。

 近年、その縁辺部と推定される地域の宅地開発に絡んで調査を行ったが、とりたてて紹介すべき成果はなかった。尾崎さん所有の遺物については一九七七年(昭和五十二)に発行された『月刊多摩湖の記録』第一二号にご本人が紹介をしているので、これに沿って紹介したい。

 次のページの石器のうち、1~6は先土器時代、その他は縄文時代のものである。11~17の石鍼は、縄文時代の全時期をとおして使われた狩猟用具で、同時に縄文文化の始まりを示すものといわれている。弓矢の使用によって狩猟技術が飛躍的に進歩したといわれている。石鏃は市内各地で見つかるが、13のかたちや17のように茎があるものは珍しい。

 9・10は石匙(いしさじ)と呼ばれているが、その昔、この石器が「天狗の使ったスプーン」と信じられていたためで、実際にはけものの皮剥ぎ用具と考えられている。
 18~24の打製石斧は土掘り具で、縄文時代中期には大量につくられた。

 遺物の観察から、この遺跡が先土器時代から縄文時代草創期、早期、前期、中期、後期と長い時間にわたって営まれたものであることがわかった。また、地形的にも空堀川南岸に位置し、近接する丸山遺跡や丸山二の橋遺跡との関連性を探る必要があろう。

 なお、この遺跡の主体部は営農地域であり、現在のところ開発にともなう遺跡消滅の危険はないといえるが、新青梅街道に接する地域で周辺の開発が激しいことから、遺跡の正確な範囲確認を目的として発掘調査を行っておく必要があるかもしれない。