諏訪山遺跡
⑤諏訪山遺跡 p88
諏訪山遺跡周辺の台地で、縄文土器や石器などが採集できることは、かなり古くから地元の一部の人たちには知られていたようだが、一九六六年(昭和四十一)に現在の湖畔二丁目にあたる台地の造成工事が始まったところ、かなりの量の土器が見つかり、遺跡の存在が明らかになった。
発見のきっかけとなった工事のため、すでに破壊されてしまった部分もあったが、まだ工事の影響が少ない部分に三〇㍍四方の調査区域を設定し、発掘調査を行うことができた。すると、縄文時代中期の竪穴住居跡六軒が発見され、さらに台地の尾根筋には住居の炉と思われる焼け土が五か所で見つかるなど、大きな集落があったことがわかってきた。
発見された住居跡は、いづれも直径六㍍前後の円形で、中央付近には焼土の残る炉が作られていた。ただ遺跡全体にわたって、縄文時代の遺物・遺構を含む層の残りが悪く、住居跡の掘り込みも全体に浅いものとなっている。
第一号住居跡は、造成工事の時にすでに発見されていたもので、発掘調査のきっかけをつくった住居跡である。住居中央にある炉は、回りを比較的平らな石で囲んだ「石囲い炉」という種類のものだが、さらに真ん中に土器を埋め込み、炉の機能を高めている。炉に埋められた土かそり器は、縄文時代中期の加曽利E式という種類の土器で、この住居が建てられた時期を確定する手がかりとなるものだ。このほか、柱を立てた穴のそばなどから、炉に使われたのと同じ種類の土器が見つかっている。
第二号住居跡の炉は、第一号住居跡のそれとは少し形態が違っている。長さが二㍍にもなる大きなもので、中に詰まっていた焼土を取り除くと、六○㌢も掘り込まれているのがわかった。また炉の周囲には、石を抜き取った痕跡があり、この住居が使われなくなってから、他の住居で再利用したことが想像できる。
第四号住居跡の中央にある炉も、回りに九個の礫が置いてあった。しかしその置き方は乱雑で、石のない部分には穴が残っていたことから、この住居の炉体の石も次の目的に再利用されたことが考えられる。
発掘調査によって、住居跡やその周辺を中心とした場所から、土器や石器合わせて四三〇点ほどの遺物が見つかった。直前の工事で失われたものがあるとしても、住居跡が六軒も見つかったにしては少ない印象を受ける。
土器の多くは小さな破片で、しかも狭山丘陵の土の性質のため劣化が激しく、土器の文様の判別ができないものも多い。文様のわかる土器を分類すると、勝坂式土器と加曽利E式土器という二つの種類に分けられる。いずれも縄文時代中期の中頃、およそ五〇〇〇年から六〇〇〇年前のものと考えられている土器だが、遺跡内での二種類の土器の出土のしかたに大きな差はなく、ほぼ同時期に使われていたと考えられている。
発見された石器のうち、その大半が打製石斧という石器である。その多くが何らかの損傷を受け、完全な形で残っているものは少ない。また他の石器と較べると、異常とも言えるほどの量が見つかっており、この石器の性格を考える重要な手がかりになると考えられる。
諏訪山遺跡という集落の姿を、発掘調査の成果から考えてみると、まず一体何人の人たちが住んでいたのかという疑問が浮かぶ。具体的な姿を見せてくれた六軒の竪穴住居は、同じ時に存在していたのか、それとも何軒かつつ違う時に営まれたものなのだろうか。発見された土器は、土器型式でいうと二種類があるが、住居やその周辺からの出土状況では、明確な区分ができず、むしろ同時期に共存していたと考えられる。住居同士もある程度の間隔をおいて並んでいることから、集落全体としてほぼ同一の時期に営まれたようだが、ここで問題となるのは第五号及び第六号住居跡が重複して発見されたことだ。少なくともこの二軒が同時に存在することはできず、あらためて六軒を見ると、住居に伴う炉の形の違いから、二つのグループにわけることができた。第二号住居跡、第四号住居跡など掘り込みのある炉の周囲に置いてあった石を抜き取った痕跡のあるグループと、一号住のように床と同じ高さで石を置き炉のくぼみも浅いグループだ。
ここで両グループの時間差を考えると、例えば第一号住居跡など新しい家をつくるのに、古くなった第二号住居跡の炉の石をリサイクルして使ったという説明が成り立つ。つまり諏訪山の集落は二つの時期にわたって営まれたと考えられるが、土器の共存状況からみて連続した短い期間のことだったと考えるべきだろう。
ところで、発見された遺物の中では打製石斧がおよそ四分の一を占め、石器だけに限ると実に八割という高い割合を示す。量が豊富だということは、別の見方をすれば「ありふれた」道具だったとも言える。素材も、この地域によくある砂岩を使っているなど、少なくとも大切に扱うべき貴重なものという印象は浮かばない。また破損した例が多いということも、ごく日常的に石斧を使っていたためと考えることができる。
想像を逞しくしすれば、日常で最も身近な道具のひとつである打製石斧は、かなり頻繁に使用されたため、破損することも多かった。このため人びとは常に予備の石斧を用意していたか、あるいは破損するとすぐに次の新しい石斧を作っていた。その結果、遺跡には破損した石斧が大量に残されることになったという具合だ。
現在打製石斧の使い方として一般的に言われているのは、土掘り具としての使い方だ。住居とする竪穴を掘る以外にも、日常的に木の根や球根などの採集のために必要だったという考え方だ。このことは、諏訪山遺跡での打製石斧の在り方を裏付けるものでもあり、先程の想像もあながち間違ってはいないかもしれない。