資料編1

資料編1


敗戦と戦後の苦しみ
p113
②再建に立ちあがる人びと

 一九四五年(昭和二十)終戦当時の村の青年たちは、農工立村で戦争に協力したということで、強いショックを受けていた。一面、封建制の矛盾を敏感に感じとっていた。

 戦時中は官制の"大日本青少年団"として、全面的に戦争協力の有力な団体であった。
 村の青年たちは、GHQからの政策として、青年団を結成するよう指令が出たと伝えられ、危機感を感じとり、自主的に青年団を設立することにした。

GHQ(連合国軍の日本占領中設置した総司令部1ーマッカーサー司令部とよん
だ)の青年指導は、戦前の青年団の前近
代的な性格にメスを入れはしたが、結局
はその伝統的な性格を利用しつつ、若干
の近代化を推し進めることによって「反
共民主化」路線の一翼として、青年団の
再編成をはかった。
(ブリタ一一力国際百科事典)

 十一月二十日は「えびすさま」の日で、毎年、村中あげて大運動会が行われてきた。その日を選んで、終戦の年、早々と大和村青年団の結成式を行った。
 芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の六分団からなり、本団役員が男女各一名、計十二名選出され、その中から初代団長に石井孔明さんが互選された。

青年団の活動
①社会奉仕活動=道普請・降雪時の道路の除雪
②文化活動=演芸大会・講演会・会報の発刊
③産業の普及=農産物の品評会
④体育活動=運動会・野球大会・駅伝
以上のような、本団中心の活動を軸にして、活発な運動を展開した。p113
p114
 敗戦の混乱と飢えの中、一方では、一挙に解放された自由の中での模索(もさく)が始まった。

大々的な炊出し

 戦後の食糧危機は深刻であった。青年団はいちはやく、社会奉仕活動の一環として、この問題にとりくんでいった。まず、村内の困窮者を調べてリストを作成し、村役場に協力を申し入れた。村役場から「お触れ」を出してもらい、ゆとりのある農家を一軒一軒訪ね歩いた。困窮者の窮状を訴え、食物の供出をしてもらって、分団ごと六地区で毎日、野菜など入れて炊きこんだおかゆの炊出しをした。それが半月に及び、朝日新聞で大きく報道された。

天野貞祐の講演

 当時、一高(現東京大学)の校長、天野貞祐さん(のち文部大臣)を招いて、「自由とは何ぞや」というテーマで、講演会を開催した。村山や東村山など近隣からも大勢の参加者があった。村山貯水池管理事務所を通じて、木炭車を借りてきて、吉祥寺のお宅までお送りした。お礼はジャガイモ・サツマイモや野菜などをさしあげた。

その他多彩な行事いっぱい

 敗戦のショックから、立ちあがりをみせた若いエネルギーは、衆議院議員選挙で、各候補者の個人演説会開催を要請し、平和で民主的な祖国再建に情熱を傾ける人を選ぶように努めた。

 空き地を共同農場として、サツマイモなどの栽培をしたり、農産物の品評会、秋の陸上大会、お祭りでの素人演芸大会等々、多彩でもりだくさんの行事を、精力的にこなしていった。

 一九四七年(昭和二十二)五月三日、新憲法が施行された。主権在民・平和主義・基本的人権尊重の三原則は、今まで
とはうって変わった価値観と、新鮮な輝きをもった新憲法で、戦後日本の指針と受けとめた。

 この日、石井団長は、過去を反省し平和憲法を祝う"新憲法施行祝賀会"の開催を呼びかけた。各分団おもいおもいの発想で、神輿などかつぎ出し、狭山自然公園入口に集まった。特別な企画があったわけではないので、セレモニーはなく、団長の祝賀のあいさつだけで、自然発生的にもりあがり、祝賀行進をすることになった。

 志木街道から青梅街道を西へと、新憲法施行祝賀の行進は続いた。沿道の村人が行列に加わり、芋窪に着くまでその数が大きくふくれあがっていった。このことは、この時期の国民感情をよく表わしている。

 敗戦に打ちひしがれていた当時、村人に明るい希望を与え、封建的なこれまでの慣習や考えを、民主的なものへと変えていった青年団の役割りは大きかったといえよう。(当時の青年団幹部の話)p115

「戦争終結で日立工場の寮生たちも去っ
て南街は急にさびしくなったが、疎開者、
復員軍人、引揚者などが帰ってきた。そ
して新たに入居する者もあって南街は次
第に活気を取りもどしてきた。
子どもたちに幸せをと考え、遊び場を
造り紙芝居を見せたり、本を読んで聞か
せたりだれもが死に物狂いで働いた。
小、中学校の先生何人かが社宅に移り
住んで、PTA活動に情熱を燃やし親た
ちも共にがんばった。
ラジオでは農村問題をよく取り上げて
いた。"日曜日がある農業"家畜や、すぐ
れた農器具を導入して作業を楽にしよう、
家の座敷より作業場にお金をかけて能率
をあげようなど提言していた」
(梶山盛夫「今はむかし大和村」)