資料編2

資料編2

p28~29
量セシヲ目撃シ我々ハ先祖伝来ノ土地二
離ル・ノ悲惨二遭遇セサルニ至レリト梢
二安堵セシニ今回上水道用地トシテ各所
有者二配布セシメ之力調印ヲ要請セラル
さき
此ノ算出ニヨレハ曇二低廉ナリトシ陳情
びつくり
セシ価格ヲ尚低減セシモノニシテ吃驚又
吃驚如何二市当局ハ我々地主ヲ愚弄セラ
ル・力将二市ハ公共ノ為メナルヲロ実二
はなはだ
せしゆう
我々世襲ノ財産ヲ奪取セラル・力酷タ判
断二苦メリ是二於テ承諾書ヲ拒絶候也
大正四年二月二十八日以上
以上のような取り決めをし、安い買収
価格に抵抗したのである。
水道拡張事業報告の水道工事日誌から
このあたりについて記しておくと、
大正三年十一月六日、村山貯水池敷地中
芋窪、蔵敷、奈良橋、清水、狭山等ノ
各村ノ土地買収案ヲ市参事会二申請ス
大正四年一月二十六日、市参事会ハ同土
地買収案ヲ可決ス
大正四年二月十五日、村山貯水池敷地買
収価格ヲ発表ス
大正四年四月六日、市参事会ハ村山貯水
池敷地(芋窪村外四ケ村)土地追加買
収案ヲ可決ス
大正四年四月十三日、東村山村字回田土
地ノ買収案ヲ可決ス
大正四年六月十五日、市参事会ハ村山貯
水池敷地内二於ケル家屋ソノ他物件ノ
移転料金協議着手ノ件二同意セリ
大正四年七月二十一日、市参事会ハ村山
貯水池敷地ノ丈量増加買収案ヲ可決ス
大正四年十月二十九日、村山貯水池敷地
(芋窪村外四ケ村)追加買収ノ件及、市
参事会議決第九号更正ノ件並二村山貯
水池敷地(東村山村)追加買収ノ件ヲ
市参事会二提出シ同会ハ之ヲ可決ス
大正五年四月十一日、市参事会ハ村山貯
水池敷地(芋窪村外五ケ村)ノ土地買
収議決更正案ヲ可決ス
いずれにしても、はじめはかなり激烈
な反対運動が行われたようであるが実際
に市当局吏員の、買収工作の前には承諾
書調印拒絶書にみられた結束も、個々に
切り崩され、一部を除いてそのほとんど
が買収され反対運動も終わるのである。
そのようななかにあって、先祖からの
土地を離れたくない強い思いと、さらに
買収価格が低いなどのことから最後まで
買収に応じなかった人びとがいた。
事業報告の記録によると、次のように
記されている。

 本市上水道拡張事業用地ノ買収ヲナス
ヘク、大正四年二月十五日以来各土地所
有者ト種々協議ヲ重ネタル結果大部分ノ
土地ハ前節記載ノ如ク売買ノ協議成立セ
シカ該土地所有者中価格低廉ナリトノ理
由ニヨリ之力協議二応セサルモノアル以
テひムナク土地建物処分規則二依リ、大
正八年十一月五日内務大臣二対シ杉本某
他六名二関スル左記土地徴収並二価格ノ
決定申請ヲナセシニ大正八年十二月二十
五日本市申請ノ通リ之力決定ヲ受ケタリ

とある。
いわゆる土地収用法により強制収用さ
れることになってしまったのである。
このあたりの経緯について、一九八〇
年三月発行の『多摩湖の歴史』のなかに、
一九一二年(明治四十五)貯水池計画
が発表された時、住民の側に長い間住み
なれた地をはなれることに対するいくら
かの抵抗があったことは事実であろう。
しかし日露戦争(一九〇四~一九〇五年)
後の不況は、例にもれずこの村にもおし
よせ、機織仕事すら少なくなるという苦
しい生活のなかで、多くの人を移転やむ
なしという方向にむかわせていったので
ある。
このように多くの住民が移転もやむを
得ないという方向に傾いたものの、一つ
の大きな問題がおこった。それは土地買
収の価格があまりにも安かったことにあ
った。
新聞発表などで買収の価格を知った住
民はその事態におどろき、一九一四年(大
正三)九月に、住民地主など、六〇〇名
の村民が結集して大会を開いて、提案さ
れた買収価格に応じられないこと、この
状態では買収地を他の所にかえてほしい
ことなどを、七六名の代表をたてて東京
市に陳情している。
こうした行動にもかかわらず、東京市
は強引に買収をはじめたのである。
買収は個々の地主と市との間の個別交
渉という形をとり、進められていったの
であった。
住民のなかには、家を建てておけば、
補償金がとれる、などの噂にまどわされ
て、家を新築した人もあったようだが、
全体として、次々と買収に応じ、一九一
五年(大正四)十二月には、早くも移転
を完了した家もあり、一九一七年(大正
六)に買収に応じないで残った人はすで
にわずか八人になってしまっていた。
しかし、この人達は結束して上申書を
もって、市へ陳情をしたり、弁護士と相
談をしたり、ねばり強く交渉をしたが一
九一九年(大正八)十二月には、国の強
制収用により、全戸がたちのくに至り貯
水池建設計画が提出されてより延べ八年
で、土地買収は完了されたのである。
と記されている(原文のまま)。