農兵の活動

農兵の活動

武蔵村山市史上p1196


 慶応二年(1866)三月二十一日の朝、悪徒四名が中藤村に入り込んだとの知らせに中藤村の非常人足が名主宅に集合した。悪
徒は芋久保村に行ったとの情報で、半鐘を鳴らして非常召集がかかった。そして農兵は銃に剣を装着し、非常人足二
〇〇名は竹槍を持ち、中藤村と村名を大書きした高張提灯を掲げて待機した。近隣からの半鐘は鳴らなかったが、こ
の日から夜番をして警戒にあたった。

 また四月二六日にも悪徒が現れたという情報で、箱根ケ崎村から芋久保村までの非常人足が砂川村に駆け付けたが今度も何事もなく済んでいる『指田日記』。

 二八日にも関東取締出役から、扇町屋村と飯能村に拝島村への出動命令がだされている。このときの悪徒は同一の集団だったようだが、四月に拝島村組
合の寄場役人から今後組合内の取締りは小組合限り農兵五名宛で回村し、非常の場合は各村五人組ごとに非常人足一
名が駆け付ける態勢にしたいとの願いがだされている(渡辺源蔵家文書五〇一)。

 実はこのとき、拝島村組合の農兵
は調練に行っていて非常召集に遅れをとってしまい、村方や農兵から非常事態に対応できないのでは農兵の甲斐がな
いとの批判がだされていたのである(『福生市史』上巻)。取締体制を小組合単位とすることで農兵が機動性を発揮で
きるようにし、これらの批判に応えようとしたのである。

辰閏四月十八日盗賊打ち殺しの儀に付き芋久保村より届け書 里正日誌10p77

恐れながら書き付けを持って御訴え奉り申し上げ候

武州多摩郡芋久保村役人そうだい名主五郎左衛門申し上げ奉り候

近頃物騒に付、兼ねて御触達之趣も有之、既に御出役様御
廻村もなされあり候程の義にて、当十六日朝五ッ時頃村方
農兵其外人足引連、組合場所田無村御出役様御旅宿江罷
越候途中、村内家少々久保原にて、強盗弐人、内壱人は
廿四五才壱人は廿才位に相見へ候、先立候農兵並びに人足
共懐中物其外相渡すべく旨申し、両人共に、連れだって抜刀し相掛り候に付
あい驚し罷り在候内、追々駈付盗賊両人共打倒、抜刃は大
勢にて踏折召連御訴申上げべく候と存候内、両人共相果申候
間、名住所等穿鑿(せんさく)およひ候得ども、更に手掛り相知不申、
其段御出役様江御訴可申上と御旅宿先承り候ところ、御帰府
の趣に付、死骸並びに踏折匁共其儘仮埋に仕置、とりあえず此
段御訴奉申上候、以上
         武州多摩郡芋久保村
               役人惣代名主 五郎左衛門

   慶応四年閏四月十八日