笹本正治 辻についての一考察

このように古く辻は霊の集まる場所であり、また霊が閉じこめられているところだと思われていた。そし
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て辻では人間の霊魂も体から遊離しやすいと想像されたようである。辻で唾吐きをすることによってけがれ
たこととみせるのも、辻の死霊と接触を持った、もしくは辻へその人の霊魂が入ってしまい、人間のケ(霊
魂)が枯れたとみられたためであろう。また、辻村を江戸時代に「臓多村の事なり」(『僅言集覧』)と説明す
るのも、住民が動物の死体処理等にかかわっているので、動物の霊が集まっている村だと江戸時代には理解
されていたためかもしれない。
   
 ところで、日本人の意識する祖霊の住む所、集まる所としての代表的な場は山の頂であるが、辻には物の
突起した頂・頂点・てっぺんの意味もあり、山頂を指し示すことがある。東條操氏編『全国方言辞典』(東
京堂出版)では、この意味で辻の字を使用する地域として、和歌山県日高郡・香川県・兵庫県飾磨郡・岡山
県吉備郡・石見・山口県萩・大分県西国東郡・福岡県朝倉郡・長崎県東彼杵郡・壱岐をあげている。事例は
関西に片寄っているが、関東にも辻を山の意味で使うことはあり、直接山名になっていることもある。一例
として山梨県の南アルプス鳳凰三山の南に位置し夜叉神峠との間に座す辻山をあげることができる。横田勉
氏はこの山名の由来を、「尾根が四方からクロスしているので辻山と呼ばれる」と説明している。

 辻には方
言で山道の合した所という意味もあるが、山頂は尾根道の交わる場所なので、その意味では平地の辻と同じ
である。甲斐の辻山の場合、南から北へ夜叉神峠・辻山・薬師岳・観音岳・地蔵ケ岳と連なる山名と配置か
らして、古くはこの山に霊が集まるという信仰があったと考えられる。

 このような祖霊等の集まり住む山頂
の辻が、一般の人間の住む場である平地に具現されたのが道路の四ツ辻だと考えられていたのであろう。霊
魂・祖霊は年月を経ると神に変わるので、山は霊の住む所であり、かつまた神の座す場所だとも意識されて
きたが、この認識はそのまま平地の辻にもあてはめられ、辻には神も住んでいると信じられてきた。

 辻に集まる神や霊は不可思議なものであり、辻は恐怖の対象になっていた。そこで辻では集まった霊や神
を慰めたり鎮めたりするための祭が行われてきた。史料的には、『本朝世紀』に天慶元年(九三八)東西両
京の大小路街において木神像を安置して拝礼したとみえ、『百練抄』でも応徳二年(一〇八五)に同様の記
事があり、『明月記』建永元年(一二〇六)八月二十一日の条に「今日称御霊有辻祭」とあるように、古代
末から中世初めにかけて辻での祭が多く見られる。実際にはこれ以前から素朴な形で祭がなされていたのが、
御霊信仰と重なって大きな祭となり、記録にあらわれるようになったのであろう。

 同じ頃、辻で迷える霊を導くために、日本的な御霊信仰と仏教がいっしょになって地蔵信仰が盛んになる
と、地蔵菩薩は釈迦入滅後、弥勒仏の出世するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生を化導するという
ことで、辻に地蔵が立てられるようになった。これが今も各地に残る辻地蔵の起源と思われる。また道端や
辻にたてられた仏像や石仏を辻仏という(『日本国語大辞典』)が、これも同様の効果を期待してつくられた
といえよう。

 このような、辻には霊が集まり住み、またおしこめられているという信仰は、日本にだけみられるもので
はなかった。阿部謹也氏はヨーロッパの状況を、「復讐の慣行が正式に認められていた中世においては、正
当防衛で殺した犯人の死体を十字路に埋め、処刑された者の死体や自殺者の死体も十字路に埋めた。しばし
ば町の入口の十字路は処刑場でもあり、絞首台が立ち、死体がぶらさがっていた。そこを通る人びとへのみ
せしめのためというよりは、この世への未練を残して死んだ者の霊を十字路に閉じこめ、死者による復讐を
避けるためであった」と記しているが、これはまさしく中山太郎氏の説明する辻墓や辻祭の起源と一致する。

二辻と疫病

 辻は霊の集まり潜む特殊な場であったが、集まり来る霊は悪鬼とも善鬼とも、また種々様々な妖怪、
さら

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には神とも思われていた。
 
 淡路の三原郡昭島村(南淡町)では、四辻に出る妖怪をツジノカミと呼ぶが、これは辻に潜む霊を妖怪と
意識したのであろう。『日葡辞書』は「辻拒ひ」(ツジズマイ)を、「どんなにせかしても馬が先へ進みたが
らない(15)」と説明しているが、これは戦国時代末に、辻には特殊な力を持つ妖怪がいて、馬を辻にひきずり込
んで先へ進ませなくするという迷信があったことを示す。辻において妖怪が生物をとらえ動かせなくするこ
とは人間にもあてはまり、『笈埃随筆』は「禁中艮角の築地を、俗に蹲踞の辻というよし、夜更けて此の辺
を通れば、茫然として途方に迷ひ蹲踞居るなり、怪き事なり」と伝えている。

 また柳田国男氏は、「山口県の厚狭郡あたりでは、同じ産女の怪をアカダカショ、又はコヲダカショとも
謂つて、古い道路の辻などへ晩方に出るものと謂つて居た」、「ある学生はこの山の字小田山といふ処から降
つた辻といふ阪路で、一人の被害者を救ひ、後に冬休みで再びそこを過ぎた時ダラシにかかつた」等と記し
ている。

 このように辻に住む霊の中には妖怪として姿をあらわし、場合によってはとりついて災厄を加えた
りする等、人間への働きかけをするものもあると考えられていた。

 こうした災いをもたらす悪霊を鎮め、災厄から逃れるためにいくつかのまじないが辻でなされた。その一
つの辻舞について中山太郎氏は、「相模足柄下郡宮城野村では、七月十四日の盆の夜に、諏訪神社の獅子舞
を『おかがり』と称して行ふが、それは村民が寝静つた夜中に、村の辻辻を舞ひ廻る。之は悪魔除である」
(『補遺日本民俗学辞典』)と述べている。辻舞は盆行事であり、盆という霊の活動の盛んな時期に霊の集まる
辻において、しかも霊の活躍する時間である深夜に舞をすることによって、霊をなぐさめ悪霊のもたらす災
いを避けようとしたことに他ならない。

 辻での悪魔払いはヨーロッパにも見られる。ハインリッヒ・ハイネは『流刑の神々・精霊物語』において、
異教の悪霊清めの方法を、深夜「ローマ近郊のこれこれの十字路に立ちなさい。そこではあらゆる種類のふ
しぎなもののけが彼の前を通りすぎていくだろう。けれども目に入るもの、目に入るものにすこしもおそれ
ないように。そしてしずかにじっと待っていなければいけない。ただ、彼の指輪をはめた女をみかけたら、
近づいていって、文字のかいてあるこの羊皮紙を渡しなさい……」と記している。

 とくに辻にひそむ悪霊が人間にもたらす災厄は病気だと考えられてきた。飯島吉晴氏は辻神を「鹿児島県
の屋久島に存在する辻にいる魔神。丁字路で「本の道が他の道に交わる、その突き当たりの正面に家を建て
た場合、辻神が家に入り込むという。辻神は魔神であるため、家に病人が絶えなかったり、不幸がつづくも
のだといい、そのような屋敷では道の突き当たり正面に石敢当(いしがんとう)を立てる。石敢当は南九州から南島の各地に
見られる長方形の石に『石敢当』の字を刻んだもので、辻や三叉路に魔よけとして立てる。丁字路の突き当
たりは特に悪いとされている」等と説明している。

 病気に対処するためのまじないも辻で行なわれた。それが「ツジマジナヒ〔辻厭勝〕」で、中山太郎氏に
よれば、「常陸龍ケ崎町では、大◎賓日に通路の四ツ辻になつてゐる所に、火をつけた一把の線香を立てて置
くと虫歯が治ると云ふ」(『補遺日本民俗学辞典』)信仰であるが、これは歯痛が辻の霊によってもたらされた
という理解が前提にあり、原因である悪霊を線香によって追い払うか鎮めて、痛みをなくそうとしたのであ
ろう。

 また大間知篤三氏によれば、常陸高岡村では「ツジフダというものを、通り路から屋敷へ通ずる小路
の曲り角に立てている家が多い。村の神職から受けるものもあり、また久慈郡〔金砂郷村〕の金砂神社に参
拝のおりに頂いてくるものもある。悪病除けになるという」俗信があるが、辻札も病気にならないためのま
じないといえよう。

 このように辻に潜む悪霊の一部は病気をもたらしたが、霊は人間の通る道を使って辻に集まってくるので、
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病気をもたらす霊も辻を中心にしながら移動すると思われていた。移動する悪霊がもたらすということで大
きな注意が払われたのは疫病であった。疫病の流行は前近代においては村の存亡にかかわりかねなかったの
で、その対策は村全体としてなされた。村に疫病を流行させないためには原因となる悪霊を村に入れなけれ
ばよいとして、道を伝わってやって来る悪霊を村の入口で追い返すための呪術が行なわれた。

 『古事記』では黄泉比良坂のイザナギ・イザナミ両神の離別に際し、千引石を引き塞えて黄泉国との間を遮
り、その石を道反之大神・塞坐黄泉戸大明神と呼んだとあり、この世に災いをもたらす死霊が道を伝ってや
ってくるのをさえぎるために塞神が設けられたことを伝えている。

 また『今昔物語集』では道祖神が行疫神
として出てくる(30)が、古代末の悪霊信仰や疫病に対する恐怖の増大とともに、サエノ神・フナドノ神に対する
信仰も強まり、村境にこうした神が祀られ悪霊を村に入れまいとし、辻と村境が同じような意味を持つ場と
認識されるに至ったと思われる。

 悪霊を村に侵入させないという発想法は、現在でもツジキリ(辻切)やツジシメ(辻注連)等といった習
俗で残っている。これらは道切などとも呼ばれ、「疫病神や魔性のもの、村の平安を乱すものがほかから侵
入するのを防ぐために、村境・部落の各入口などに張られるシメ縄。村・部落の全戸が参加した共同呪願の
ひとつ。春秋の村祈祷のあとなど、毎年日を定めて張りかえられるものと、隣村などに疫病がはやったとか、
またすでに部落内にも伝染してきたが、それを送り出す行事をしたあととかに張られる、臨時的なものとが
ある。(21)」等と説明され、村の入口に大わらじや悪臭のものを吊したり、祈祷札を張ったりするのも同じ意図か
らなされている。朝鮮では村の入口にチャスンという神像が置かれているが(22)、これも同様の役割を持つであ
ろう。

 不幸にして村に入り込んでしまった疫病神・悪霊等を村外に送り出すにあたっても、辻や村境は特別な意
味を持つ場所であった。疫病送りに「さん俵に赤紙を敷いて、起上り小法師二つと小豆飯をのせて、村境や
四辻に持って行き置いてくるという呪法は、全国的」(大塚民俗学会編『日本民俗辞典』)に見られる。

 辻の霊や神の中には悪病をもたらすものもあったが、逆に人々は毒をもって毒を制す的な行為、あるいは
辻に潜む善神に期待するような行動も行なった。その一つがツジウリで、これは「高知県長岡郡などの珍し
い風習として知られているのは、病身で育ちの悪い小児は、辻売またはカエオヤということをする。替親は
ただ近隣の一人を択んでその子を子に取つてもらうだけだが、辻売の方は朝早くその子を抱いて四辻に出て
立ち、第三番目の通行人に貰つてもらうという形をする。相手は承知をすれば何か身に附いた品物を与え、
新たに名をつけてやる。そしてケイヤクオヤとなつて一生の交際をするのだそうである(国府村誌)。或は
小児でない病人にもこれをするそうだが(土佐方言集)、それは呪法としての応用であろう」(『改訂綜合日本
民俗語彙』)等と説明される。

 同様の習俗にツジクレもあり、「佐渡の河原田町附近では、道の辻で三人目に
逢つた人に赤児の名をつけてもらう風があり、これを辻クレといい、その子をツジコといつた。或は三辻で
一番先に来た人にその子を貰つてもらい、また名をつけて貰うという土地もある」(『改訂綜合日本民俗語
彙』)等の内容を持つ。このように健康にかかわる行為が辻で行なわれたのは、辻が人間の生命にとって最
も重要な魂・霊の出入口の場であり、辻神が悪病とかかわる等と信じられていたためであろう。

三 辻と占(p143)

 辻に集まってくる霊や神は、必ずしも悪いものだけでなく、人間に幸福をもたらしたり、未知のことを教
えてくれたりするものもあると考えられていた。そこでこうした霊や神と交信して、その力をかりていろい
ろな物事の判断をしようとした。その代表が辻占である。

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 辻占の原初的な形を伝えるのが、『万葉集』に「由布気にも今宵と告らる我が背なは何故そも今宵寄しろ
来まさぬ」、「門に立ち由布気刀比つつ吾を待つ」等と見える「夕占」、または「夕占問い」である。これを
折口信夫氏は、「辻に出て往き来の人の口うらを聴いて、自分の迷うてゐる事、考へてゐる事におし當て、
判断する方法で、日の這入つた薄明りのたそがれに、なるべく人通りのありさうな八◎衙を選んで、話し、話
過ぎる第一番目の人を待つたのである。夕方の薄明りを択んだのは、精霊の最力を得てゐる時刻だからであ
らう。遥かに時代が下ると、三つ辻と定めて、其庭に白米を撒いて、区割をかいて、其庭を通る人の話を神
聖なものとして聴き、又、禁厭の歌もあつて、道祖(ふなど)の神に祈つた様である(拾芥抄)。此は塞ノ神をば占ひ
の目的の邪魔を払つてくれるものと考へたからで、米を撒くのも、神聖で、悪神の虚言などが這入りこまぬ
様にと言ふのである。ゆふけのけは占の意か(23)」と説明している。なお『拾芥抄』には,ヲナドサヘユウケノ
神二物問ハハ、道行人ヨウラマサニセヨ」とみえ、岐神や塞神が夕占の神と同一視されており、こうした神
は占の邪魔を払うより、やって来る人にのりうつって託宣すると考えられていたことを示している。そして
夕占は夕方という時に重要性をもった言霊信仰だったのである。

 夕占が時に重きをおいたのに対し、同じ行為を辻という場においてとらえたのが辻占である。「ゆふけ」
を『倭訓栞』は、「万葉集に、夕占夜占夕◎衙などをよめり、俗にいふ辻占也、夕食の義にや、後拾遺集にゆ
ふけをとハせけると見えたり、ゆふけの神とも見えたり、又黄楊小櫛(つけお)と名し、其法十字街に出て黄楊の櫛を
把て道祖神を念して、見へ来る人の語をもて、吉凶をト定むといへり、黄楊(つけ)を告の義に取なるへし」と、夕
占が辻占の出発点であると記し、江戸時代の辻占の方法は、四辻に出て黄楊の櫛を持って道祖神を念じ、来
る人の語によって占うものであったことを伝えている。

 このように占が辻という一定の場を選んで、道祖神・岐神・塞神=辻神を念じて行なわれたことは、ここ
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が霊や神の集まる特別な場所として意識されていたからで、そうした神が人にのり移って言葉を発し、人間
と交信してくれるという信仰があったのであろう。ところが次第にこうした本来的な意味が忘れられ、黄楊
の櫛に重きがおかれたり、やがては辻占売によって売られる紙に書かれた辻占や、辻占せんべい等にとって
かわられるようになっていったのである。
小正月に行なわれる火祭り行事の左義長・どんど焼は、村の四辻や村はずれで催されることが多い。この
時には正月の松飾りが燃やされるが、松飾りは正月の神ーそれは祖先神でもあるーの依り代である。こ
うした火祭りは盆行事としても行なわれる地域があることから、盆の送り火と同じ意味を持ち、祖先神・正
月神の送りの行事で、これが辻で行なわれた理由もここが神や霊の集まる場所だからであろう。ところで左
義長は火の大きさや燃焼時間を隣村と競って、勝った方の村によい事があるとか、炎が大きかったらその年
は曲豆作、あるいは竹が音高く燃えるとその年の天気がよい、さらには火祭りの燃焼物の中心に立てた柱が倒
れる方角を見て一年の豊凶を占う等、年占としての性格をも強く持っている。送り火と同性格を持ち年占で
もある火祭りが辻で行なわれることは、送り出した正月の神や辻に潜む霊等と交信し、神意によって未来を
予見しようとするもので、これも辻と占とのかかわりを示す。
辻を中心とした通路、あるいは村境の道で、部落内の二つの組もしくは部落問で綱引き行事が行なわれ、
勝った村の方が豊作だとか、上の組が勝つとその年は天気が良い等といって、これを年占の神事にしている
所は多い。また「綱引行事は市神・七夕神・エビス大黒など、何らかの神祭にともない、盆行事の場合は、
   
多く精霊様(祖霊)のためといわれる」ことも注目される。前記のように辻と村境とは関係が深く、村の中
心の辻神が村境に祀られるに至ったと考えられるものもあり、辻と村境がほぼ同一に意識されていたので、
年占の綱引の場が辻あるいは村境であるのは、辻の霊や神の意によって占をしようとしたといえよう。
『改訂綜合日本民俗語彙』は、辻角力を「長野県南安曇郡で、田植休みの子供の角力のこと」と説明し、田
村善次郎氏は「長野県松本市をはじめ相撲場のことをツジという所も多いが、辻に土俵を築き相撲をとるこ
 あ 
とが年占として重要な意味を持っていたのであろう」と述べている。田村氏の指摘するように、相撲は神事
として曲豆凶を占うために行なわれることが多く、この年占の神事が辻を舞台にしてなされることは、ここに
も辻占と同様に辻に集まる霊や神が力士にのりうつり、神意を示してくれるという信仰があったと思われる。
そして長野県の辻角力の力士が子供であることは、子供はけがれがないので精霊や神がのりうつりやすいと
考えられたからであろう。また左義長を子供が中心になって行なう地域が多いのもこのためではなかろうか。
そこで注目したいのは、子供達が鬼ごっこやかごめかごめ等をして遊ぶのを、辻遊びとも言うことである。
辻遊びの代表である鬼ごっこについて半沢敏郎氏は、「名称考及び遊びの形式方法の内容等から、この種の
遊びは鬼の追跡から逃避することを遊事化した仮想的ごっこ遊びの一種である」\l.-.)て、「要は人間を脅か
 め 
し、生活の妨げとなる悪鬼、邪なる化物よりの逃避にほかならない」と述べているが、前記のようにこうし
た鬼U悪霊の集まる場が辻であり、そこでこうした遊びがなされることは意味がある。また鬼ごっこの鬼を
決めるのにジャンケンをする等、占の形式をとることが多く、かごめかごめで「うしろの正面だあれ」とい
うように鬼が占的行為をすることもある。さらに『民俗学辞典』はかごめかごめを、「他の地方ではこの中
心の一人は小仏であり地蔵である。福島県の海岸地方では、お乗りやれ地蔵さま云々と唱えつつ廻つている
と、中心の児に地蔵がのり移つて種々の問いに答えるという。すなわちこの遊戯の起源は、神の口寄せの方
式であつたと考えられる」としている。このように辻遊びも辻占的要素が強く、鬼ごっこやかごめかごめ等
は本来辻に着目しての占の一種だったともいえよう。
嗣日本国語大辞典』では、辻八卦を「路での八卦占い。またその八卦をする人」と説明しているが、前記の
ように本来辻は占の場だったので、この場合も辻占や辻角力同様に「辻」の語に意味がある可能性がある。
なお辻における右のような占も日本だけに見られたものではなかった。阿部謹也氏によればヨーロッパの
中世では、「十字路は良き霊と悪しき霊の集まるところとして、いろいろな迷信の対象となっていた。十字
路に立つと霊の力で未来が見えるといわれた。そこでは幸運や不運、愛(結婚の相手)や死、病気の治癒、
災難からの保護など起りうる出来事について超自然的な力が働いて、あらかじめ知ることができるといわ
 め 
れた」という。これは占の内容も形式もまさしく日本の辻占と対応するといえる。

四 辻と芸能
「辻」という字を冠する熟語を見ると、芸能に関係する語が多いことに気がつく。すなわち、
辻歌・辻謡・辻打・辻打太鼓・辻絵書・辻踊・辻歌舞伎・辻浄瑠璃・辻祓・辻説・辻羅漢・辻勧進・辻
寿祓・辻狂言・辻講釈・辻講談・辻芸・辻講師・辻芝居・辻相撲・辻説法・辻談義・辻談義坊主・辻
能・辻能役者・辻噺・辻番附・辻法印・辻放下・辻宝引
等である。ここには俗に大道芸と呼ばれるものがほぼ網羅されている。ちなみに坂本太郎氏監修の『風俗辞
典』では、大道芸を「辻芸」ともいうと説明している。このように辻は諸芸を演ずる場でもあった。
辻で芸能が行なわれるようになった原因の一つには、前記の辻切等とつながって、辻に集まり人間に災い
をもたらす悪霊に対して、厄ばらいをすることがあった。たとえば辻祓は、大晦日あるいは節分の夜等に、
乞食が家々の前で厄ばらいをする。また辻法印は、道ばたや家々の門口で祈薦や占をしたり、祭文などを語
ったりする山伏であるが、これも厄ばらいの役割を持っていたといえよう。
また辻に集まった霊に対しての慰霊・鎮魂から出発したと思われる芸能もある。たとえば辻踊は辻に集ま
って踊ることであるが、その代表とされるのが盆踊である。談義僧が往来で平易に仏道を説いて喜捨を受け
ることも辻談義といい、また道ばたに立って往来の人にする説法を辻説法と呼ぶ(『日本国語大辞典』)。この
二つの目的はともに道行く人々に対し功徳を説き喜捨を得るところにあるが、辻で行なわれ辻の字を冠して
呼ばれる一因には、説法等を辻に集まっている霊達にも聞かせ、彼等を仏教によって鎮めあるいは救済して
やろうという意識もあったのではなかろうか。
右の二つは非常に密接なかかわりがあり、両者が混合したような芸能もある。「路上で往来の人に社寺や
仏像建立などの寄進を仰ぐこと、またそう称して金品などを乞い貰う人」を辻勧進といい、「江戸時代、道
ばたなどに羅漢の木像を置き、前に櫃を出して置いて、銭を乞うていた乞食」を辻羅漢という(『日本国語
大辞典』)が、これらはそうした芸能である。
ところで、日本の芸能のほとんどは信仰に根ざしており、人間世界への神々の来臨を模倣したところから
かみがかり
出発したものが多い。たとえば狂言は「平安・鎌倉時代の記録に見え、神懸して神の言葉を述べるとか、
懸き物がついて狂気な言葉を述べるといった場合に使われている」。また能は「祭礼は神と人との接触する
時で、その時にいろいろな儀式が行なわれた。神と人との精神的なつながりを芸能という形式を通じ、旦ハ体
的に表現して見せたものの一つが能であった」等と説明される(『日本民俗事典』)。辻という場所は霊や神が
集まり、人間にそうしたものがのりうつりやすい特別な地域であるので、神や霊の人間界への来臨からする
と、辻は本来的な芸能の場といえよう。
芸能には正月の萬歳や春駒・大黒舞等のように、客人神・マレビトの形態をとって行なわれるものも多い。
客人神は神が人間の形をして村へ来訪してくるので、人間の通る道を伝わってやってくる。そこで客人神が
最初に村に姿をあらわす場は村境であり、また人間と接する機会の多い場は辻であった。辻や村境で芸能の
行なわれる頻度が高い理由にはこのこともあろう。
こうして元来は霊や神の集まる場所であり、異様なそして恐怖の対象の場であった辻において、それ故に
芸能が行なわれ、またこの芸能を通じて辻において生活の途を求める者も出現した。加えて辻は二つの道の
会する所であるので、道路の他の場所より少なくとも倍は人の往来が激しい区域であり、道路の交差する地
点は交通の要衝にあたることが多い。そこで交通の要衝で人の多く集まる地だという点に着目して、辻を中
心に人が住みつき新たな村が形成され、辻の字を村名に持つ村ができあがっていったと思われる。そうした
ホ 
辻の字を村名に持つ村は中世から多くなるようであり、また姓としての辻もこのころから見られるように
  ソ 
なる。このように古くは恐怖の対象であった筈の辻で芸能が行なわれたり、辻を中心として村ができるよう
になったことは、人々の辻に対する意識に何等かの変化が生じてきたことを示す。結局は辻は人の集まる場
所だという意識が、辻は霊や神の集まる恐ろしい特殊な場所だという意識にうちかっていったのである。
辻に対する右のような意識変化は徐々になされていった。その移行期の様子を伝えているのが、前記の辻
踊・辻勧進・辻談義・辻祓・辻法印・辻羅漢といった語で、これは辻における霊の存在と人間の往来の激し
さの二つに着目していたと思われる。しかし辻と霊や神とを結びつけるような考え方は次第に後退し、やが
て霊や神を意識しない芸能が辻を舞台に行なわれるようになっていった。『日本国語大辞典』からそれに対
応するような語を探すと、
うたい
辻謡路傍で謡をうたい銭を乞うもの。
辻打路傍で興行して往来の人に銭を乞う演芸。
辻絵書路上で絵を書いて見物人から金銭をもらう大道芸。また、その人。
辻歌舞伎「つじしばい(辻芝居)」に同じ。
辻狂言辻に立って滑稽な仕ぐさや、軽業などを演じ、往来の観客から銭を乞うこと。また、それをす
る人。
辻芸人通りの多い道ぼたで演ずる曲芸や軽業。
辻講師辻講釈をする人。
辻講釈町の辻に立って軍談・講談などをして、往来の聴衆から銭をもらうこと。また、その人。
辻芝居道ばたに簡単な小屋掛けをして興業する芝居。
辻浄瑠璃路傍に簡単な舞台をつくり、往来の人を寄せて見せ、投銭を受ける浄瑠璃芝居。
辻相撲民間で随時行なう相撲。
辻能町なかや路傍などで行なう能。乞食能。
辻噺町の辻や社寺の境内などで、滑稽な笑い話などを聞かせて銭を得ること。また、その話。
辻放下路傍や寺社の境内などで寄術や曲芸を演じて、見物人から銭を乞うこと。また、その者や、そ
の芸。
ほうびき
辻宝引正月、「さございさござい」と呼声をかけて人を集め、銭をとって宝引きをさせ、当てた者に
は菓子などを与えるもの。また、その商売や人。
こうした芸能で生活を支えていくためには、相当多くの観客を要したので、これが行なわれたのは主とし
て都市であった。そして都市の辻で右のような芸人が客を集めている模様は、「洛中洛外図屏風」がつぶさ
に伝えてくれる。高津家所蔵のものでは、辻で八打点が演ぜられ多くの観客がこれをとりまいている。東京
国立博物館所蔵のものでは辻で見世物をしており、また辻で風流踊が行なわれているが、その様子は町田家
  ソ
所蔵のものでも見られる。霊を意識しない芸能が盛んになるのは近世なので、「洛中洛外図屏風」がつくら
れる時期からそうした風潮が強まっていったと思われる。なお辻に対する意識は都市だけでなく地方でも同
歩調で変化していったであろう。
ところで、こうした芸能によって生活している者達は、通常は農民とは異なって土地から遊離した人々で
ある。そうした者達が積極的に辻に集まって、ここを生活の場とした理由の一端には、元来辻が霊や神の支
配する特殊な地域であるという思想が広く行きわたっており、辻は人間の力の及ぶことのできない、従って
個人の所有にもかかわらない地であったので、そこに立入ることは誰にでもでき、しかもそこで稼いでも税
を払う必要がなかったこともあろう。換言するなら辻は無縁の場であり、アジール的性格を有して、そこに
 ヨ
入った者も無縁の存在となり、領主の支配から逃れることができたのではなかろうか。加えて辻は一定の広
さがあり、芸をすることも、また観客を周囲に置くこともできた。

五 辻と商業

 岡山美術館所蔵の「洛中洛外図屏風」を見ると、五条の橋をわたった所にある辻で女性が座って物を売っ
ている。また勝興寺所蔵の「洛中洛外図屏風」でも三条通り付近の辻のわきで、同様に女性が物を売って
ゑ 
いる。このように辻という場所と商業との間には密接な関係があった。その模様を知るために、辻という字
を冠する熟語で商業と関係のあるものを『日本国語大辞曲ハ』からひろってみると、
あきない
辻商道ばたで商売すること。また、その人。簡単な店を構える場合もある。大道あきない。つじう
り。
あきゆうビ
辻商人道ばたで商売する人。露店商人。
辻売「つじあきない(辻商)」に同じ。
みせ
辻店道ばたに出した店。大道店。露店。
がある。
 お 
また石川県金沢地方では、「辻」が市場の意味を持つが、市場こそ商行為の行なわれる中心的な場所であ
る。前記「洛中洛外図屏風」からすると、辻が商いの場として特殊な意味を持っていたと考えさせられるが、
石川県の辻の語は直接これとつながる。さらに『改訂綜合日本民俗語彙』は、ツジバシラ(辻柱)について、
「『ひなのあそび』秋田県南秋田郡の條に、馬場目の市神というのは、八角の辻柱を文禄の世の乱に盗み取つ
みち
て、押切の阻に立てた。それをまた五城目に盗んで行き、今もそこに市がある。押切には一日市が立つたと
よりしろ
いい、一日市の名があつたというと記されている。市神の依代となつたものと考えられる」と説明している
が、辻柱の語で明らかなように、辻に立てられた柱が市神の役割をしていることから、辻と市神とはかかわ
りを持っていた。
いちば
そこで次に市神について調べてみると、柳田国男氏監修の『民俗学辞典』は、「市場にまつられ、人々に
サチを与えると信ぜられる神。(中略)円形の自然石が最も多く、また球形・卵形・砲弾形・六角の石柱に
て傘石の付随しているもの・陰陽一対よりなるもの・木製で六角の柱の一本のものなどがある。市神の文字
を刻んだものもある。今日は多くはその町村の神社の境内に残されてあるが、もとは路傍に、しかもしばし
ば往来の障碍になるようなところに立てられていた」と説明している。この記述からして秋田の辻柱は決し
て例外的なものではなく、市神が辻にまつられることは各地にあったようである。またこの説明によれば市
神の神体としては円形の自然石が最も多く、ついで球形、卵形、砲弾形、六角の石柱に傘石の付随している
もの、陰陽一対よりなるもの、市神の文字を刻んだものとのことであるが、こうした神体は道祖神・塞神の
神体に極めて似ている。また市神がまつられている場所も、路傍や往来の障碍になるような所、辻というこ
とで、道祖神や辻神のまつられる場所と共通性がある。
ところで商業をする場として目下問題にしている市の語義を、『日本国語大辞典』は、
①人が多く集まる所。原始社会や古代社会で、高所や大木の生えている神聖な場所を選び、物品交換・会
合・歌垣などを行なった。
②特に物品の交換や売買を行なう所。市場。
③年の市の略。
④市街。まち。
と説明し、その語源説として、
ωイチ(五十路)の義か〔和訓栞・大言海〕。
②イチ(生路)の意〔国語の語根とその分類11大島正健〕。
⑧イチ(商所)の義。アキの反はイ〔言元梯〕。
ωウリミチ(売路)の転〔名言通・日本語原学11林甕臣〕。
⑤イソギタチの約〔和訓考〕。
㈲イルチ(集路)の約〔日本釈名〕。
Gリイルチ(入所)の約〔類聚名物考〕。
㈹イチ(火集)の義〔日本語源11賀茂百樹〕。
㈲イチの古義は山姥や山人が里へ出てくる鎮魂のにわ(場)という意〔翁の発生11折口信夫〕。
をあげている。
右から、市というのは語義的に神聖な場所、特殊な場所と意識されていたこと、語源的には道の集まる場

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がある。
また大間知篤三氏によれば、広島県山県郡中野村では「公という意味でツジという言葉を使っているが、
同行の所有物もツジモノという。ツジ膳・ツジ椀などがあって、深井家が管理しており、集まりの食事には
それを用いる。葬儀の時にもそれが使われる」、「ツジモノといえば共有物である。部落共有にも数人共有に
もいう。大字有ツジダも以前はあって、}部共同耕作に一部小作にかけていた。ツジシゴト・ツジガネ、ツ
ジブ(大字の人夫に出ること)等。その反対はワガコト」と報告してい葡。
辻という語に村の共同.共有の意味が生じてくる理由の一つには、前記のように合計という意味から、村
ごとの石高合計を高辻として支配者側が掌握し、これに従って年貢納入合計が納辻として定められ、村に共
同責任として納入義務が負わされて、辻借のようなことがなされたという、上からの作用があろう。また民
衆の側からすると、村に疫病や不幸を入れないためのツジシメ(辻注連)やツジキリ(辻切)・辻祭・道祖神
祭等は、単に個人の利益や幸福を目的としてなされたのではなく、村人全体の安全と健康を祈ってなされる
もので、こうした行為を通じて村の連帯が意識されていたが、これらの行事の行なわれる場が辻であるので、
辻がそのまま村意識共同体の意識とつながっていったのであろう。さらに、辻に祀られていた諸神や辻堂・
辻社等は、辻という人間の個人の力が及ばない地域にたてられているだけに、個人の所有でなく、共同の管
理におかれており、これが不断に村の共同・共有意識をたかめた。そして辻堂・辻社等が年中行事を村ごと
に行なう中心の場として、また日常の寄り合い等をする場として、村民の紐帯としての場の役割をも持つよ
うになったと考えられる。こうして、上からも下からも次第に辻が村の共同・共有の概念・場として成長し
ていったのである。
辻が共有の広場という概念をも含むようになったことは前記のとおりであるが、そのひとつのあらわれに
辻寄合の語がある。これを中山太郎氏は「遠江積志村では特別に村民が集会して、協議したり、意見を徴さ
なくとも、皆田畑に出て居るので、飯時の帰りや、飯を済まして耕作に出る時を見計らつて、要路に当る辻
 ロ 
に呼び止めては、段々に集つて談合する。之を辻寄合と云ふてゐる」と説明しているが、ここに至って村の
辻は村民にとって会合の広場としての役割を負っているのである。そしてこのような辻に対する意識は、そ
のまま辻が村の子供達の遊びの場所となって、辻遊びの語になったと思われる。
大間知氏の報告した例では既に、「辻」は部落共有・村落共同という意味から出発して、我事(私事)に
対する辻事(公事)という意味だけにも用いられ、村という概念が欠落しつつある状況が知られるが、辻に
は村という意味が消え、次第に単なる共有という意味だけにもなっていった。たとえば『日本国語大辞典』
には、
辻井戸共同で使う路傍の井戸。相合井戸。
辻便所町かどにある便所。公衆便所。
が収録されている。
こうして近世になってからは、古来日本人が辻に対して抱いてきた恐怖心はとり払われ、全く別の共有・
共同の場としての意識ができあがっていった。

おわりに

 本稿では我々が日常生活において何気なく使っている言葉に目を向け、その語義の多様性の中に隠された
歴史を探ろうとして、比較的身近にある諸辞書類を材料に辻という語について考察してきた。その結果を歴
史の中に位置付けなおしてみると、古代においては辻の場所が霊や神の集まる所、霊の支配する地域と考え

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られ、集まった諸霊や諸神を鎮め祀ることがなされていた。また霊や神と交信することによって未来を知ろ
うとして辻で占が行なわれた。一方、辻では霊が遊離しやすくまた逆に霊が他のものにとりつきやすいこと
を前提に、その媒介者として女性が設定され、ここで商業が行なわれていた。

 古代末に悪霊信仰が盛んにな
ると辻での祭も目立つようになり、悪霊を村に入れないようにと塞神・道祖等がより広く尊崇され、村境が
辻と同様の役割を持つ場として大きく意識された。

 中世になると霊や神を鎮めたり救済したりすること、あ
るいは神の来訪を劇化したところから出発した芸能が辻で行なわれるようになり、また商業も盛んになって、
辻を生活の舞台とする人が増加し、古代には恐れの対象であった辻に人間が進出するようになっていった。

 しかし、辻取の習俗や女性の商人が多いこと等に見られるように、まだ必ずしも完全に辻に対する恐怖や特
殊な感情がぬぐい去られたわけではなかった。この間にも民衆は辻祭・道祖神祭や辻を舞台とした諸行事、
辻社や辻堂、辻の石仏等の維持を続け、辻の語には村の共同・共有の意識が強くうえつけられた。

 戦国時代
頃より支配者側が年貢収奪のために辻の語を村ごとの年貢高の合計に用い、その年貢納入を村の共同責任と
したこともあって、近世になると辻という語は村の共有・共同の意味を持つようになり、辻の場は村の共有
の広場へと変わって、古来日本人が辻という場所にいだき続けてきた特殊な意識はほとんどなくなった。

 このように辻に対する日本人の意識は、古代から近世へという歴史の推移の中で大きく変化してきた。し
かも、明治以後の近代化の中で、共同体がくずれ、また神仏に対する信仰が薄れていくに従って、辻に対す
る意識はさらに加速度的に変化してきている。

 今や辻の共同・共有の場としてのシンボル性はほとんどなく
なり、かつて共有の広場であった場所が個人の所有地の中に次々と組み込まれ、また村全体で尊崇し維持し
てきた辻の神々、石仏等が、美術品として一個人の楽しみのために次第に村々から持ち去られつつある。こ
れに対して、昔村であった共同体の側は、辻堂や辻神等を共同体として維持することができなくなり、辻の
石仏等を互いに見守り盗まれないように監視することもなくなった。

 辻に対するいわれのない恐怖や特殊な観念から解き放されたという意味では、右のような現象も確かに歴
史の進歩である。しかし我々の祖先が長い歴史の中で育み維持してきた辻の石仏のような民衆の文化財は、
何らかの形で守っていかねばならない。

 ふと目を転じると、失なわれつつある共同の広場を再度よみがえらせようとするかのように、新たな広場
が各地につくられている。しかしややもすればこうした広場は地域の住民の要請が成果をあげてできたとい
うよりも、行政サイドで設けられ、その後の管理も地域全体で行なっていることは少ない。このような情況
の中で、我々は今改めて辻とはどのような場であるべきかを考える時期に来ているのではないだろうか。

10987654321》王
角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典』4宮城県(角川書店、一九七九)
『角川日本地名大辞典』11埼玉県(角川書店、一九八〇)
『駿河志料』(歴史図書社、一九六九)
『角川日本地名大辞典』16富山県(角川書店、一九七九)
『角川日本地名大辞典』25滋賀県(角川書店、一九七九)
高取正男『民俗のこころ』(朝日新聞社、一九七二)
中山太郎編『補遺日本民俗学辞典』(梧桐書院、一九三五)、『日本民俗学辞典』(梧桐書院、
『遠碧軒記』上
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辻の語が山を意味することは沖縄でもある(『伊波普猷全集』第四巻、卒凡社、一九七四)
1九I11111)

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塞の神が日本の文献に出てくる一番古いものは、『古事記』上巻の、伊弊再尊が火の神を産み、死んで黄泉の国へ逝かれたのを、夫の伊弊諾尊が会いたさに後を追い、死体に驚き逃げ帰るという黄泉比良坂の条である。このなかに、「道返之大神(ちがへしのおおかみ)」とあるが、これは塞の神信仰であり、大石をもって象徴されている。