辻の民俗学

辻の民俗学

笹本正治 「辻についての一考察」から抜粋
『怪異の民俗学 8 小松和彦責任編集 境界p134~170 

一 辻と霊

 古く辻は霊の集まる場所であり、また霊が閉じこめられているところだと思われていた。そして辻では人間の霊魂も体から遊離しやすいと想像されたようである。
 日本人の意識する祖霊の住む所、集まる所としての代表的な場は山の頂であるが、辻には物の突起した頂・頂点・てっぺんの意味もあり、山頂を指し示すことがある。
 辻には方言で山道の合した所という意味もあるが、山頂は尾根道の交わる場所なので、その意味では平地の辻と同じである。甲斐の辻山の場合、南から北へ夜叉神峠・辻山・薬師岳・観音岳・地蔵ケ岳と連なる山名と配置からして、古くはこの山に霊が集まるという信仰があったと考えられる。
 このような祖霊等の集まり住む山頂の辻が、一般の人間の住む場である平地に具現されたのが道路の四ツ辻だと考えられていたのであろう。霊魂・祖霊は年月を経ると神に変わるので、山は霊の住む所であり、かつまた神の座す場所だとも意識されてきたが、この認識はそのまま平地の辻にもあてはめられ、辻には神も住んでいると信じられてきた。
 辻に集まる神や霊は不可思議なものであり、辻は恐怖の対象になっていた。そこで辻では集まった霊や神を慰めたり鎮めたりするための祭が行われてきた。
 辻で迷える霊を導くために、日本的な御霊信仰と仏教がいっしょになって地蔵信仰が盛んになると、地蔵菩薩は釈迦入滅後、弥勒仏の出世するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生を化導するということで、辻に地蔵が立てられるようになった。これが今も各地に残る辻地蔵の起源と思われる。また道端や辻にたてられた仏像や石仏を辻仏という(『日本国語大辞典』)が、これも同様の効果を期待してつくられたといえよう。
 このような、辻には霊が集まり住み、またおしこめられているという信仰は、日本にだけみられるものではなかった。

二 辻と疫病

 辻は霊の集まり潜む特殊な場であったが、集まり来る霊は悪鬼とも善鬼とも、また種々様々な妖怪、さらには神とも思われていた。
 
 淡路の三原郡昭島村(南淡町)では、四辻に出る妖怪をツジノカミと呼ぶが、これは辻に潜む霊を妖怪と意識したのであろう。
 このように辻に住む霊の中には妖怪として姿をあらわし、場合によってはとりついて災厄を加えたりする等、人間への働きかけをするものもあると考えられていた。

 こうした災いをもたらす悪霊を鎮め、災厄から逃れるためにいくつかのまじないが辻でなされた。その一つの辻舞について中山太郎氏は、「相模足柄下郡宮城野村では、七月十四日の盆の夜に、諏訪神社の獅子舞を『おかがり』と称して行ふが、それは村民が寝静つた夜中に、村の辻辻を舞ひ廻る。之は悪魔除である」(『補遺日本民俗学辞典』)と述べている。辻舞は盆行事であり、盆という霊の活動の盛んな時期に霊の集まる辻において、しかも霊の活躍する時間である深夜に舞をすることによって、霊をなぐさめ悪霊のもたらす災いを避けようとしたことに他ならない。

 辻に潜む悪霊の一部は病気をもたらしたが、霊は人間の通る道を使って辻に集まってくるので、病気をもたらす霊も辻を中心にしながら移動すると思われていた。移動する悪霊がもたらすということで大きな注意が払われたのは疫病であった。疫病の流行は前近代においては村の存亡にかかわりかねなかったので、その対策は村全体としてなされた。村に疫病を流行させないためには原因となる悪霊を村に入れなければよいとして、道を伝わってやって来る悪霊を村の入口で追い返すための呪術が行なわれた。

 『古事記』では黄泉比良坂(よもつひらさか)のイザナギ・イザナミ両神の離別に際し、千引石を引き塞えて黄泉国との間を遮り、その石を道反之大神(ちがへしのおおかみ)・塞坐黄泉戸大明神(さやりますよみどのおおかみ)と呼んだとあり、この世に災いをもたらす死霊が道を伝ってやってくるのをさえぎるために塞神(さいのかみ)が設けられたことを伝えている。

 悪霊を村に侵入させないという発想法は、現在でもツジキリ(辻切)やツジシメ(辻注連)等といった習俗で残っている。これらは道切などとも呼ばれ、「疫病神や魔性のもの、村の平安を乱すものがほかから侵入するのを防ぐために、村境・部落の各入口などに張られるシメ縄。村・部落の全戸が参加した共同呪願のひとつ。春秋の村祈祷のあとなど、毎年日を定めて張りかえられるものと、隣村などに疫病がはやったとか、またすでに部落内にも伝染してきたが、それを送り出す行事をしたあととかに張られる、臨時的なものとがある。(21)」等と説明され、村の入口に大わらじや悪臭のものを吊したり、祈祷札を張ったりするのも同じ意図からなされている。朝鮮では村の入口にチャスンという神像が置かれているが(22)、これも同様の役割を持つであろう。

 不幸にして村に入り込んでしまった疫病神・悪霊等を村外に送り出すにあたっても、辻や村境は特別な意味を持つ場所であった。疫病送りに「さん俵に赤紙を敷いて、起上り小法師二つと小豆飯をのせて、村境や四辻に持って行き置いてくるという呪法は、全国的」(大塚民俗学会編『日本民俗辞典』)に見られる。

三 辻と占

 辻に集まってくる霊や神は、必ずしも悪いものだけでなく、人間に幸福をもたらしたり、未知のことを教えてくれたりするものもあると考えられていた。そこでこうした霊や神と交信して、その力をかりていろいろな物事の判断をしようとした。その代表が辻占である。

まとめ

 古代においては辻の場所が霊や神の集まる所、霊の支配する地域と考えられ、集まった諸霊や諸神を鎮め祀ることがなされていた。また霊や神と交信することによって未来を知ろうとして辻で占が行なわれた。一方、辻では霊が遊離しやすくまた逆に霊が他のものにとりつきやすいことを前提に、その媒介者として女性が設定され、ここで商業が行なわれていた。

 古代末に悪霊信仰が盛んになると辻での祭も目立つようになり、悪霊を村に入れないようにと塞神・道祖等がより広く尊崇され、村境が辻と同様の役割を持つ場として大きく意識された。

 中世になると霊や神を鎮めたり救済したりすること、あるいは神の来訪を劇化したところから出発した芸能が辻で行なわれるようになり、また商業も盛んになって、辻を生活の舞台とする人が増加し、古代には恐れの対象であった辻に人間が進出するようになっていった。

 しかし、辻取の習俗や女性の商人が多いこと等に見られるように、まだ必ずしも完全に辻に対する恐怖や特殊な感情がぬぐい去られたわけではなかった。この間にも民衆は辻祭・道祖神祭や辻を舞台とした諸行事、辻社や辻堂、辻の石仏等の維持を続け、辻の語には村の共同・共有の意識が強くうえつけられた。

 戦国時代頃より支配者側が年貢収奪のために辻の語を村ごとの年貢高の合計に用い、その年貢納入を村の共同責任としたこともあって、近世になると辻という語は村の共有・共同の意味を持つようになり、辻の場は村の共有の広場へと変わって、古来日本人が辻という場所にいだき続けてきた特殊な意識はほとんどなくなった。

 このように辻に対する日本人の意識は、古代から近世へという歴史の推移の中で大きく変化してきた。しかも、明治以後の近代化の中で、共同体がくずれ、また神仏に対する信仰が薄れていくに従って、辻に対する意識はさらに加速度的に変化してきている。

 今や辻の共同・共有の場としてのシンボル性はほとんどなくなり、かつて共有の広場であった場所が個人の所有地の中に次々と組み込まれ、また村全体で尊崇し維持してきた辻の神々、石仏等が、美術品として一個人の楽しみのために次第に村々から持ち去られつつある。

塞の神の最古文献『古事記』上巻 五 黄泉の国 黄泉比良坂の条

『古事記』 黄泉比良坂伝説(よみのひらさか)
 イザナギは亡くなった最愛の妻イザナミの跡を追い、死者の国である黄泉に行きます。イザナギが妻を呼ぶと、
「わたしはもう黄泉の国の食べ物を食べてしまった。でも、帰りたい。黄泉の国の神に相談します。その間は決してわたしの姿を見ないでください」と言って、御殿に帰りました。
 イザナギは御殿に入りました。そこで、待っても、待ってもイザナミは現れないので、灯火をかざしてみると、体にウジ虫がわき、
「頭には大雷(おおいかづち)居り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には析雷(さくいかづち=物を裂く)居り、左の手には若雷(わかいかづち)居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷(なるいかづち)居り、右の足には伏雷(ふせいかづち)居り、併せて八の雷神成居りき」
 と言うふた目と見られぬイザナミの姿をみてしまいます。
 イザナギは逃げ、怒ったイザナミは、よもつしこめをもって追いかけます。
 そこで、イザナギは黄泉比良坂にあった巨大な千引(ちひき)の岩で道を塞(ふさ)ぎます。
 この岩が道返之大神(ちがへしのおおかみ)で、塞の神信仰のもとになっています。