近代を生きた人びと

近代を生きた人びと

3自由民権運動

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ができる。集合条例などで、少しずつ自
由な言論が狭まってきていることを批判
している。「小学教員ハ准官吏ト云フコ
トニ愈々取極メラル・様子二付、其時ハ
生ハ断然辞職ト相決」するのだと。官吏、
つまり公務員の政治的集会参加禁止への
千葉なりの反発声明である。θは深沢権
八宛の長文の箇条書きの手紙であるが、
その一部分を紹介してみよう。
〔史料10〕
一弊居、村山狭山村円乗院こて本月
廿五日二自由親睦会相開き、嘆鳴社
諸君を相招き候間(中島君ハ越後路
へ御出二付、不得止)、御都合次第
御責臨を仰き候
前述したように九月二十五日に開催が
計画されている「自由親睦会」(自由懇
親会」には千葉もかかわり、深沢らに出
席を要請していることがわかる。千葉に
とっては五日市に続く民権運動へのかか
わりで、まして彼自身がピークともいえ
る時期での接触であることを思えば、奈
良橋を中心とした民権運動は、この地域
で先頭を走る鎌田喜三と五日市の運動の
熱源をそのまま持ちこんだ千葉卓三郎と
いう二つの異色の個性がぶつかりあって、
新しいエネルギーを生みだしたともいえ
るのである。

⑤千葉卓三郎の演説草稿

 次の史料は筆者の記載と日付等はない
が、九月二十五日の「自由懇親会」での
演説草稿と推測することも可能である。
場合によっては、この時、奈良橋村の鎌
田の家にいて鎌田らとこの懇親会開催に
尽力をそそいでいた千葉の草稿であるか
もしれない。文章に勢いがあることもま
た、千葉を推測させる要因となる。
〔史料11〕

 諸君ヨ、我々ハ今日此ノ自由懇親
会ヲ該地二開カント欲シ、新聞紙二
広告シ、又檄ヲ有志ノ伸士へ送リテ
招待セシトコロ、諸君ハ霜雨ニシテ
道路ノ悪シキモ厭ハズ、又饗麺ノ粗
ナルヲモ嫌ハズ、陸続来会セラレシ
バ、実二我々二於テ辱クセリ、抑モ
我々ガ此会ヲ開キシ所以ハ、自由ノ
理明カナラザレバ民権起ラズ、民権
起ラザレバ自治ノ気象振ハザルナリ、
自治ノ気象振ハザレバ知識焉ンゾ進
ムヲ得ンヤ、故二諸君ノ既二知ラ
ルルトコロノ嚶鳴社員、赤羽、渡辺
ノ両君ヲ饗シ、我地方ノ有志者ヲ鼓
舞セシメ、併セテ両君ト主義ヲ同フ
セラルル諸君ト共二懇親ヲ結バント
欲スルガ為ナリ、而シテ我々ガ今弦
二両君ヲ招待セシハ決シテ他ニアラ
ズシテ、唯両君ノ執ラルルトコロノ
主義、我々ト同シキヲ以テナリ、諸
君試二見ヨ、今日三府三十七県、所
トシテ自由ノ声アラザルハナク、地
トシテ権理ノ光ヲ放タザルナク、又
如何ナル僻阪ノ地ト雖ドモ、速二国
会ヲ開キ、立法ノ大権ヲ人民ノ手二
掌握セシメント欲セザルナキハ、実
二両君ノ誘導ニョリテナリ、此レ則
チ我々ガ此ノ宴ヲ開キ有志諸君ト共
二懇親ヲ結バント欲スル所以ナリ、
謹テ渡辺、赤羽ノ寿ヲ為ス如此

 そもそも自分たちがこの会を開くのは、
「自由ノ理明カナラザレバ民権起ラズ、
民権起ラザレバ自治ノ気象振ハザルナリ、

自治ノ気象振ハザレバ知識焉(いずく)ンゾ進ム
ヲ得ンヤ」という気持ちから出発してい
るのだという。「自由ノ理」↓「民権」
↓「自治ノ気象」というコースが明確に
示され、いまや全国どこでも「自由ノ
声」がないところはなく、「権利ノ光」
を放っていないところはないと強調して
いる。その実現の場として「国会ヲ開キ、
立法ノ大権ヲ人民ノ手二掌握」できるよ
うになるためにこそ、この懇親会がある
のだと説く。

 国会開設と「立法ノ大権」を結びつけ
ているところなど、千葉の論理である。
こうしてみてくると、この地域の自由民
権運動は内野杢左衛門らの動きとともに、
奈良橋村の鎌田らを中心とした動きにも
注目しておく必要がある。その陰の中核
に千葉卓三郎の存在があることも指摘し
ておきたい。

 同年十一月二十一日には、今度は奈良
橋学校で懇親会が開催され、「村山郷」
といわれている地域十六か村の有志者た
ちが集まって、申し合せ規約なども作成
して継続的な活動を展開する動きをみせ
ている。そこには埼玉県入間郡からの参
加もあり、運動の拡がりを示している。

とくに所沢地域の民権運動とはネットワ
ークのようなものもできあがっており、
お互いに刺激をうけあっている状況が生
まれていた。