連合戸長役場跡(東大和市高木)

連合戸長役場跡(東大和市高木)

 高木神社・塩釜神社の正面向かって右側に、土蔵と社務所があります。この地には、明治の頃、市役所の原型とも云える「番組会所」(明治6年)、「連合戸長役場」(明治17年)、「組合村役場」(明治22年)、「大和村役場」(大正8年)が置かれていました。土蔵は当時の書庫が残されたものです。
 今回は連合戸長役場について紹介します。東大和市旧跡として市の文化財の指定がされています。
 少し離れたところに市の説明板があります。
説明板
東大和市旧跡 高木村外五ヶ村連合戸長役場跡
所在 東大和市高木二丁目一○六番地
指定 四十九年九月二十日
 明治十七年(1884)町村制度の大改正が行われ、それまで村ごとに選出されていた戸長を、五百戸を基準として連合した地域に、一人の官選の戸長をおくことになった。この地域では高木、清水、狭山、奈良橋、蔵敷、芋窪の六ヶ村を一区域として任命された戸長が明楽寺におかれた戸長役場で事務を執った。
 旧六ヶ村をまとめて一区域とすることにより、ほぼ現在の東大和市域が形づくられたと言える。今は当時の建物も大部分は失われたが、東大和市の原形をつくりあげた最初の役所跡として、歴史的に重要な遺跡である。(東大和市教育委員会掲示)
これまでの経過
 「連合戸長役場」が置かれたことは、それまでの村の運営とは違った大きな変更がありました。その経過です。
・明治4年(1871)の廃藩置県を皮切りに、地方制度が整備され始めます。
 韮山県と品川県が入り交じっていた東大和市域もようやく整理されて、同年12月、神奈川県に属しました。
・明治6年(1873)、神奈川県は県内を20区に区分し、区に番組を設定しました。その「十番組」の会所を設けたのがこの地でした。
 地元では「明楽寺会所」と呼びました。
 詳しくは、「相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立(明治2年・1869~3年・1870)」「明楽寺の番組会所」を参照下さい。
 その後、
・明治11年(1878)、神奈川県は郡制を導入して、東大和市域の村々は「北多摩郡」に属しました。
・明治12年(18793月、東大和市域の各村々に戸長が置かれました。そして、同年、村議会が設けられて議員が選挙によって選ばれました。
 村に「自治」が芽生えてきます。
・明治14年(1881)、国会開設、憲法制定を求めて各地に演説会・懇親会が開かれ、自由民権運動のうねりが起こります。
 「自治改進党」など政治結社の結成も進みました。
明治14年(1881)9月狭山円乗院で開催された自由民権懇親会の広告 クリックで大

これらの動きを封じ込めるかのようになされたのが、今回の変更です。
新しい制度・連合戸長役場(明治17年)
・明治1757日、政府は「区町村会法」を全面的に改正し、町村制度を改めました。
 ・戸長は官選、町村会は議決事項が限定
 ・議案の発案権は戸長に限定
 ・議員の選挙権、被選挙権は地租納税者に限定
◎自由な地方自治ではなく制限された自治と呼ばれます。神奈川県の対応です。
明治17年(1884)6月18日、法改正を受けて、神奈川県は「戸長推挙規則」を定めました。
 ・各村ごとに選出されていた戸長を、500戸を基準に1人とする
 ・複数の町村を連合させる
 として、次の布達を出します。
 「来る七月五日限り各郡従前の戸長役場を廃し、
  更に戸長所轄区域及び役場位置を部冊の通り定めたので布告する」
 有無を言わさずの強引さです。
 「七月五日限りで従前の戸長役場を廃止」はきついです。
◎この改正の主な目的は、地方税・区市町村費の削減、事務渋滞の解消とされます。
 自由民権運動に沸いた「自治の道」の統制とも受け取れます。
・明治17年(188471日、東大和市域の芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の村々で「高木外五ケ村連合」を構成しました。
・「連合村会」が形成されました。
・明治17年(1884)7月5日、これまでの一村限りの戸長は廃止されました。
・連合戸長には、狭山村の関田粂右衛門が選任され、高木村の明楽寺に事務所「連合戸長役場」が置かれました。
 北多摩郡には21ヵ所の連合戸長役場が設けられています。
◎この変更を村人達はどのように受け入れたのか、とても残念ですが資料を目にすることが出来ません。
明治17年(1884)当時の東大和市域の村 クリックで大
制度改正の背景
制度改正の背景を東大和市史は
・松方デフレ政策を契機とする混乱
・諸物価の急激な下落による深刻な不況
・村民が没落、町村費の滞納増加、町村財政の危機
をあげ(p257)、
武蔵村山市史は
・町村から自由民権運動の影響を排除
・そのため、町村会の権限を縮小
・中央集権的な行政の末端機関とする
と指摘します(通史編下p130)。
自由民権のエネルギーはどのようになったのか知りたいです。
明治12年(1879)高木村歳出予算 国に納める税40.4%、小学校費32.4%、道路関係費13%でほとんどが占められている。
クリックで大 

戸数、人口はどれくらい
 明治時代の人口は現在調査中です。明治7年(1874)の状況は下記の通りです。
幸いなことに、明治13年(1880)の蔵敷村の人口が記録されています。(明治十三年蔵敷村村誌)
戸数は60戸 男175人 女190人となっています。
6年間に僅かの増加であることがわかります。各村の状況もほぼ同様な推移であったと考えています。
連合戸長役場のその後

連合戸長役場は、次のような経過を経て、昭和15年(1940)まで同地に存続しました。

明治22年(1889)6月、神奈川県高木村外五ヵ村組合村役場 
明治26年(1893)4月、東京府北多摩郡高木村外五ヵ村組合村役場
大正8年(1919)11月、大和村役場(芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の6ヵ村が合併し大和村となりました)
昭和15年(1940)3月、奈良橋(現・奈良橋地区会館の位置)に新庁舎を建設し移転
の経過を経て廃止されました。

僅かに残された土蔵ですが、この前に立つと、自治の芽生え、統制、近代の村への歴史のうねりが秘められていて、圧倒されます。

(2018.10.04.記)
明楽寺番組会所
連合戸長役場が置かれるまでの経過(前史)

 この地に連合戸長役場が置かれるまで、様々な経過があり、役割を果たしてきました。年表で整理します。
・明治5年(1872424日、政府は、江戸時代から続いてきた
 「庄屋、名主、年寄等はすべて廃止し戸長、副戸長と改め、これまでの事務をすべて引き継ぎ、土地人民に関することは一切取り扱うべし」
 との布告を出しました。
◎従前の村役人は廃止されました。
 新しい戸長、副戸長の最初の仕事として戸籍の編成の仕事を担当することになりました。
 しかし、村の上には戸籍編製のための戸籍区が設けられて、東大和市域の村は
 神奈川県第50区=蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部、清水村
 神奈川県第51区=芋窪(久保)村
 のように、数ヵ村が集まって広域に定められていました。
 そのため、東大和市域の各村々では江戸時代の方式が引き継がれました。
・明治6年(1873)4月、神奈川県内は20区に区分され、区に「番組」が設定されました。ここで、
 蔵敷村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、宅部村、清水村と芋窪村が一緒になって神奈川県第十一区第十番組が成立しました。
◎その会所として、明楽寺の建物が使用されました。戸長には内野杢左衛門、副戸長に高木村の宮鍋庄兵衛が任命されました。
 もともとは寺子屋が開かれていました。
◎この当時の人口は明らかではありませんが、明治7年人口は下表の通りです。

71日、高木村ほか5か村を連合し(各戸長役場廃止)連合戸長役場を高木村の明楽寺におく。
 戸長官選となり、初代連合戸長に狭山村関田粂右衛門氏が任命される。連合村が成立する
・秩父事件おこる。武相困民党活動。この頃農村の疲弊深刻となる

・明治11年(1878)、郡が設けられ、その下に町村が置かれました。
 東大和市域は北多摩郡となりました。
 例えば高木村の場合、神奈川県北多摩郡高木村と表示しました。
・明治12年(18793月に、東大和市域の各村々に戸長が置かれました。
 明治12、村会議員が選挙によって選ばれました。
◎しかし、財政力を伴わない村は独自の仕事までまわらず、税の徴収と戸籍事務が中心でした。

現説明板
 明治十七年(1884)町村制度の大改正が行われ、それまで村ごとに選出されてい戸長を、五百戸を基準として連合した地域に、一人の官選の戸長をおくことになった。この地域では高木、清水、狭山、奈良橋、蔵敷、芋窪の六ヶ村を一区域として任命された戸長が明楽寺におかれた戸長役場で事務を執った。
 旧六ヶ村をまとめて一区域とすることにより、ほぼ現在の東大和市域が形づくられたと言える。今は当時の建物も大部分は失われたが、東大和市の原形をつくりあげた最初の役所跡として、歴史的に重要な遺跡である。(東大和市教育委員会掲示より)
 
旧説明板
明治十七年、町村制度の大改正が行なわれ、それまでの數ヶ村を一区域とする行政区画が定められ、官選の戸長がこれを管轄し旧高木、清水、狭山、奈良橋、蔵敷、芋窪の六ヶ村を管轄する事務をとった。
旧六ヶ村をまとめて一区域とすることにより、ほぼ現在の東大和市域が形づくられたと言ってよい。今は当時の建物も大部分は失われたが、東大和市の原形をつくりあげた最初の役所跡として、歴史的に重要な遺跡である。(東大和市教育委員会掲示より)
 
12 高木村外五ケ村連合戸長役場跡
明治17(1884)年の町村制度の改正に伴って清水・狭山・奈良橋・蔵敷・芋窪の6か村が連合組織をつくりこの地で連合村に関する仕事が行われました。現在の東大和市の母体となった組織の役場であり、市の歴史の節目を伝える場所として市旧跡に指定されています。現在は高木神社の社務所として新しい建物になっていますが、西隣の土蔵は当時書類庫として使われていたものです。
もともとは、高木神社の別当であった明楽寺があった場所でもあります。

市ホームページ

明治17(1884)年に高木村外五ケ村連合村会(東大和市の前身)ができたとき、連合戸長役場が置かれました。
 今は、書類入れだった土蔵だけが当時の面影をとどめています。
 高木神社ではかつて、獅子舞が行われていました。使用していた獅子頭は、江戸後期のものとされています。
 境内には安産を祈願する塩釜神社もあります。