金子十郎家忠の墓
家忠は保元の乱(1156年)や源頼朝の挙兵(1180年)などを中心に活躍した鎌倉初期の武将である。19才で保元の乱に出陣して敵の大将鎮西八郎の部下で鬼神といはれた高間三郎、四郎を討ち、その名を天下にひびかせた。
治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵のときは畠山重忠とともに衣笠城を包囲して三浦大介義明を討破った。この戦で家忠は身体に21本の矢をうけたが、それにひるまず戦功を重ねた。また源義経に従って多くの戦巧をあげ、武蔵、伊豆、下総の地頭を歴任した。家忠が30才になった仁安3年(1168年)に社殿を造営して武運長久を祈ったが、これが白髭神社の始めだといわれている。
保延4年(1138年)に生れ建保4年(1214年)2月17日にこの世を去っている。
昭和43年3月
入間市教育委員会
木蓮寺長寿会
金子氏一族の宝篋印塔の案内板もあります。
金子氏一族の宝篋印塔 付位牌
市指定史跡
指定年月日 昭和47年10月20日
瑞泉院を開祖した金子十郎家忠は、武蔵七党の村山党に属し、保元の乱より壇ノ浦に至る源平合戦に加わり数々の戦功をたてた。
瑞泉院には6基の宝篋印塔と家忠の印号法名の記された位牌が残されている。この宝篋印塔は、造立年代、造立者、供養を受けた人など明確ではないが、家忠とその一族を偲んで造立されたと考えられる。
位牌は、銘文が上下2段に金泥で書かれている。上段中央に金子十郎家忠の印号法名、右に弟
親範、三男高範、左に長男家広、嫡男家繁、下段には家忠の妹のほか高範を除く4人の夫人の法名が記されている。またそれぞれの名の右には没年と俗名と続柄が記されている。
この位牌の製作年代は不明であるが、形式からみて江戸時代のものと考えられる。
平成4年12月1日
入間市教育委員会 入間市文化財保護審議委員会