鎌田喜三郎
③鎌田喜三の軌跡
ところで、この円乗院を会場にした「自由懇親会」の開催にあたっては、二人の人物に注目しておく必要がある。一人は発起人の鎌田喜三(蔵)である。かれは、鎌田喜三郎としげの間の長男として、文久二年(一八六二)四月二十日に生れた。すぐの弟が喜十郎(慶応元年十一月九日生)、三男が弥十郎(明治元年八月十七日生、五日市町の岸家へ養子に入る)である。喜三には簡単な履歴が残っている。
〔史料9〕
(前略)幼名ヲ喜三ト称セリ、故アッテ訥郎ト改ム、鎮○ト号ス、九才ニシテ村塾ニ入リ漢書及ビ習字ヲ研究ス、十五才ニシテ東京ニ留学セシコトヲ欲シ、人ヲ以テ父ニ乞ヒシモ、留学生ノ風習悪シキヲ患ヒ、早キヲ以テ名トシ免サレズ、然レドモ其念慮禁スル能ハズ、窃ニ父ノ金ヲ奪ヒ、夜ニ乗ジテ東京ニ逃走セリ、是ニ於テ始メテ○サル、高林○峰ノ門ニ入リ漢書及ビ習字ヲ研究ス、幾何モナクシテ同門ヲ辞シ、同人社ニ入リ、英学及ビ漢書ヲ研究ス、夫ヨリ明治法律学校ニ入リ法律学ヲ研究ス、留学スルコト都合五ヶ年、明治十四年、板垣伯自由党ヲ組織スルヤ進ンデ同(推定)党ニ(加)盟セリ
(明治十)(推定) 六年 、撰レテ村会(議員)(推定) トナル
明治十七年、自由党大会ヲ大阪ニ開クニ当リ、神奈川県ノ惣代トナリ、石阪昌孝氏ト輿ニ同会ニ臨メリ
全国ノ輿論井上外務大臣ノ條約改正案ニ反対セシトキ、神奈川県ノ輿論モ反対セリ、之レガ建白書ヲ元老院ニ捧グルニ当リ、撰レテ石阪昌孝氏ト與ニ神奈川県武蔵郡ノ捧呈委員トナレリ、
有志家ノ交通ヲ便ナラシメンガ為メ、同志ノ士ト明治(二一年)(推定)、横浜二神奈川県通信所ナルモノヲ設ク、後改メテ神奈川県倶楽部トナス、撰レテ之レガ常議員トナル
廿二年七月、撰レテ県会議員トナル
廿三年十一月、村山倶楽部ヲ設立セシモ政社法ノ為ニ解散セリ
廿三年三月、撰レテ予備常置委員トナル
廿三年七月、常置委員トナル
廿三年九月、立憲自由党ヲ組織セシヤ、進ンテ同党二加盟セリ
同主義者間ニ二政社非政社ノ論起ル終ニ纏ラズ、非政社派分レテ大同協和会ナルモノヲ起セリ、大ニ之レニ左祖シ同会二入レリ
板垣伯同主義者ノ分離ヲ患ヒ、□□□□(カケ)友懇親会ヲ開キ、□□□□□(カケ) 試ミシモ纏ラズ(後欠)
つまり、明治十九年(一八八六)十二月に、同村に同姓同名の者がいるので鎌田喜三から訥郎に改名した喜三は、幼いころから学問に対して旺盛な態度を示し、十五歳の時というから明治九年(一八七六)、東京への留学を強く意識するようになった。父に反対されながらも強引な手段を使って「東京ニ逃走」する。このことでついに父も折れることになるが、上京した彼の情熱はますます燃えあがっていった。高林の門下生となって漢書と取り組むことからはじめて、中村正直が主宰する有名な同人社に入り、はじめて英学に触れる。さらに明治法律学校に入学して法律を修める。都合五か年に及ぶ東京での学生生活は、当然ながら彼を新しい知識と世界に開眼させた。いま、この社会にどんな新しい風が吹いているかを直接、肌で感じて帰郷する。
村での自由民権学習の指導的役割を果すようになるのも、自然の成行きだった。以後の民権家としての活躍は、この履歴書にある通りである。
(東大和市史資料編10 近代を生きた人びとp63~64)
御用宿を担当していた
里正日誌10p419
明治2年6月5日
奈良橋村御用宿鎌田喜三郎方
ウキペデイア
江戸時代では、農村は農民の居住空間であり、支配階級である武士は基本的には農村周辺にはいなかった。そのため、何らかの公事訴訟を起こす必要が発生した時、農民は江戸の奉行所や、領主のいる陣屋や城下町に出向き、公事の手続きをしなければならなかった。
公事宿は、そうした農民たちのための宿泊施設を提供した。そして、彼らが役所に提出する願書や証文、訴状など諸々の書類の作成・清書、手続きの代行や、弁護人的な役割もこなした。他にも御用状や触書、差紙(さしがみ)[2]などの公式文書の町村への通達、手鎖をかけられた未決囚の宿預も行った。
公事宿は、役所と町村の公事訴訟の手続きが円滑に行われるよう、仲介・取次をする役割も担っていた。また、幕府は逗留する訴訟人の監視の役を公事宿に担わせ、訴訟人が私用で外出する際の行先確認を義務づけ、宿泊したことにして店借りをすることや縁者等の元に身を寄せることを禁止した[3]。
公事訴訟の役割を担う存在として、他に腰掛があった。腰掛は、奉行所に召喚された者の控え所で、普通は茶屋を営み、審理を待つ訴訟人や付添いの公事宿主人などに湯茶、敷物、草履、筆紙などを売って業とした。公事宿同様に営業株があり、奉行所や腰掛の草取りや掃除などの雑用をした他、腰掛で審理を待つ訴訟人の白洲への呼び込みや、差紙を公事宿に届ける使いの役も果たした。
江戸では、公事宿に滞在中の公事費用やその他の諸雑費の負担は公事方御定書に明記されており、村の責任で訴訟がおこなわれる場合は村の負担となり村人の持高に応じて拠出、村人個人の利害と責任で行われた訴訟の場合は当人の負担となった。当人に責任負担能力のない場合は親類、五人組に対してその持高割で拠出させる。