鎌田喜十郎
石井道郎 戸倉物語p74
実は今一人、死後まで卓三郎を慕った若者がいた。それは、千葉が明治十四年五月、五日市を飛び出してから、家庭教師をした北多摩郡奈良橋村の豪農鎌田家の二男坊喜十郎で、その当時十六才。
卓三郎はこの若者の知的な渇えを癒してやったものとみえる。接触した正味の期間は何か月でもあるまいのに喜十郎は生涯卓三郎を我が師と仰ぎ法律の修学を志した。不幸にして彼もまた結核で天折しているが、鎌田家では、その遺言にもとづき墓に千葉の名を刻んだ。
東大和市奈良橋の雲性寺にある鎌田家の墓は昭和五年に建てられたが、いかにも豪農の墓らしくニメートルを超える巨石で、その正面は鎌田家累代之墓とあり、その側面に喜十郎の戒名がある。そして戒名の傍に「千葉先生仙台之人」と刻まれている。
墓を作った時の当主は既に千葉が何者であるかを知らない。しかし若くして死んだ喜十郎の遺言だけは伝え聞いていた。それは「私の名にならべて千葉先生の名をほってくれ」ということであった。自分の死の原因ともなった師を、このように追慕する心根は哀れである。卓三郎には一種の教祖的な引力が備なわっていたとみえる。