鎌田弥十

鎌田弥十

あきる野市ゆかりの人 p8

 明治元年(1868年)、北多摩郡大和村(現在の東大和市)に生まれる。叔母の嫁ぎ先の五日市町の岸家の家督を継ぎ、忠左衛門を襲名する。
 岸家は炭問屋のかたわらそうめん製造を家業としていた。明治32年(1899年)には西多摩郡会議員に選ばれ、政治的経験も培われていった。
 忠左衛門の伝記によると、会議のときも午前2時には起きてそうめん作りの仕事を終えてから、山道をワラジ履きで青梅まで通っていた。当時の交通手段は、馬車か人力車だったため、会議などたびたび訪れる青梅には、鉄道や電気が引かれるのを見て忠左衛門は五日巾にも欲しいと痛感した。
 その後、秋川流域の有力者の協力を得て、秋川水力電気会社を設立、大正5年(1916年)に電灯をともすとともに、五日市に水道の給水を開始させた。
 大正10年(1921年)五日市鉄道株式会社を設立し、大正14年(1925年)に五日市~拝島問を開通させ郷土の近代化に尽力した。
 昭和10年(1935年)7月31日、68歳で逝去。町葬をもって、その功績を称えた。
 阿伎留神社には、功績を称え岸忠左衛門翁像が設置されている。
〔参考文献〕「秋川流域人物伝」・「郷土に光をかかげたひとびと」・「多摩のあゆみ」・「五日市町史」

石井道郎 父が語る五日市人のものがたり p194~
第二一話 電気と鉄道
若き日の地方政治家

鮎子 五日市に電気がついたのは、いつ?
父  大正五年の末だ。
杉夫 遅い方、早い方?
父  青梅が明治四四年だから、遅い方だが、まあまあのところかな。五日市はいつも青梅の後を追いかけているんだが、鉄道などはひどい差をつけられた。青梅鉄道が明治二七年開通したのに、五日市鉄道は大正一四年だ。
杉夫 どうしてそんなに遅れたのですか?
父 要するに経済力の差だ。青梅鉄道は石灰石をセメント会社に売るため、早く出来た。「青梅線人より石を大事にし」と皮肉られたが、電気と鉄道は地域の近代化の要で、ど
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こでも目の色をかえて競いあったものだ。
杉夫 国とか東京府とかで面倒をみないのですか?
父  いやとんでもない。自分のことは自分でやらなければならない時代だ。それに金融機関も弱体で頼れない。公共事業が成立する条件として、金と人と時(タイミング)が合う ことが必要だが、その三要素を統合する人物が、「郷土近代化の指揮者(コンダクター)」といえる。五日市にその役を演じた人がいた。岸忠左衛門(明治元=一八六八~昭和一〇=一九三五)だが、今回は彼を中心に話をすすめよう。
杉夫 阿伎留神社に銅像がある人ね。
父  彼は五日市の人ではない。北多摩郡奈良橋村(現東大和市)の鎌田家の三男で、叔母の嫁ぎ先五日市町下町の岸家へ養子に来た。鎌田家は藍玉で産をなした、豪農の部に入る地主で、これは余談になるが、明治一四年の一時(ひととき)、千葉卓三郎が家庭教師に入ったことがある。鎌田家の二男喜十郎が卓三郎に私淑し、若くして核結で死んだが、千葉先生の名を私の墓に刻み込んでくれと遺言した。鎌田家の墓は奈良橋の雲性寺にあるが、いかにも豪農の墓らしくニメートルもある巨石だ。その側面に「千葉先生仙台の人」と肩に刻んだ喜十郎の戒名がある。
杉夫 自分の病気の原因かも知れない人を、そんなに慕うなんてー。運命的な出会いだっ
たんですね。
鮎子 忠左衛門は教わらなかったの?
父  当時弥十といった彼は一四歳、次兄喜十郎は一六歳。この違いは大きい。一六歳なんて一番影響をうけ易い年だ。喜十郎は法律の勉強中に死んだ。鎌田家では千葉が何者であるかを全く知らなかった。弥十は東京へ出て、一五歳から一八歳まで三年間、日本橋の高島学館で学んだ(町長就任時提出した履歴書による)。そして明治一八年岸家へ入
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り、夭逝(ようせい)した先代の世襲名忠左衛門を名乗った。岸家は屋号を寿美屋といったが、かつての炭問屋だ。おそらく炭屋兼そうめん屋の兼業が主業となったものだろうね。
鮎子 お大尽の家ではないわけね。
父  大通りに店を構えてはいるが、持山一つあるわけでなし、今でいえば零細企業主だ。昔はそば、うどんはそれぞれの家で手造りしたが、そうめんだけは買った。そうめん製
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造は寒中の仕事で、朝二時起きをした。二人一組で午前中に仕上げる。寒(かん)にかぎるというのは、油をぬって延ばすので、温度が上ると油の臭いが残る。寒に造ったものを盆までねかし、盆に売る。
杉夫 職人さんは夏は何しているのですか?
父  職人たちは行商をしたり、旦雇い仕事をして過ごし、寒くなったら戻ってくる。忠左衛門もそうめん造りをはじめた。職人と組むからサボるわけにはいかない。彼は若い頃実家へ帰って八つ当りしたという話が残っているが、幸い彼は自分の生涯を前向きに築いてゆく闊達な男だった。鎌田家の長兄喜三(きぞう のち訥郎とつろう)は神奈川県会議員で、星亨傘下の若手政治家に育っていた。忠左衛門が地方政治家としての道を辿りはじめたとき、兄の名と実家の資金援助は大きな武器となった。忠左衛門の政治家としての第一歩は、明治三二年郡制改正によって設けられた郡会議員だった。郡会は当時の町村単位約二〇名の議員からなり、一応住民の直接選挙によって選ばれた。忠左衛門はそれまでに五日市政界のボス、馬場勘左衛門(明治二四~三一年五日市町長)に気に入られ、若手ナンバー・ワンの地位を占めていた。
鮎子 なんだかヤクザの世界みたい。
父  序列や義理人情のやかましいところはね。しかし目ざすところの志は大きく違うんだ。

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三二歳の忠左衛門はハリキッた。例によって二時起きし、文字通り朝飯前の仕事、そうめん造りを片ずけた後、二里二二町の山道をワラジ履きで青梅に通ったものらしい。郡会は青年忠左衛門にとって、この上ない政治訓練の場で、青梅地区の有力人物と接触し、先輩地区の地域開発ぶりを勉強する場であった。お父さんは青梅まで『西多摩郡会史』を調べにいった。おどろいたことに、やたら忠左衛門名の提案、建白書などが目についた。彼は毎回郡会に選出され、明治四三年五日市町長になっても兼務し、大正二年まで一四年間席をおいた。その間通いつめた二里半の峠道は、彼が五日市の開発プランを練りに練った道だった。

水力発電 五日市鉄道については198~205にあり