青年学校(大和町史p475)

青年学校(大和町史p475)

 大和村では大正十五年に設置された青年訓練所と、従来からあった実業補習学校の両者を廃止してそれの統合の上で昭
和十年六月三十日に青年学校が設置された。青年学校は、学校と名ずけられてはいるが、それは軍隊の予備教育が中心で
あった。

 青年学校の義務制実施により、大工場も私立の青年学校を設立した。日立航空機青年学校は大和村唯一の私立青年学校
であるが、これは工場付属の青年学校であり、むしろ技能養成が主であった。

 昭和十六年四月一日から小学校が長い間使っていたその名前を廃止して、国民学校と改称した。それは単に名前を改め
ただけではなく、教育内容も戦時体制に応ずる全体主義的な教育制度に変えられたのであった。

 国民学校、青年学校などの学校教育を通じて国家主義的な教育が行われたが、これとともに社会教育にも種々の教化団
体を通じて一般大衆に戦時体制に適合する教育が吹きこまれた。

◎東大和市史資料編10p87に「東京府北多摩郡大和青年学校学則」の一部が掲載

青年学校(武蔵村山市史通史編下p413

 大正時代末年に青年訓練所が設置されて以降、各地には軍事教育を行う同訓練所と実業教育を行う実業補習学校が併置となり、重い負担を市町村は負わなければならなかった。これに対して文政審議会の答申などもあり、両者は統合され、昭和一〇年(一九三五)、「青年学校令」が公布され、青年学校が新たに創設された。

 同令では、「男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ滴養スルト共二職業及実際生活二須要ナル知識・技術ヲ授ケ国民タルノ資質ヲ向上セシムル」とされ、普通科・修業年限二年、本科・修業年限男子五年女子三年、研究科・修業年限一年以上、専攻科・修業年限定則なしであった。

 入学資格は、普通科の場合尋常小学校卒業者、本科は普通科及び高等小学校卒業者、研究科は本科卒業者、専攻科は特別希望者となっており、教科目は、修身及び公民科、普通学科、職業科、体操であったが、本科男子は体操に代わり教練科を行い、女子の場合は普通科に家事及び裁縫科が加わり、本科の教練科に代わり家事及び裁縫科を行うことになっていた。

 その他、昭和一四年からは、教員給与の国庫補助が行われるとともに、男子に対する通学義務化が実施され、就学率は急上昇することになった。

 村山村の場合も、昭和一〇年に青年学校創設となり、村山青年学校が誕生した。それまで運営されてきた大正青年訓練所は、昭和一〇年三月三一日公布された勅令第四二号による「青年訓練所令」廃止にともない、九月三〇日付で廃止となり(『資料編近代・現代』三一七)、大正農業公民学校が改組される形をとり、同年一〇月一日付をもって村山青年学校として新たに運営されることになった(『資料編近代・現代』三一八)。

 創立された青年学校には普通科、本科、研究科の三科が設置され、創立の年には普通科に男子三二人・女子二四人、本科に男子一三五人・女子三三人、研究科に男子三三人・女子、一人が在籍した。

 職員は学校長、専任教員二人、兼任教員一二人、指導員六人の構成であり、従前同様大正尋常高等小学校に付設されていた。なお、学期については、四月から九月までが第一期、一〇
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から翌年三月までが第二期であり、男子については、第一期は毎月三日を授業日、午前八時から午後四時、または午前七時から九時に授業を行うとし、第二期は毎週六日第一期同様の時間帯に授業を行うとしている。女子については、第一期、第二期ともに毎週六日を授業日とし、第一期には午前八時から午後三時、第二期は午前九時から午後四時まで授業を行うとしている。ただし、女子の場合、第二期については二部制であった(都公文書館蔵「青年訓練所」
三一八ーD1ー2)。

 この後、昭和一四年の男子義務化の「青年学校令」改正時には、改めて改正村立青年学校とされた(都公文書館蔵「公立青年学校同教員養成所」三二一ーF713)。

 このように村内で青年学校の授業が展開されることになったが、授業のなかで中心となっていたのは、この学校の設立目的でもある男子の教練科による教練の実施であった。そしてこの教練では修得状況を確認するために、連隊区司令部の査閲というものを受けることになっていた。青年学校発足二年目、日中戦争が開始された昭和一二年一一月一一日の査閲の様子を見ると、隣村の大和村(東大和市)青年学校校庭を使い、同校と合同で午前九時から正午まで査閲を行っている(公民館旧蔵「昭和十二年学務雑件」)。

 昭和一〇年代に入ると、こうして教練を行い、青年たちは徴兵までに兵士としての基本的な動作などを身につけていったのである。

国民学校

 昭和一二年(一九三七)の日中戦争以降、戦時体制下に入ると小学校も大きな変化を示すようになっ

た。この時期、村山村の大正尋常高等小学校では以前から懸案であった校舎増築問題に取り組んでお
り、昭和一三年には、小学校用の三教室、青年学校用の三教室など木造二階建一棟その他を二万九〇〇〇円の費用で
増築を行っていた(市役所蔵『昭和十三年事務報告書』)。しかし、そのような学校整備を進めるなかにも、戦時体制
の波が押し寄せ、教育内容にも影響を与えるようになっていった。日中戦争が始まった昭和一二年には、同校で行わ
れた運動会に戦時の影響が反映されている。運動会のプログラム(『資料編近代・現代』三〇八)を見ると、一一月
期灘趨講騰響糠、溝、
に行われた運動会は、「年から六年までの尋常科、】、二年の高等科児童を中心に、他校児童、青年学校生徒、青年
団員、来賓などまでが参加する、大規模な、まさに村を挙げての運動会であった。そして、競技のなかに、通常の競
技名とともに、「日本陸軍(唱体)」、「上海攻撃」、「兵隊さん(唱遊)」、「東郷さん(唱遊)」、や「教練」など、戦時
を反映している競技名が含まれている。「開会式」では「敬礼」「君が代」や「宮城遥拝」が行われ、「閉会式」では
「万歳三唱」が行われた。この年、七月に日中戦争は始まったが、八月には上海で日中両軍が交戦し、一〇月には国
際連盟総会で日本が非難される時期であり、また、運動会の開かれた二月は日本軍による南京突入の前月であり、
この運動会はそのような緊迫した状況を反映したものとなっており、戦争の流れが学校教育にも急速に押し寄せてき
ている様子を示していた。
そして、その後、日中戦争による戦時体制が続き、太平洋戦争へのきざしが見え始めると、政府などはそれまでの
小学校を戦時に対応した学校に転換しようとして新たに国民学校が創設されることになったのである。昭和一六年三
月には勅令により国民学校令が公布され、「国民学校令施行規則」により四月から、従来の小学校は国民学校に改組
された。国民学校は「国民学校令」第一条にある「皇国の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的練成を為す」
というように、「小国民」の練成に目的が置かれ、戦時体制の下での国家的要求により、この体制を将来的に支える
国民を育成しようとしたものであった。この制度によって、義務教育期間は従来の尋常科に相当する初等科六年に加
えて、接続する高等科二年まで延長されることとなったが、この延長は後に出される「国民学校令等戦時特例」によ
り延期となり結局は実現されなかった。また、この改訂では、貧困による就学義務免除・猶予や家庭教育が廃止さ
れ、義務教育教員の給与を道府県と国が負担するなど、学校教育制度が整備された。
その他、国民学校創設の前の一月には、大日本青少年団が結成され、第三学年以上の児童が少年団として学校に