青梅街道

青梅街道

2011年7月23日
14:33

天保11年麁絵図では府中道と呼んでいた。

㊥青梅街道

 新宿・田無・小川と続く青梅街道は、東大和と小平両市の境で、砂川九番から小川橋を経て北へ向う道と合流し、西武拝島線の高架の下を通りさらに北進する。

 奈良橋で志木街道と丁字型に突き当り、左に折れて蔵敷、芋窪を経て、武蔵村山市、瑞穂町を過ぎ青梅市に至る道である。

 田無から青梅まで都営バスの路線の道でもある。

 小平、東大和両市の境界の辺で西武線の線路に添って野火止用水が流れていた。昭和三十八年に暗渠となるまで、玉川上水から分水した野火止用水には、青梅橋が街道に掛っていた。駅名の「青梅橋」が昭和五十四年三月、東大和市駅に改名されて、今はわずかに「青梅橋」の標識がその存在を示している。

 野火止用水の南、都立薬草園の北側の大きな銀杏の木の下に安永五年(一七七六)に建立された庚申供養塔が祀ってある。石碑の側面は、西・おうめみち、北・山くちみち、東・江戸みち、南・八王子みち、と道標が刻んである。

 おうめみちは今の桜街道で、山くちみちが青梅街道である。なお、天保のころの地図(国文学研究資料館所蔵など)には府中みちと記載がある。

 道標の庚申塔と用水を隔てて、北側にかさもり赤い鳥居が街道に面し、その奥には瘡守稲荷が桜の老木の下に祀ってあった。みたけすげがさ「御嶽管笠」にこの辺の風景が描かれているが、最近駅周辺の変革に伴い、稲荷も、少し東の小平側、高架の脇に移され、小平の稲荷講の方がたによって守られている。

 昭和七、八年ごろ、東京府の救済事業によって拡幅されるまで、この道は二間三尺(四・五㍍)程の農道であった。芝草や雑草が茂り、荷車の轍(わだち)の跡二本とその真中に人の歩いた跡一本の三本の細い道がついている状態であった。拡幅工事により、現在の道幅になったが、陸軍の自動車のスピードテストに使用され、付近の人を驚うかしたという。庚申塚にある内堀建具店の所に事務所を置いて、砂利穴を掘り工事に使うなど、作業が進められた。

 武藤石材店の前から、東大和市役所入り口のバス停付近まで東側に街道に添って弓なりに細い道があるが旧道の名残りである。

 庚申塚で現在の新青梅街道と交差し、道は北に進む。空堀川を過ぎると右手の高台の墓地のある付近を東覚院塚という。空堀川は蛇行しているため、真直に通す改修工事の告示が先日出ているのを見たが、この辺りもまた、さま変わりしていくようだ。

 奈良橋の第一小学校の北側に左に折れる細い道がある。墓地の手前で北に進み農協の脇に出る下り坂の道も旧道で、高い土手が両脇にある道だった。

 奈良橋の信号の丁字路で、昔は村山三里といわれていた道に出る。右へ行くと高木、清水を経て東村山市へ行く道で、この通りを志木街道とも呼ぶ。左は青梅街道といっているが、この付近の人は志木街道と言うことが多い。

 大正八年、当時の六ヶ村、清水・狭山・高木・奈良橋・蔵敷・芋窪を合併して大和村になったが、これを記念して志木街道を真直に変えたのが現在の道である。

 奈良橋の名主、岸勘兵衛の屋敷の中を通って道を拡幅した。現在の八幡通りを街道から十㍍程南に行くとすぐ西へ折れる道が旧道で、欅の大木が残り、旧道らしい面影のわずかに残る道である。元村山橋を渡ると、蔵敷の大井戸の前の街道に出る。元はこの辺に高札があったと聞く。蔵敷の弁天池も、大正十四、五年ごろに道路を拡げるため池を小さくしてコンクリートの水槽にしてしまった。

 熊野神社、豊鹿島神社の前を通り、大橋から武蔵村山市中藤へと道は続く。
 大正の末ごろから昭和七、八年ごろまで、東村山、横田間をバスが走ったことがある。いわゆる村山三里の道である。芋窪在住の数人で始めた会社で、一日八回位往復した。始めは乗用車、フォードだった。砂利道であちこち穴があり、乗客は踊っているようだったそうだ。採算が合わず中止してしまった。後に西武が十五人乗りのバスで始めたが、乗客は朝夕だけで、日中は運転手と車掌の二人だけがほとんどだったと聞く。高木の役場から東京へ出向く村長さんや、収入役が乗る他には、学校の先生と学生が乗る程度だった。

 砂利道の街道が補装されたのは、戦後になってからである。(東大和市史資料編9道と地名と人のくらしp23~24)