韮山県仮郷学校【資料】大和町史研究8p82


韮山県仮郷学校【資料】大和町史研究8p82
伊藤好一

 明治維新政府は、徳川幕府領を引き継ぐと、その領地の支配は、
江戸時代の代官行政の組織をそのまま温存して行なつた。従つてそ
れは、いわば旧幕府にとつて代つた維新政府がちようど旧幕府が天
領の代官に行政をまかせたような支配組織をとつたのである。関東
の天領は、明治維新政府の支配に入ると、大体「県」が設定された
が、関東の諸県と明治維新政府の関係は密接なものがあり、藩とは
違つて、維新政府の政策は良く浸透した。この地方が属した韮山県
も同様である。維新政府の計画したことがらは、比較的早く韮山県
で行われた。明治初年の地方教育制度の整備もその一つである。
明治政府が地方の学校制度について指令を出したのは、明治二年
二月の「府県施政順序」が最初である。政府はこの各府県への指示
の中で「小学校」を設けることを施政の大項として示した。これと
は別に翌明治三年二月に「大学規則並中小学規則」を規定し、中学を
経て大学へ進学するもののための予備機関としての「小学」の規則
を定めた。こうして「小学校」と「小学」の二種類の初等普通教育制
度の設置が計画されたのであるが、廃藩置県(明治四・七・十四)以
前には、これらの小学校設立計画が、直ちに実を結ぶまでには至ら
ず、全国的な小学校設立は、廃藩置県後の学制発布(明治五・入・
三)を待たなければならなかつた。ところで韮山県では、すでに学
制発布の前年に、小学校の設立が進められていた。
韮山県で小学校設立が具体化したのは明治四年である。この年四
月二十入日に東京出張の韮山県庁は、武州多摩・入間・比企・高麗
の組合村寄場に回章を出して、小学校設置について寄場役人が相談
するようにとを命じている。廃藩置県の行われた三カ月前のことで
ある。

按ルニ民事ハ緩カニスヘカラス小人間居シテ不善ヲ為ス農民耕作
ノ余暇恒ノ心ナカレハ博徒ニ相親狡猪ノ風ヲ煽動ス傍テ管内小学
校ヲ草創書ト数トヲ教習シ漸々淳風ニ導揚致シ度及上言置処今般
各県管轄高壱万石ニ付米壱石五斗之割合ヲ以郷学校入費ニ可賜御
布令有之就テハ当管内学校之数場所入費不足償方其他トモ厚商議
惣寄場役人連署可申出此回章留ヨリ可相返者也
東京出張
韮山県庁
辛末四月廿八口武州多摩郡
小川村
箱根崎村
青梅村
柴崎村
伊奈川
氷川村
桧原村
同州入間郡
扇町屋村
森戸村
同州比企郡
出丸下郷
野本村
中爪村
五川郷
同州入間郡
越生今市村
同州高麗郡
毛呂本郷
飯能村
下直竹村
右村々
名主
組頭
(箱根力崎・村山為輔家文書)
この回章によると、韮山県における学校の設立は、県から太政官
へ上申した結果のものであり、太政官は、各県管轄高一万石に付き
米→石五斗の割合を以つて、郷学校の経費に当てることを布令した
のである。この一石五斗の米は、政府が下賜するという形ではある
が、徴租米を割いて、その費用とするものであることは言うまでも
ない。
その後各寄場村々から、学校の経費について意見の具申があつた
かどうか不明であるが、廃藩置県直後の同年七月二十二日に至つて
郷学校設立の、より精細な指令が県庁より県下各区宛に、回状を以
つて出された。

今般仮郷学校之儀者農民子弟ノ為二被立置候儀二付素ヨリ性命ノ
精微ヲ談論スルニ及ス凡弟子タル者人倫常ノ道ヲ講明シ家二在テ
ハ父兄二事へ外二在テハ長上二事へ各其業ヲ勤メ其職ヲ励ミ又皇
国支那西洋等ノ歴代治乱興亡国体人情二至ル迄粗二大意ヲ弁知シ
入才教育ノ基本二付管内村々役人共何レモ厚キ御趣意ヲ体認致シ
区内二而可成丈ケ村方四方道程等シキ場所ノ寺院ヲ以テ仮郷学校
二設ケ兼而願之通→区二一ケ所ツ・立置区内村々有志輩之子弟八
才ヨリ十五才迄之者日々学校へ出席素読習字算術等修行勉強可有
之事
但シ師範ノ者ハ其区内村方ニテ是迄幼年生徒取立罷在候者鰍何
レモ区長村役人共ニテ談判之上人撰致シ日々学校へ出席区内村
々ノ子弟へ教授可致旦ツ生徒年齢入才ヨリ十五才迄ヲ限ルト錐・
モ情願ニョリ十六才以上ト錐モ本業暇ヲ見斗出校修行致シ候ハ
素ヨリ禁セサル所ナリ

大和町史p329~330

 教科組織の骨組となっているものは、まず句読・解読・講究の三科でこれが段階的にたてられている。三科の内部が、またそれぞれ段階的に下級・中級・上級に分れている。かくて句読の下級から講究の上級に至って正科を終ることになる。

 授業は、各科目中の一書をとり上げて学習し、その一書が終れば、次の一書に移るという旧幕時代の授業形式がその
まま取り入れらている。勿論テキストの選択は教官が行うのであり、生徒の選択を許さない。

 教科の内容は漢学が中心である。このような教育の強化のために、八月十日には孝経と啓蒙手習文が県から配付された。
こうして、為政者による統一的な民衆教育組織が立てられることになったわけである。古い寺小屋式教育から見れば、
整然たる教科組織が立てられ、地方の民衆教育としては飛躍的な進歩と見られるが、しかし教科内容は、かっての武士層
の教養としていた漢学が重視されて、民衆が求めていた「読み、書き、そろばん」を学ぶこととは、やや程遠い感がする。
旧幕時代の武士的教養を、押しつげるにとどまっていると言えそうである。

 仮郷学校の目的とするものは、どこまでも「農民耕作ノ余暇恒ノ心ナケレバ博徒二相親狡猜ノ風ヲ煽動」することを憂
えた旧幕府的為政者が、「家二在テハ父兄二事へ外に在テハ長上二事へ各其業ヲ勤メ其職ヲ励」む為に設置するのであっ
て、「性命の精微(緻)ヲ談論スル」ものではなかったのである。八月十日には、韮山県出仕関岡尚志が廻村して来て、
仮郷学校について規則命令の遵守を申渡しているが、そこでもなおあらためて、「農家の本業怠ル間敷事」を強調してい
る。農民が、耕作の余暇に恒心を養うことが目的であり、実学的なものを学ぶものではなかったのである。
教員は、区長村役人が人撰することになっているが、これまでに寺小屋を開いていた経歴のあるような人物が、選ばれ
たことはいうまでもない。
当時小川村組合に属したこの地方の村々は、小川村に仮郷学校を設立することになった。八月一日に小川寺に仮郷学校
が設立され、開校することになった。現大和町域の諸村からも、この学校に通学するものが出たことであろう。しかしそ
れは恐らく「区内村々有志之輩子弟」で、限られた一部の少年達であったろう。
小学校韮山県仮郷学校は、明治五年の学制頒布でその終りを告げ、新しい制度による小学校が、各村々に発足する。


29里正日誌12p162
規則
(朱書)
「小川組合仮郷学校規則(位置小川寺)」
一校中之規則並びに臨時之布(命)令尊奉屹度相守り可申事
一稽古如何程上達致し候共、農家之本業を怠る間敷事
一入校修業之上は諸事教師之差図に従ひ生徒一同行儀
第一二相嗜、於道中ても相互に挨拶慇懃にいたし無
礼無之様可致事