高木村他五ヵ村組合村

高木村他五ヵ村組合村

 明治21年(1888)4月25日、市制町村制が公布されました。町村に自治体としての法人格がみとめられ、条例規則の制定権が与えられるなど、行政体としての形が整えられたのである。
明治22年(1889)4月1日、市制町村制施行)
  「・・・、明治二十一年(一八八八)のことである。この年公布された「市制・町村制」で、町村に自治体としての法人格がみとめられ、条例規則の制定権が与えられるなど、行政体としての形が整えられたのである。
 ただし、これを実現するには町村の側にもそれなりの体制が必要となってくる。そこで政府は、町村制を進めるにあたって、全国で町村合併を押し進めた。国の土台となる自治体としての性格を認めるかわりに、土台の役割を十分に果たせる基礎体力をつけさせるためである。その結果それまで全国に七万以上あった町村が、一万六千以下に減ってしまったのである。


 では、この東大和市域の村むらはどうなったのだろうか。結果的には完全な合併という形はとらずに、「組合村」といういわば緩やかな合併とでもいうべき方法を選んだのである。町村合併と簡単にいっても、江戸時代以来の結びつきを解消し、新しい関係を作ることになるわけなので、そう簡単にはいかない。この地域の村むらも、これまでの芋窪村・蔵敷村・奈良橋村・高木村・狭山村・清水村という枠がなくなることをためらったのである。それぞれの村の独自性を保つため、村の枠組みを残しながら緩やかに結束する「高木村外五ケ村組合」となった。
 これにより、各村に置かれた村会とは別に組合会が設置され、それぞれの村会議員の一部が組合会を組織した。ひとつの村だけに関する事項はその村の村会で議決し、数か村にかかわることについては組合会で議決することになった。組合村という形は、ある意味ではひとつにまとまった状態であり、政府も基盤としての統一された機能を期待していたはずである。しかし実際には、組合を構成する各村の独立性がかなり保たれており、合併を拒否した村同士がスムーズに連帯することは難しかったようである。」(p257258
 大正時代、東大和市域の村々は、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の各独立した村が集まって「高木村他五ヵ村組合」を形成していました。
 法律的な経過は省略して、その趣旨を要約すると、大正時代の村には
①江戸時代からの村
②明治以降、村の担当する仕事が増加、複雑化、広域化したことから、合併して対処した村
③財政的に村の義務的事務を行うことができない、合併の協議がまとまらない、合併すると不便などの理由から合併しないで、複数の村が共同で事務を処理する村
 がありました。東大和市域では、国や東京府などから合併を進められましたが③の方式をとりました。明治22年(1889)66日に誕生しています。
 高木村など、それぞれの村には、執行機関として村長、議決機関として村議会があり、選挙で選ばれていました。その上に「高木村他五ヵ村組合」があり、組合村にも村長と議会が置かれていました。あえてこのような二重行政を選んだ背景には、独立性の強い村々が隣り合っていたことからと考えられています。それは、「高木村他五ヵ村組合」が結成された背景によく現れています。東大和市史が手際よくまとめていますので、引用します。
 「・・・、明治二十一年(一八八八)のことである。この年公布された「市制・町村制」で、町村に自治体としての法人格がみとめられ、条例規則の制定権が与えられるなど、行政体としての形が整えられたのである。
 ただし、これを実現するには町村の側にもそれなりの体制が必要となってくる。そこで政府は、町村制を進めるにあたって、全国で町村合併を押し進めた。国の土台となる自治体としての性格を認めるかわりに、土台の役割を十分に果たせる基礎体力をつけさせるためである。その結果それまで全国に七万以上あった町村が、一万六千以下に減ってしまったのである。
 では、この東大和市域の村むらはどうなったのだろうか。結果的には完全な合併という形はとらずに、「組合村」といういわば緩やかな合併とでもいうべき方法を選んだのである。町村合併と簡単にいっても、江戸時代以来の結びつきを解消し、新しい関係を作ることになるわけなので、そう簡単にはいかない。この地域の村むらも、これまでの芋窪村・蔵敷村・奈良橋村・高木村・狭山村・清水村という枠がなくなることをためらったのである。それぞれの村の独自性を保つため、村の枠組みを残しながら緩やかに結束する「高木村外五ケ村組合」となった。
 これにより、各村に置かれた村会とは別に組合会が設置され、それぞれの村会議員の一部が組合会を組織した。ひとつの村だけに関する事項はその村の村会で議決し、数か村にかかわることについては組合会で議決することになった。組合村という形は、ある意味ではひとつにまとまった状態であり、政府も基盤としての統一された機能を期待していたはずである。しかし実際には、組合を構成する各村の独立性がかなり保たれており、合併を拒否した村同士がスムーズに連帯することは難しかったようである。」(p257258
 組合村の設置願いは明治2241日に行われました。北多摩郡長は合併を指導したようです。村の願いをすぐには認めようとしませんでした。
 蔵敷の内野家に一通の訴願書の草案が残されています。なかなか組合村の許可を下ろさない北多摩郡長に対し、許可しないのは不当であると促進の意思の表示が記されています。このような背景があったのか、明治2266日、許可されました。役場は高木神社東側の明楽寺会所跡に設けられました。

 組合規約と財務処理の基本は次の通りです。
 北多摩郡高木村外五ケ村組合規約
第一条 本組合ハ高木村外五ケ村組合ト称ス
第二条 本組合役場ヲ高木村一〇六番地ニ置ク
第三条 本組合ハ高木村 清水村 狭山村 奈良橋村 蔵敷村 芋窪村ノ六ケ村以テ組織スルモノトスル
第四条 本組合ハ前条六ケ村ニ係事務ノ全部ヲ共同処理スルモノトス
第五条 本組合会議員ノ定員ヲ十二名トス
第六条 本組合ハ一村ト看倣シ町村制規定ヲ準用ス
    本規約ハ大正二年四月一日ヨリ之ヲ施行ス
現在も残る事務所の倉庫
 本組合ト各村トノ財務ニ関スル件
 
 一村又ハ個人国躰ヨリ本組合ニ於テ共同支弁スベキ経費ノ中へ寄附又ハ補助ヲ為ス時ハ本組合ノ収  入ニ属ス
 本組合内各村又ハ個人国躰ヨリ其村へ寄附又ハ補助ヲ為ス時ハ其村ノ収入ニ属ス
 本組合内各村ノ有スル基本財産ノ収益ハ旧来慣行ニ拠リ其村ノ収入ニ属ス
 一村ノ収入ハ其村ニ於テ支弁スヘキ経費ナキ時ニ限リ其村ノ支出即チ村税ニ充テナホ不足アル時之  ヲ其村ニ賦課ス
   大正二年八月四日