鹿島台遺跡

鹿島台遺跡

⑥鹿島台遺跡

 鹿島台遺跡は、古くからその存在が知られていたようで、『大和町史』編さんに先立つ一九六一年(昭和三十六)の遺跡調査の時にはすでにこの遺跡の存在が知られていた。その後一九八〇年(昭和五十五)三月に、遺跡の詳細な性格と範囲の確認のための部分的な発掘調査を行い、縄文時代中期の竪穴住居跡一軒を確認した。

 遺跡は、南東及び南西に放射状に伸びる二本の舌状台地を含む広い範囲を占める。芋窪の豊鹿島神社の北側一帯にあたり、日当たりのいい南向きの斜面と谷に囲まれたやや複雑な地形に茶畑や雑木林が広がる場所である。

 一九六一年の調査は、『大和町史』編さんのための市内全域の遺跡調査の一環として行われたものだ。調査は地表面に露出している遺物を拾う「表面採集」という方法で行われ、縄文時代前期(約七〇〇〇年前)から縄文時代後期(約四〇〇O年前)にかけての土器の破片や、石鏃、打製石斧などが採集されている。またこの時には「石鍬」(いしぐわ)と呼ばれる弥生時代の遺物によく似た石器が採集されたが、表面採集という調査で、遺物が埋まっていたもともと位置が不明確なこと、それまで東大和市で弥生時代の遺跡が全く発見されていないことなどから、当時の調査者は弥生時代の遺物とするのをためらい、縄文時代の遺物と位置づけている。

 一九八〇年の調査は、都市化が進む中で、将来の開発に備え遺跡の詳しい情報を得ようとしたものだったが、これによって「石鍬」が弥生時代の遺物であるのかどうかいうことについて何らかの確証が得られるという期待もあった。調査は、遺跡内の四地点でそれぞれ数か所つつの試掘坑を設定し、その発掘によって遺物・遺構の存在を確認する方法で行われた。その結果、各地点から見つかった遺構や遺物の年代から、この遺跡で人びとの生活が確実に営まれたのは、縄文時代前期の末(およそ六〇〇〇年前)から中期の中ごろ(およそ五〇〇〇年前)までの期間であることがわかった。しかし一九六一年の調査では縄文時代後期の遺物も採集されていることから、さらに遺跡の年代が広がる可能性はある。ただ弥生時代の遺構・遺物はまったく発見されず、「石鍬」についての具体的な検証はできなかった。

 試掘坑の設定作業の際などに、打製石斧など数点の遺物が採集された。打製石斧は、その形が斧に似ていることから名づけられたが、実際には「土掘り具」として使われた石器である。表面採集を意識的に行ったわけではないが、偶然にこうした遺物が見つかるということは遺跡の保存状態の良さを示していると考えていいだろう。

 第一区では、幅一㍍の試掘坑で遺物が集中して発見されたのをきっかけに、土器の埋め込まれた住居の床が検出された。床面の追求によって壁の立ち上がりも確認され、住居跡のほとんどが姿を現した。雑木林の木々の間での発掘という制約から完全な全体像を検出することはできなかったが、直径約六㍍の六角形に近い円形を示すことがわかった。壁ぎわには水の浸入を防ぐための周溝が掘り込まれ、中央には、底の部分を打ち欠いた土器を埋め込んだ「埋甕炉」(うめがめろ)と呼ばれる形態の炉がつくられていた。埋められていた土器は縄文時代中期の中ごろのもので、土器型式でいうと「勝坂式土器」という種類のものだ。そして、住居と直接結びついているこの土器が使われたおよそ五〇〇〇年前が、住居が使われていた時期でもある。

 住居跡からは、このほかにも多くの土器と石器が発見されている。土器の大半は、炉体に使われていたのと同じ勝坂式で、それに続く加曽利E式土器も数点発見されている。勝坂式土器は土手のように貼りつけられた隆帯と、連続する刺突文様を特徴とするが、鹿島台遺跡から出土した勝坂式土器は、文様の特徴が崩れ始めていて、勝坂式の中でも後半期のものであることがわかる。

 住居跡から見つかった石器の種類は多いが、数でみると「打製石斧」が約八割を占める。打製石斧とはその形からつけられた名前だが、実際の用途は「土掘り具」だとする考え方が一般的だ。木の根や球根など、植物性の食料の採集には欠かせない道具だったと考えられている。そのほかには、石匙(いしさじ)と呼ばれる動物の皮をはぐ時に使った石器、クルミなどの木の実をたたき割ったりすりつぶしたりする磨石(すりいし)、敲石(たたきいし)、そして矢の先につけた狩猟道具の石鏃などの石器がそれぞれ1点ないし数点出土している。

 住居跡から出土した遺物のうち、特に「打製石斧」と「石鏃」を見較べてみると、対照的な状況を示している。植物性食料採集の道具である打製石斧が大量に出土しているのに対し、石鏃はわずか二点に過ぎない。石鏃は狩猟用の道具として、動物性食料の獲得に威力を発揮した石器であることから、出土した数の違いは、そのまま当時の人びとの食料獲得の傾向を表していると言える。つまり、鹿島台遺跡の人びとは、弓矢を使った狩猟によって動物を仕留めるよりも、森の木や草をこつこつと採集することが、日常的な活動だったのだろう。

 実は、東大和市に限らず関東地方周辺のこの時期の遺跡は、その前の時期に較べると急激に増える傾向がある。そしてそれに対応するように、「石鏃」の数が減り「打製石斧」の量が増えてくる。ということは、狩猟による食料獲得は不安定な要素が多いのに対し、植物採集は安定して食料が確保できたたために、遺跡の数も増えたと考えられないだろうか。わずか二種類の遺物の量の違いだけでは、暮らしの全体像を正確に描くことはできないが、遺物の量に違いがあるのなら、生活のしかたにも違いがあったということは言えるだろう。

 住居跡のほかにも、第三区からは「集石」(しゅうせき)が発見された。石を熱く焼いて、その熱を利用して蒸し焼き料理をした場所と考えられ、土が焼けているのも確認された。一般的には、浅く掘りくぼめた中に石が詰まっている例が多いが、このときの調査ではそこまでの確認はしなかった。集石からは打製石斧が三点と少量の土器片も出土したが、この土器片から縄文時代前期の末(およそ六〇〇〇年前)から中期の前半(およそ五五〇〇年前)にかけて使われた遺構であると考えられている。
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