鹿島台遺跡の集積遺構

鹿島台遺跡の集積遺構

〈集石遣構>3-3地点からは石を意識的に集めた遺構が発見された。このような遺構は,1万年以上前の先土器時代から縄文時代に至るまでのかなり長い期間につくられ,各地の遺跡から数多く発見されている。

 そのなかで特に石が焼けた状態で残っているものは,いわば食料の蒸し焼きやバーベキューのための調理遺構と考えられているものである。
 第9図は,発見された集石遺構の概略図である。図の斜線部分が石の分布していた範囲であり,全体に焼けた土の粒が散乱していた。図の黒くっぶした部分は特に火をうけた跡がはっきりしていて,地面が赤く変色していた。石も熱をうけて多くはくだけており,調理のための遺構と考えるのが適当であろう。
 これがつくられ,使われた時期は,周囲から出土した土器片によって縄文時代前期末葉から中期前半にかけてであることがわかった。なお,集石遺構は浅い穴を掘りくぼめて石を埋めこんだものが一般的であるが,今回の調査ではその確認までは行わず,基礎的な調査を行ったのち,遺物のみを取りあげて石は現状のまま埋めもどした。

〈集石遺構の出土遺物〉

 遺構の周囲からは,10点の土器片と3点の打製石斧,それに黒耀石の小さな破片が1点まばらに散らばる状態で出土した。土器はどれも小さな破片ばかりであった。これらは縄文時代前期末葉に相当するもの(第10図1,2),中期前半のもの(同3~6)であり,これによって集石遺構がつくられ使われた時期も,ほぼ6000年前から5500年前にかけてであることがわかった。

 3点の打製石斧は,どれも刃部を欠損している。3点とも比較的やわらかい石(硬質砂岩)を使ってはいるものの,同じような状態で欠損しており,しかもそれらが集石遺構からまとまって出土したことに興味がもたれる。使用したことによって欠損あるいはすりへった石器は,反対にその損耗の状態によってどのように使用されていたかある程度判断することができる。3点の打製石斧の具体的な使用方法ははっきりしなかったが,集石遺構

に関連した目的で,同様の状態で使用されたと考えてもよさそうである。

<小土垢拡>

 3-1地点からは小形の穴(土」菰)が見つかっている。粘り気の強い赤土層から検出されたもので,覆土には焼土と炭の
細かい粒が多くつまっていた。真上から見た状態はほぼ円形で,直径23伽,深さは土拡中央部で約25伽あった。なかからは土器の細かい破片や小石が出土したが,土器については,細かいう
えにすべて無文で,どの時期に相当するかは不明である。この小土拡がどういう性格のものか,確認はできなかったが,きわめてきつい斜面に存在しており,住居の一部とは考えるのはむずかしい。
⑤第4区から発見された遺物5ヵ所にわたって試掘坑を設定した第4区では,4-3地点と4-5地点から遺物が出土している。4-3地点からは,泥岩質の打製石斧が出土している(第12図)。全長14伽の完形品であるが,表土層からの出土である。
4-5地点からは,自然堆積層(黒褐色土)内から,横転してっぶれた土器と,石皿が出土した(第13図)。住居跡の存在の可能性があると考え,適宜拡張を行ったが,確認はできなかった。遺物の周囲からはチャート