57、大塚,小塚、こっぺい塚
昔と言っても明治の頃だと思いますが、東村山浄水場の南のあたりに、大塚,小塚、こっぺい塚という3ヶの塚(土を盛り上げたもの)があった、と高木の和地コヨさん(東村山の生まれ)が言っていました。 何のために作ったのかなどは知りませんでした。
古い地図を見るとこのあたりに四っ塚という小字が残っています。 この地域で「こっぺいこく」というのは、余計な事を言うとか、無駄口を言うとか、邪魔をするとかの意味で、住民から見れば二つの塚によけいにくっついているように見えたのでしょう。
狭山の栞にも四っ塚という塚があったと載っています。 和地さんに念のため、4っなかったか聞いてみましたが3つと言うことでした。
参考までに、歴史の本などでは、江戸時代に新田開発が盛んになり、古くから住んでいた人達が燃料、肥料などに使うために草などを刈っていた原野「入会地という」を、他所から新田開発で入ってきた人が開墾(畑にする事)するなどしたために争いがおこり、自分たちの使用権を確保するために境に塚を築いたという記録があります。
東大和、東村山等、狭山丘陵の南に住んでいる人は、開発としては、庭先から南に順に鍬をふるってゆき、一方小川や鈴木、野中等、今の小平市、小金井市等にある新田は、玉川上水に沿って家を構え開発をしています。
この塚について、争いがあったかどうか また境界にあたる所に塚があったかどうかはわかりません。 また、全く見当はずれで、いわゆる庚申塚などのように信仰にまつわるものなのかもしれません。
東村山の平和観音のある塚は「大塚」と呼ばれているようですが、がこれにあたるのでしょうか。(2010.06.12記)