東大和市の小学校の歴史

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東大和市の小学校の歴史

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東大和市の小学校の歴史東大和市の小学校の歴史 明治 5年(1872 )8月2日、太政官布告第214号・「学制被仰出書(おおせいだされしょ)」、8月3日、文部省布達により「学制」(全文109章 東京百年史二巻p499)を頒布し、村に小学校の設立を定めました。「学校の基本体制を小学・中学・大学の三段階とし、これを国民全般に開放し、学齢児童をすべて小学校に収容しようとするものであった。そのために全国を八大学区に分け、一大学区を三二中学区、一中学区を二一〇小学区に分け、一学区ごとに、それぞれの学校を一校ずつ置くこと」(大和町史 p331)でした。人口600人に対して一小学校を置くことになります。「フランスの制度にならった中央集権的な学区制」(東村山市史)とされます。参考 文部科学省 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317581.htm 政府は五年八月二日学制の趣旨を宣言した太政官布告(第二百十四号)とともに「学制」を公布し、文部省は翌八月三日(太陽暦九月五日)「文部省布達第十三号および第十四号」を発して右の太政官布告をそえて「学制」を全国に頒布したのである。布達第十三号では、今般学制が定められたので従来府県で設立している学校はいったんことごとく廃止して、学制に従って改めて学校を設立すべきであると述べている。布達第十四号では、太政官布告および学制を府県に送付する旨を述べてその実施を要請しているが、経費の点はなお未決定であるとしている。 東大和市には次の 5つの小学校がつくられました。 学校は作られましたが、授業の内容は、武蔵村山市史が中藤村の例を挙げて、「ほとんど従前の手習塾そのままであったといえる。」(通史編下p69)と記すように、実質は寺子屋の延長とい近いものであったようです。そこから、明治政府、県は、明治7年(1874)6月27日、教員、世話係に対し、次のような諮問をしています。1、各校とも教則一致せず、器械具備せず因循偸安の弊を免れない、生徒を進歩させるにはどうしたらよいか。2、現校は官命に任せて設けるのみで有名無実である。これを更正するにはどうしたらよいか。3、教則を文部頒布のものに適従し、小区内各校同一にするために、日を期して会議討論するのはどうだろうか。4、各教員憤発して疾く生徒を上級させ、学務係の試験を請い、旦つ月初めに生徒に奨励のために競筆の会を催すのはどうか。5、生徒の昇校全からず(欠席が多い)。これを永続させて学務官の督責を受けぬようにするにはどうしたらよいか。6、未だ頑随の旧習を因習している。旧慣を脱す方法があるか。 などです。この諮問に対し、各学校が協議し、毎月最初の日旺日に会議を開き教則を一定するように精々尽力したいと答申書を差出しています。30%の就学率 小学校は、原則、学齢対象全員を就学対象としましたが、とうてい無理でした。どこの市史を見ても、一様に就学率の低さを指摘します。大和町史でも 「入学児童は満六歳から十二歳までであるが十一区十番組(大和町域七ヵ村)では男二〇六人女二二〇人計四二六人が該当した。しかし、実際に就学し得たものは男女合わせて一七八人であった。就学すべき児童の三割足らずが入学したにすぎなかった。」(p331 )とします。寄付で賄った建設・運営費 頭の痛いのが建設費と運営費でした。東大和市の総額がわかりませんので、東村山市の状況を紹介します。(東村山市史通史編下p 83)   1874年は明治7 年に当たります。国からの補助金は 1円台ですから、ほとんどを村持ちで建設し、運営したことがわかります。建設費はほとんどが村民の寄付金に頼っています。大和町史は汎衆学舎を建設した蔵敷村について 『小学校設立資金を、最低一二銭五厘から最高一五円まで、五五人が拠出して一一八円八七銭五厘を集めている。おそらく全村民に割り当てたものではなかろうか。中にはこの寄付金を「本人当六十歳にて、日々木綿糸紡賃ヲ以」充てたり、「貧婁(ひんる)にて毎夜索綯シテ以充」てたものもいた。』( p331) と書いています。索綯は縄をなう意味です。また、運営費が大変でした。右表は東村山市大岱村の明治 12年の実態です。81円の収入の内 60円を預金利子と寄付金利子で補っています。これは東大和市域の村々でも同じで、大和町史は 『蔵敷、奈良橋、高木、宅部、後力谷、清水の六カ村は汎衆、厳玉、竭力、研精の四学舎を経営する方法として、六カ村で共同して、全村民に対し一反歩につき五〇銭の割で微収し、総計一、六七五円六一銭四厘を基本金とし、これの一割の利子一六七円五六銭一厘で四校を経営することを計画した。』( p333)としています。?? その後の小学校の経過を極めておおざっぱに紹介します。その後の小学校 明治 9年(1876 )厳玉学舎を奈良橋小学校と改称 明治 10年(1877 )小禎学舎と汎衆学舎を合併し昇隆学校と改称、 竭力学舎を高狭小学校と改称 明治 27年(1894 )昇隆学校を第一村山小学校 奈良橋小学校を第二村山小学校 高狭小学校を第三村山小学校と改称 明治 28年(1895 )各小学校の校名を尋常小学校と改称 明治 39年(1906 )5月、第一村山高等小学校と第二村山高等小学校を建設。  就学したのは、戸数の1割に達しませんでした。残したければ自分で負担 明治27年、従前の学舎を小学校に改称しました。併せて、維持費の関係から、統廃合を目指しました。本来ならば芋窪と狭山の 2校にする予定でした。ところが、奈良橋村民が自分達の奈良橋小学校を廃校とすることを拒んだため、組合村では 5校を3 校とし、奈良橋村の第二村山小学校の経費は他の 2校の按分比例として、奈良橋村が経費を負担することを条件に認めたようです。村の借り入れ 様々に苦労を重ねていますが、その後の村にとっても小学校の維持は大きな負担でした。 大正年代の村の予算ですが、教育費が多い時は 84%、少ない時で53%を占めています。とても通常の村税収入ではまかないきれないため、これらは常に借金をして賄いました。(大和町史p 455)そして、経済変動と共に経済更正村の指定を受けて村の運営を建て直すことになります。

制作者 (Creator)

Kiichi Ajima

日付 (Date)

9/20/2020

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Citation

Kiichi Ajima, “東大和市の小学校の歴史,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年4月28日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1150.