東大和市内遺跡図

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東大和市内遺跡図

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東大和市内遺跡図東大和市内遺跡図 東大和市史資料編3 p74~75東大和市史資料編3 p76~77(一)市内の遺跡? 東大和市内では現在のところ七六か所の遺跡が確認されている。およそ一万二〇〇〇年前から七~八〇〇年前ぐらいまでの遺跡が見つかっており、そのほとんどは一九七五年(昭和五十)の分布調査によって発見されたものだ。 ところで市内の遺跡の分布を示した地図を見ると、遺跡のある場所が市域の北側半分に限られることに気付くだろう。ほとんどの遺跡が市の中央を東西に貫く新青梅街道よりも北側にあり、南側にあるのはわずかに一か所だけだ。こうした傾向は、このあたりの土地がかつてどんな状態だったのかを示しているということができる。 一般に遺跡とは、人間が何らかの生活をしていたことを示す痕跡がある場所をいう。現代と違って、広い土地のどこに住むかは暮らしやすいか暮らしにくいかだけを考えて決めれば良かった頃のことだから、遺跡のある場所というのは水や食料を手に入れやすい場所、暮らしていく上でより都合の良い場所だった考えていいだろう。 ということは、遺跡の集中する市の北側は生活を支えられるだけの環境があったということで、逆に遺跡が存在しない市の南側は、生活が成り立つほどの豊かな環境ではなかったということが想像できる。 ところで、市内に七六か所ある遺跡では、人びとがすべて同じ時に生活をしていたわけではなく、遺跡によって人びとの暮らしの中心となる時期には違いがある。そのため長い時の流れの中では、たくさんの人びとが暮らしている時代もあれば、余り多くない時期もあった。ひとつの考え方として、ある時代の遺跡の数によって、その時の人口を想定することができる。つまり遺跡の数が多ければ、その時代に暮らす人びとの数が多く、逆に遺跡が少なければ人口も少なかったということが言えるだろう。 こうした長い歴史の流れを考える時、一般的に通用する共通のものさしとして「時代区分」ということが必要になる。生活の道具や暮らし方の違いを目安にして古い方から順番に「先土器時代」または「旧石器時代」→「縄文時代」→「弥生時代」→「古墳時代」→「奈良時代」→「平安時代」と区分し、このうち縄文時代についてはさらに「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」と細分される(早期の前に「草創期」を加える考え方もある)。 東大和市の七六か所の遺跡で、それぞれがどの時代に営まれてたのかを概観すると、遺跡の数が多い時代と少ない時代があることがわかるが、遺跡の多い時期、つまり人口の多い時代には三つほどの波がある。 まず最初の波は、市内で最も古い遺跡が成立した時期であるおよそ一万二〇〇〇年前の「先土器時代」。次の波は、最も多くの遺跡が存在していた約五〇〇〇年前の縄文時代中期。そして最後のピークは竪穴式の住居で暮らしていた最後の時代と思われる平安時代でおよそ一〇〇〇年前ごろに現れる。 またそれぞれの時代によって暮らし方が違うため、時代により遺跡がある場所にも違いが見られる。一万年から一万二〇〇〇年よりも古い「先土器時代」あるいは「旧石器時代」といわれるころの遺跡は、多摩湖遺跡群の一部や八幡谷戸遺跡、鹿島台遺跡など狭山丘陵から南に張り出した日当たりのいい台地の上にあるものと、街道内遺跡、丸山遺跡、清水上砂台遺跡など空堀川南岸の北向きのゆるい斜面上にあるものの二つのパターンがある。このうち空堀川沿いの遺跡からは、人間の何らかの営みの痕跡である「礫群」と呼ばれる遺構が見つかっている。 約五〇〇〇年前の縄文時代中期は、市内の大部分の遺跡で遺物や遺構が見つかっている。一見するとあたり構わずどこでも遺跡のように思いがちだが、よく見ると周囲に比べて高くなった微高地や台地上にあることがわかり、共通性のある生活があったことがうかがわれる。この時代の代表的な遺跡は、諏訪山遺跡、八幡谷戸遺跡、鹿島台遺跡などだが、いずれも狭山丘陵から南に張り出した舌状の台地上に位置している。諏訪山、八幡谷戸ではそれぞれ数軒ずつの住居跡が見つかっており、この地域の中心的な集落であった可能性が強い。鹿島台遺跡ではいまのところ発見された住居跡は一軒だが豊富な遺物量から考えて、やはり中心的な集落であったと考えられる。 平安時代の末期、およそ九〇〇~一〇〇〇年程前にも、比較的多くの遺跡が営まれたことが遺跡の数から読み取ることができる。立地する場所は縄文時代中期とほとんど変わらないが、全体の数が減っている。同時に規模の大きな遺跡が見当たらずこぢんまりとした感じを受ける。その中で廻田谷ツ遺跡で見つかった住居跡は、カマドを備えたしっかりしたもので、ここが当時の拠点のひとつだった可能性をうかがわせる。 さて、こうした遺跡の数の多い時代とは対照的に、遺跡の数が少なくほとんど存在しない時代というのもある。縄文時代の中期に多かった遺跡の数が、時代が進むにつれ次第に減っていく。そしてついに弥生時代になると人々の暮らしを伝える遺跡が見当たらなくなり、そのまま古墳時代、奈良時代と遺跡のない期間が続いてしまう。この事実は、この頃には東大和市域を生活の拠点とする人々がいなくなってしまったか、あるいは極端に減ってしまったことを示している。これはここの土地柄がその時代の生活スタイルと合わなかったことが大きな原因だとは考えられるが、はっきりとしたことはわからない。 以下、個別遺跡にファイルをつくる

制作者 (Creator)

Kiichi Ajima

日付 (Date)

9/20/2020

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Citation

Kiichi Ajima, “東大和市内遺跡図,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1155.