計画と決定
タイトル (Title)
計画と決定
詳細 (Description)
明治40年代になると東京市中の飲料水不足は目に見えて激しくなりました。東京市は、淀橋浄水場の拡張工事などを行って対応します。しかし、絶対量の不足は否めず、根本的な水道拡張事業を計画し調査を実施することとなりました。明治42年4月、その調査と計画を工学博士中嶋鋭治氏などに委託しました。
1大久野・村山貯水池案
中島博士は多摩川の水源地や周辺を踏査して、調査を進めました。その結果を基に、明治44年(1911)12月13日、次の2案を提示しました。
中島博士提示案
第一計画 西多摩郡大久野村
第二計画 北多摩郡村山に貯水池を建設して対応しようとするものです。内容は次の通りです。
第一計画
第一計画ハ多摩川上流氷川下ヨリ仝川ノ水ヲ取リ入レ
西多摩郡大久野村(現日の出町)ニ設クル大貯水池ニ之ヲ導キ
夫レヨリ草花村ニ至リ水力ニ利用シ
多摩川ヲ鉄橋ニテ横断シ
福生水溜ヲ経テ武蔵野平原ノ一端ヲ通過シ
武蔵野村境ニテ其ノ一半ヲ濾過シ
更ニ和田堀浄水池ニ導キ
他ノ一半ハ仝所ヨリ暗渠ヲ以テ現在代田新水路ニ導キ
淀橋浄水場ニテ濾過シ共ニ市内ニ給水ス
尚ホ本計画ニ依ルモ他日乏水ヲ告クルノ暁ニ於テハ
秋川ノ水ヲ戸倉村ヨリ大久野貯水池ニ導キ補給シ得ル計画ナリ。
第二計画
第二計画ハ多摩川沿岸羽村ヨリ仝川ノ水ヲ取リ入レ
村山ニ設クル大貯水池ニ導キ
之ヨリ武蔵野平野ヲ通過シ武蔵野村境浄水場ニ至リ
以下第一計画ト同一ノ方法ニヨリ市内ニ給水スルモノトス
尚ホ本計画ニ依ルモ他日乏水ヲ告クル暁ニ於テハ
埼玉県名栗川ノ水ヲ村山貯水池ニ導キ補給シ得ルノ計画ナリ。
両計画の比較(要点を抜粋します)
第一計画は
水源を上流に求めるので水質がよい
他日必要に応じて秋川から導水できる
貯水池の地盤が高いので、水力電気を起すことが出来る
工費が第二計画より多額となる
貯水池位置から隧道が多くなり工事が困難である
第二計画は
水源を下流に求めるので青梅町やその他諸村落の汚水の流入が免れない
他日、水不足が生じたときは名栗川の水をひくが水量が秋川に及ばない
工事が容易であるばかりでなく工費も少額ですむ
貯水池の形が細長く地盤もよく、「実ニ理想的貯水池タリト云フ可シ」。
でした。(東大和市史資料編2p20)
この案に対して、東京市は審議を開始しました。
2村山貯水池に決定
東京市区改正委員会の審議
・明治44年(1911)12月13日、東京市区改正委員会において審議、図面などの印刷が間に合わず延期
・明治45年(1912)4月5日、東京市区改正委員会で審議 中島博士欠席
委員からは
◎大久野・村山貯水池案と共に東京市内への深井戸新設により地下水を利用する案
◎玉川上水路の利用のままでは、途中での蒸発、浸透、汚染、分水などから、新規に水路を掘るなどの案が出ました。ただ、中島博士が欠席のため、翌日に結論を延期しました。
・4月6日、再会、中嶋博士は次のように発言しています。
・大久野案、村山案とも一長一短、どちらも可能
・10年後、第三次拡張計画の必要性あり
◎審議の結果、第二案が賛成多数により可決されました。
理由は工費が安く、工期も短いことでした。
こうして、東大和市域内=当時の高木村他五ヵ村組合の区域内と隣接する村に貯水池がつくられることになりました。
3地元の高木村他五ヵ村組合はどう対応した?
当時の村々の約四分の一を占める地域が湖底に沈むことになりました。しかも古村です。こんなに重要なことでありながら、決定について、地元にどのように連絡があり、村々はどのように対応したのか、その動きを知る資料は明らかになっていません。全く蚊帳の外に置かれたとしか考えられない不思議さです。
当時の東村山市、武蔵村山市、東大和市内の村々は共に測量、用地買収の段階で急激な行動と展開を見せます。
決定に関わる当時の地元の動きを資料として紹介できないのが残念です。
1大久野・村山貯水池案
中島博士は多摩川の水源地や周辺を踏査して、調査を進めました。その結果を基に、明治44年(1911)12月13日、次の2案を提示しました。
中島博士提示案
第一計画 西多摩郡大久野村
第二計画 北多摩郡村山に貯水池を建設して対応しようとするものです。内容は次の通りです。
第一計画
第一計画ハ多摩川上流氷川下ヨリ仝川ノ水ヲ取リ入レ
西多摩郡大久野村(現日の出町)ニ設クル大貯水池ニ之ヲ導キ
夫レヨリ草花村ニ至リ水力ニ利用シ
多摩川ヲ鉄橋ニテ横断シ
福生水溜ヲ経テ武蔵野平原ノ一端ヲ通過シ
武蔵野村境ニテ其ノ一半ヲ濾過シ
更ニ和田堀浄水池ニ導キ
他ノ一半ハ仝所ヨリ暗渠ヲ以テ現在代田新水路ニ導キ
淀橋浄水場ニテ濾過シ共ニ市内ニ給水ス
尚ホ本計画ニ依ルモ他日乏水ヲ告クルノ暁ニ於テハ
秋川ノ水ヲ戸倉村ヨリ大久野貯水池ニ導キ補給シ得ル計画ナリ。
第二計画
第二計画ハ多摩川沿岸羽村ヨリ仝川ノ水ヲ取リ入レ
村山ニ設クル大貯水池ニ導キ
之ヨリ武蔵野平野ヲ通過シ武蔵野村境浄水場ニ至リ
以下第一計画ト同一ノ方法ニヨリ市内ニ給水スルモノトス
尚ホ本計画ニ依ルモ他日乏水ヲ告クル暁ニ於テハ
埼玉県名栗川ノ水ヲ村山貯水池ニ導キ補給シ得ルノ計画ナリ。
両計画の比較(要点を抜粋します)
第一計画は
水源を上流に求めるので水質がよい
他日必要に応じて秋川から導水できる
貯水池の地盤が高いので、水力電気を起すことが出来る
工費が第二計画より多額となる
貯水池位置から隧道が多くなり工事が困難である
第二計画は
水源を下流に求めるので青梅町やその他諸村落の汚水の流入が免れない
他日、水不足が生じたときは名栗川の水をひくが水量が秋川に及ばない
工事が容易であるばかりでなく工費も少額ですむ
貯水池の形が細長く地盤もよく、「実ニ理想的貯水池タリト云フ可シ」。
でした。(東大和市史資料編2p20)
この案に対して、東京市は審議を開始しました。
2村山貯水池に決定
東京市区改正委員会の審議
・明治44年(1911)12月13日、東京市区改正委員会において審議、図面などの印刷が間に合わず延期
・明治45年(1912)4月5日、東京市区改正委員会で審議 中島博士欠席
委員からは
◎大久野・村山貯水池案と共に東京市内への深井戸新設により地下水を利用する案
◎玉川上水路の利用のままでは、途中での蒸発、浸透、汚染、分水などから、新規に水路を掘るなどの案が出ました。ただ、中島博士が欠席のため、翌日に結論を延期しました。
・4月6日、再会、中嶋博士は次のように発言しています。
・大久野案、村山案とも一長一短、どちらも可能
・10年後、第三次拡張計画の必要性あり
◎審議の結果、第二案が賛成多数により可決されました。
理由は工費が安く、工期も短いことでした。
こうして、東大和市域内=当時の高木村他五ヵ村組合の区域内と隣接する村に貯水池がつくられることになりました。
3地元の高木村他五ヵ村組合はどう対応した?
当時の村々の約四分の一を占める地域が湖底に沈むことになりました。しかも古村です。こんなに重要なことでありながら、決定について、地元にどのように連絡があり、村々はどのように対応したのか、その動きを知る資料は明らかになっていません。全く蚊帳の外に置かれたとしか考えられない不思議さです。
当時の東村山市、武蔵村山市、東大和市内の村々は共に測量、用地買収の段階で急激な行動と展開を見せます。
決定に関わる当時の地元の動きを資料として紹介できないのが残念です。
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This item has no relations.
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Citation
“計画と決定,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1522.