工場の給水塔
タイトル (Title)
工場の給水塔
詳細 (Description)
2001年まで、日立航空機工業(株)変電所跡の前に立つと左側に給水塔が建っていました。変電所跡とともに、給水塔は太平洋戦争で爆撃を受けた際の弾痕を残す貴重な戦跡でした。変電所跡は保存され、給水塔も保存を願ったのですが実現できませんでした。
変電所と給水塔は対になって爆撃痕を残し、工場の広さ位置関係がよくわかりました。この姿がなくなったのは本当に残念です。
画像右下に交差点があります。西武拝島線玉川上水駅北口のロータリー、向かって右側端にある道路を左(北側)に曲がってきたところです。現在は画像の交差点斜め右上の空地が、東大和市総合福祉センター・はーとふるになっています。地図の上では次のようになります。
給水塔の全容です。工場用水の中心施設でしたが、この地は、水源発見の地でもあった。東大和市資料編1に元日立航空機立川工場長古林さんの手記が抜粋されています。「水がないために人が住まなかった土地である。どこを探しても水気さえも見つからない。困り抜いたはてに、当てなしに試掘する ことにした。
第一回目に現在の給水塔のある位置で 試掘を始めた。水気を含んだ土が上ってきた。少し水らしいものが出てだんだん増してきた。当った、当ったと立会人はほっと安心。試掘一五〇㍍まで掘った所で、水が湧き出るようになった。
テストには一日二〇〇石(約三十六立方駐)の 湧水が出て、関係者全員大喜び。これで いよいよ本格的建設も可能となった。」と記されています。
昭和20年(1945)2月17日、4月19日、4月24日の3回にわたる米軍機による爆撃の跡です。徹底的に破壊され工場群は壊滅状況になりました。110人を超す尊い命が犠牲となりました。
この塔は監視塔を兼ねていました。昭和20年(1945)
・2月17日、給水塔で監視中、爆撃を受ける
・4月19日、給水塔にて監視中、敵機三機現れ、銃撃される
・4月24日、給水塔に昇り監視中に爆撃にあう、てい伝に配した青年、畑の中で死亡(三人)
との記録が残されています。
2001年3月27日、給水塔は解体されました。桜が丘図書館の北側の道路からです。
電所跡の正面入り口左にその一部が保存されています。
変電所と給水塔は対になって爆撃痕を残し、工場の広さ位置関係がよくわかりました。この姿がなくなったのは本当に残念です。
画像右下に交差点があります。西武拝島線玉川上水駅北口のロータリー、向かって右側端にある道路を左(北側)に曲がってきたところです。現在は画像の交差点斜め右上の空地が、東大和市総合福祉センター・はーとふるになっています。地図の上では次のようになります。
給水塔の全容です。工場用水の中心施設でしたが、この地は、水源発見の地でもあった。東大和市資料編1に元日立航空機立川工場長古林さんの手記が抜粋されています。「水がないために人が住まなかった土地である。どこを探しても水気さえも見つからない。困り抜いたはてに、当てなしに試掘する ことにした。
第一回目に現在の給水塔のある位置で 試掘を始めた。水気を含んだ土が上ってきた。少し水らしいものが出てだんだん増してきた。当った、当ったと立会人はほっと安心。試掘一五〇㍍まで掘った所で、水が湧き出るようになった。
テストには一日二〇〇石(約三十六立方駐)の 湧水が出て、関係者全員大喜び。これで いよいよ本格的建設も可能となった。」と記されています。
昭和20年(1945)2月17日、4月19日、4月24日の3回にわたる米軍機による爆撃の跡です。徹底的に破壊され工場群は壊滅状況になりました。110人を超す尊い命が犠牲となりました。
この塔は監視塔を兼ねていました。昭和20年(1945)
・2月17日、給水塔で監視中、爆撃を受ける
・4月19日、給水塔にて監視中、敵機三機現れ、銃撃される
・4月24日、給水塔に昇り監視中に爆撃にあう、てい伝に配した青年、畑の中で死亡(三人)
との記録が残されています。
2001年3月27日、給水塔は解体されました。桜が丘図書館の北側の道路からです。
電所跡の正面入り口左にその一部が保存されています。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“工場の給水塔,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1547.