旧住吉神社と御嶽神社
タイトル (Title)
旧住吉神社と御嶽神社
詳細 (Description)
かって、芋窪・四ッ街道の路地の奥に住吉神社と御嶽神社がまつられていました。
大正年間、村山貯水池の建設が行われたとき、豊鹿島神社に合祀する話が出たそうです。しかし、石川の里の人々の強い意志で、村人と共に芋窪四丁目のこの地に移転しました。
そして、今回、都市計画道路・東大和武蔵村山線が敷かれることになり、再び近くに移転をしました。
旧参道は地元の皆さんが四街道(四ッ街道・よつかいどう)と呼ぶ道に面して設けられていました。古くは、江戸街道の庚申塚交差点で分離して、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村を通り、中藤村へ通ずる江戸時代の主要道路です。鳥居をくぐると、本殿と御嶽神社、社務所、三つの石碑がまつられていました。
「住吉神社」には社殿内に住吉神社と八雲神社がまつられ、地元の方々は「天王様」と呼んでいました。
・水に関する神様とともに
・疫病を防ぎ、病を軽くする
・天候を安定させ、作物の豊かな実りをもたらす
神々と崇敬していました。
また、社地には、住吉神社と並んで御嶽神社がまつられていました。「藤兵衛さんとおおかみ」の伝承のある祠で、多くの市民の方々から親しまれていました。
住吉神社旧地と移転関係図
住吉神社は当初、村山上貯水池に沈んだ石川の地から、狭山丘陵南側の当時はまだ畑が一面に広がる、赤っ風(あかっかぜ)の立つ地域に移転しました。
住民の方々は大正4年(1915)12月から移転を開始していますが、同じ地域から蓮花寺、慶性院が大正12年(1923)に移転しているので、その前後と考えられます。
住吉神社・天王様のお祭り
いずれの古老も懐かしげに語るのが、天王様の「とうろうまつり」です。石川の頃は丘の麓にあった鳥居の付近から頂上までの坂を彩る灯籠のあかりです。移転してからは四ッ街道の交差点まで飾ったようです。『東大和市史資料編』は次のように記します。
石川の谷ッでは「とうろうまつり」といって子どもの祭りであった。四角なアンドンを作って絵を貼り、手ランプをつけて参道に立てた。ローソクもあったが余裕がなくて安い石油を使ったという。
芋窪に移転後は天王様の祭りといっている。六月三十日が大祭であったが、今は七月の第一日曜日に行っている。
昔からの灯籠を二十個ばかり参道に飾っていたが、今は四ッ街道まで〆縄(しめなわ)を張って立てている。地口絵(じぐちえ)は砂川の人に書いてもらっているが、なかなか洒落(しゃれ)た文句が多くなった。
宵宮(よみや・よいみや)には神主(石井宮司)が来て祝詞を上げ、氏子代表が出て神事を行う。今も宵宮の晩に集会所でお日待をやる。氏子も始めは四十名位だったが、原の方の自治会に入ってない人の参加も多くなり年々増えて大変賑わう。昔は皆が集まるころには神主は帰ってしまったが、今は皆に会えるからと待っていて、挨拶をした上で帰られるという。
この日の寄附金が一年間の財源になり、祭りや、修復の費用などを賄なっている。(『東大和市史資料編』9p109)
住吉神社と八雲神社
きちんと屋根で覆われた笠木に台輪付きの鳥居をくぐると正面にまつられているのが住吉神社でした。
地元では住吉様、天王様と慕われた社殿には内部に、住吉神社と八雲神社の神々がまつられていました。
祭神は豊鹿島神社パンフレットに
・住吉神社 底筒男命(そこつつおのみこと)・中津和多津見命(なかつわたつみのみこと)・上津和多津見命(うわつわたつみのみこと)
・八雲神社 素盞雄命(すさのうのみこと)
と記されます。いずれも古事記、日本書紀に由来する神々で水に関係します。
また、東大和市周辺では素盞雄命は牛頭天王(ごずてんのう)としてもまつられ、悪疫や病気を防ぎ、天候や水利を安定させ、豊作をもたらす神として崇敬されました。地元で「天王様」と親しまれるもとはここにありそうです。
この神々の由来は「天王様の神々」に書きました。
新しい社殿にも同じように両神社がまつられています。
御嶽神社(みたけじんじゃ)
住吉神社の境内に住吉様と並んで御嶽神社がまつられていました。
武蔵御嶽神社(青梅市)への信仰は、天候安定、五穀豊穣、火盗退除、邪悪除守、養蚕・・・などを祈願して、狭山丘陵一帯の村々に広がりました。東大和市内でも各地区(芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水)で「御嶽講」が形成されていました。その中で、住吉神社境内の御嶽神社は次のような特別の背景があり親しまれました。
藤兵衛(とうべえ)さんと狼
御嶽神社は藤兵衛さんがまつった神社でした。次のような話が伝わります。少し長くなりますが、当時の石川の里の様子をよく伝えますので『東大和のよもやまばなし』から引用します。
昔、石川の谷では、村人が農業や山仕事に精をだして暮しておりました。部落の西からつきでた丘の上に住吉様が祀られていて、その辺は大きな森になっていましたので、北側の谷は日かげ地になり、村の人はそのあたりを”日かげ”と呼んでおりました。
藤兵衛さんは、うでのよい木こりの親方です。”日かげ”に住んでいましたので、「日かげの藤兵衛さん」と呼ばれていました。雨が降らなければ、毎朝、笠松坂を通って仕事場に行きます。
ある朝、笠松坂をのぼって行くと、狼が大きな口をあいて苦しげに、首を振っています。逃げるでもなく、何か頼みたいようす。こわごわ近よってみると、のどに捨場の肉を食べて骨が刺さって苦しんでいるようです。藤兵衛さんはこわかったけれど、痛かろうと思い、
「取ってやるから、よく見せてくれ。おれに食いつくではないぞ。」
というと、狼はこっくりしました。思いきって狼の口に手を入れて、つかえていた骨を取ってやると、うれしそうに首を一つさげて木の間に入って行ったそうです。
その日の夕方、笠松坂まで戻ってきますと、今朝の狼が、家まで送ってくれました。翌朝仕度をして家を出ると、狼が待っていてついてきます。こうして何日か狼が朝晩送り迎えをしてくれました。狼はおとなしくついてくるのですが、藤兵衛さんは気味が悪くてしようがありません。
「狼や、そんな姿でついてくると困る。もう明日からはこないでくれよな。」
とさとすように話してやると、翌日からは姿を見せなくなりました。
藤兵衛さんは、狼が御嶽神社のお使いで、大口真神(おおぐちまがみ)といわれていることを思い、小さなお宮を造り、自分を守ってくれた狼を家の常口(じょうぐち)へお祭りし、朝晩おがんでおりました。
大正の初期に、石川の谷が東京市の水道用水池となることにきまり、藤兵衛さんの子孫は芋窪の原へ引越すことになりました。
狼を祀ったお宮も、一しょに原組の住吉様の境内に移されました。そして天王様のお社(やしろ)の隣に祀られて、今も人びとのお参りをうけています。(『東大和のよもやまばなし』p163 一部省略)
このたびの移転、天王様の新築に際し、御嶽神社については、本社の武蔵御嶽神社にお納めしたそうです。
住吉神社境内の三つの石碑
住吉神社境内には、三つの石碑がまつられていました。いずれも村山貯水池の建設の際、石川の里のそれぞれの地ににまつられていたものを移転してきました。
弁財天 文化十四年(1817)
雷大明神 文化四年(1807)
神明社 天保六年(1835)
それぞれの碑の建立に、時代特有の背景があります。詳細は「天王様の石碑」にまとめました。
都市計画道路・東大和武蔵村山線による移転
旧住吉神社は都市計画道路・東大和武蔵村山線(2・3・3)の建設に伴いその用地に住吉神社の境内が含まれることになっていました。平成21年(2009)、武蔵村山市から東大和市に接続して建設する事業が認可されて、神社は再度移転することになりました。
移転の場所は図の2・3・3の真ん中の3付近と決まりました。
用地買収と住吉神社
用地買収が進んできました。この地域の史跡を訪れるときにも、神社が気に懸かり、手を合わせました。
社殿のすぐ脇まで用地の買収が完了し、工事の準備が進みます。
住吉神社、八雲神社、御嶽神社に無事をお祈りしました。
仮社の時代
住吉神社は新しい移転地(都市計画道路に沿って確保)に新社殿ができるまで、一時的に仮社の覆い屋を設けてまつられました。左側のプレハブにしめ縄が張られています。
仮社は
「工事中の天王様はどこへ行かれたのか?」
と心配する方々に心からの安心感をもたらせました。
新設された天王様
待ちに待った新社殿が建造されました。
鳥居には、氏子の長年の願いが籠もった「天王様」の名がかかげられました。
鳥居の奥の新社殿にはお賽銭口が二つ設けられ、住吉神社と八雲神社がまつられています。
御嶽神社は武蔵御嶽神社に納められました。
三つの石碑は社殿の左側に建立されています。
折しも、新コロナウイルスの蔓延は大げさではなく人類的な問題になろうとしています。住吉様の神々と天王様の素戔嗚尊と牛頭天王の神々の強力な力で、この厄介な疫病を退治して頂きたく、真剣に祈りながらこの記事を書きました。
大正年間、村山貯水池の建設が行われたとき、豊鹿島神社に合祀する話が出たそうです。しかし、石川の里の人々の強い意志で、村人と共に芋窪四丁目のこの地に移転しました。
そして、今回、都市計画道路・東大和武蔵村山線が敷かれることになり、再び近くに移転をしました。
旧参道は地元の皆さんが四街道(四ッ街道・よつかいどう)と呼ぶ道に面して設けられていました。古くは、江戸街道の庚申塚交差点で分離して、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村を通り、中藤村へ通ずる江戸時代の主要道路です。鳥居をくぐると、本殿と御嶽神社、社務所、三つの石碑がまつられていました。
「住吉神社」には社殿内に住吉神社と八雲神社がまつられ、地元の方々は「天王様」と呼んでいました。
・水に関する神様とともに
・疫病を防ぎ、病を軽くする
・天候を安定させ、作物の豊かな実りをもたらす
神々と崇敬していました。
また、社地には、住吉神社と並んで御嶽神社がまつられていました。「藤兵衛さんとおおかみ」の伝承のある祠で、多くの市民の方々から親しまれていました。
住吉神社旧地と移転関係図
住吉神社は当初、村山上貯水池に沈んだ石川の地から、狭山丘陵南側の当時はまだ畑が一面に広がる、赤っ風(あかっかぜ)の立つ地域に移転しました。
住民の方々は大正4年(1915)12月から移転を開始していますが、同じ地域から蓮花寺、慶性院が大正12年(1923)に移転しているので、その前後と考えられます。
住吉神社・天王様のお祭り
いずれの古老も懐かしげに語るのが、天王様の「とうろうまつり」です。石川の頃は丘の麓にあった鳥居の付近から頂上までの坂を彩る灯籠のあかりです。移転してからは四ッ街道の交差点まで飾ったようです。『東大和市史資料編』は次のように記します。
石川の谷ッでは「とうろうまつり」といって子どもの祭りであった。四角なアンドンを作って絵を貼り、手ランプをつけて参道に立てた。ローソクもあったが余裕がなくて安い石油を使ったという。
芋窪に移転後は天王様の祭りといっている。六月三十日が大祭であったが、今は七月の第一日曜日に行っている。
昔からの灯籠を二十個ばかり参道に飾っていたが、今は四ッ街道まで〆縄(しめなわ)を張って立てている。地口絵(じぐちえ)は砂川の人に書いてもらっているが、なかなか洒落(しゃれ)た文句が多くなった。
宵宮(よみや・よいみや)には神主(石井宮司)が来て祝詞を上げ、氏子代表が出て神事を行う。今も宵宮の晩に集会所でお日待をやる。氏子も始めは四十名位だったが、原の方の自治会に入ってない人の参加も多くなり年々増えて大変賑わう。昔は皆が集まるころには神主は帰ってしまったが、今は皆に会えるからと待っていて、挨拶をした上で帰られるという。
この日の寄附金が一年間の財源になり、祭りや、修復の費用などを賄なっている。(『東大和市史資料編』9p109)
住吉神社と八雲神社
きちんと屋根で覆われた笠木に台輪付きの鳥居をくぐると正面にまつられているのが住吉神社でした。
地元では住吉様、天王様と慕われた社殿には内部に、住吉神社と八雲神社の神々がまつられていました。
祭神は豊鹿島神社パンフレットに
・住吉神社 底筒男命(そこつつおのみこと)・中津和多津見命(なかつわたつみのみこと)・上津和多津見命(うわつわたつみのみこと)
・八雲神社 素盞雄命(すさのうのみこと)
と記されます。いずれも古事記、日本書紀に由来する神々で水に関係します。
また、東大和市周辺では素盞雄命は牛頭天王(ごずてんのう)としてもまつられ、悪疫や病気を防ぎ、天候や水利を安定させ、豊作をもたらす神として崇敬されました。地元で「天王様」と親しまれるもとはここにありそうです。
この神々の由来は「天王様の神々」に書きました。
新しい社殿にも同じように両神社がまつられています。
御嶽神社(みたけじんじゃ)
住吉神社の境内に住吉様と並んで御嶽神社がまつられていました。
武蔵御嶽神社(青梅市)への信仰は、天候安定、五穀豊穣、火盗退除、邪悪除守、養蚕・・・などを祈願して、狭山丘陵一帯の村々に広がりました。東大和市内でも各地区(芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水)で「御嶽講」が形成されていました。その中で、住吉神社境内の御嶽神社は次のような特別の背景があり親しまれました。
藤兵衛(とうべえ)さんと狼
御嶽神社は藤兵衛さんがまつった神社でした。次のような話が伝わります。少し長くなりますが、当時の石川の里の様子をよく伝えますので『東大和のよもやまばなし』から引用します。
昔、石川の谷では、村人が農業や山仕事に精をだして暮しておりました。部落の西からつきでた丘の上に住吉様が祀られていて、その辺は大きな森になっていましたので、北側の谷は日かげ地になり、村の人はそのあたりを”日かげ”と呼んでおりました。
藤兵衛さんは、うでのよい木こりの親方です。”日かげ”に住んでいましたので、「日かげの藤兵衛さん」と呼ばれていました。雨が降らなければ、毎朝、笠松坂を通って仕事場に行きます。
ある朝、笠松坂をのぼって行くと、狼が大きな口をあいて苦しげに、首を振っています。逃げるでもなく、何か頼みたいようす。こわごわ近よってみると、のどに捨場の肉を食べて骨が刺さって苦しんでいるようです。藤兵衛さんはこわかったけれど、痛かろうと思い、
「取ってやるから、よく見せてくれ。おれに食いつくではないぞ。」
というと、狼はこっくりしました。思いきって狼の口に手を入れて、つかえていた骨を取ってやると、うれしそうに首を一つさげて木の間に入って行ったそうです。
その日の夕方、笠松坂まで戻ってきますと、今朝の狼が、家まで送ってくれました。翌朝仕度をして家を出ると、狼が待っていてついてきます。こうして何日か狼が朝晩送り迎えをしてくれました。狼はおとなしくついてくるのですが、藤兵衛さんは気味が悪くてしようがありません。
「狼や、そんな姿でついてくると困る。もう明日からはこないでくれよな。」
とさとすように話してやると、翌日からは姿を見せなくなりました。
藤兵衛さんは、狼が御嶽神社のお使いで、大口真神(おおぐちまがみ)といわれていることを思い、小さなお宮を造り、自分を守ってくれた狼を家の常口(じょうぐち)へお祭りし、朝晩おがんでおりました。
大正の初期に、石川の谷が東京市の水道用水池となることにきまり、藤兵衛さんの子孫は芋窪の原へ引越すことになりました。
狼を祀ったお宮も、一しょに原組の住吉様の境内に移されました。そして天王様のお社(やしろ)の隣に祀られて、今も人びとのお参りをうけています。(『東大和のよもやまばなし』p163 一部省略)
このたびの移転、天王様の新築に際し、御嶽神社については、本社の武蔵御嶽神社にお納めしたそうです。
住吉神社境内の三つの石碑
住吉神社境内には、三つの石碑がまつられていました。いずれも村山貯水池の建設の際、石川の里のそれぞれの地ににまつられていたものを移転してきました。
弁財天 文化十四年(1817)
雷大明神 文化四年(1807)
神明社 天保六年(1835)
それぞれの碑の建立に、時代特有の背景があります。詳細は「天王様の石碑」にまとめました。
都市計画道路・東大和武蔵村山線による移転
旧住吉神社は都市計画道路・東大和武蔵村山線(2・3・3)の建設に伴いその用地に住吉神社の境内が含まれることになっていました。平成21年(2009)、武蔵村山市から東大和市に接続して建設する事業が認可されて、神社は再度移転することになりました。
移転の場所は図の2・3・3の真ん中の3付近と決まりました。
用地買収と住吉神社
用地買収が進んできました。この地域の史跡を訪れるときにも、神社が気に懸かり、手を合わせました。
社殿のすぐ脇まで用地の買収が完了し、工事の準備が進みます。
住吉神社、八雲神社、御嶽神社に無事をお祈りしました。
仮社の時代
住吉神社は新しい移転地(都市計画道路に沿って確保)に新社殿ができるまで、一時的に仮社の覆い屋を設けてまつられました。左側のプレハブにしめ縄が張られています。
仮社は
「工事中の天王様はどこへ行かれたのか?」
と心配する方々に心からの安心感をもたらせました。
新設された天王様
待ちに待った新社殿が建造されました。
鳥居には、氏子の長年の願いが籠もった「天王様」の名がかかげられました。
鳥居の奥の新社殿にはお賽銭口が二つ設けられ、住吉神社と八雲神社がまつられています。
御嶽神社は武蔵御嶽神社に納められました。
三つの石碑は社殿の左側に建立されています。
折しも、新コロナウイルスの蔓延は大げさではなく人類的な問題になろうとしています。住吉様の神々と天王様の素戔嗚尊と牛頭天王の神々の強力な力で、この厄介な疫病を退治して頂きたく、真剣に祈りながらこの記事を書きました。
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Citation
“旧住吉神社と御嶽神社,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1572.