慶性院
タイトル (Title)
慶性院
詳細 (Description)
寺 名 慶性院(けいしょういん)
白部山(しらべさん)医王寺と号す。中藤村・真福寺の末。
所在地 芋窪六丁目1353番地
宗 派 新義真言宗豊山派
本 尊 不動明王
多摩四国第四十一番札所
奥多摩新四国第四十八番札所
東大和市内で一番西にあるお寺です。
村山貯水池の建設に伴い、大正11年(1922)、旧地の石川の里(上貯水池)から現在地に移転しています。
移転当時、周辺は見渡す限り畑でした。
山門を入ると車止めがあり、本堂へと向かいます。
その右側に3体の石仏がまつられています。
左 庚申塔 享保7年(1722)10月吉日
中 弁財天 寛延2年(1749)
右 水天像 江戸時代末期(東大和市重宝)
石仏については別に紹介します。
創建年代は明確ではありませんが、室町末から江戸時代初めとされます。
寺伝では天文16年(1547年)を開基、慶長6年(1601年)を開山の起点としています。
本堂本尊の不動明王、薬師堂本尊の薬師如来像はいずれも室町時代の作と考えられています。
西に進むと左側に鐘楼、右側に奥の院・薬師堂があります。
奥の院の薬師堂です。『新編武蔵風土記稿』は「開山承秀 慶長6年(1601)11月28日寂せり。
本尊は薬師如来」としていますので、慶性院の当初の本尊は薬師如来であったことがわかります。
堂内に、薬師如来(明和2・1765年まで慶性院の本尊)、日光菩薩・月光菩薩、十二神将が祀られています。
現在、巡礼されることはほとんど無くなりましたが、狭山三十七薬師の第三十六番札所です。東大和市内でお堂の残るのはここだけになりました。
村山貯水池の湖底に沈む前は、三十五番高木薬師堂から慶性院の三十六番に至り、蓮華寺の三十七番、武蔵村山中藤の第一番真福寺へとまわりました。
旧梵鐘は正徳元年(1711)辛卯十月吉日、江戸神田住鋳工多川長門守見年作とされます。
残念ですが、昭和19年(1944)に戦時供出され現存しません。鐘楼は昭和43年(1968)に改修、梵鐘は同45年(1970)に新鋳されました。
鐘楼の左脇に弘法大師一千百五十年御遠忌記念事業の碑があります。最近の寺の整備の様子が刻まれています。
碑文には、昭和59年(1984)宗祖弘法大師、千百五十年御遠忌にあたり、報恩謝徳の事業として
・弘法大師、興教大師逗子を新造
・本堂並びに薬師堂を修理
・境内の整備等を発願して
・檀徒信徒各位の浄財の寄進により
・昭和59年5月に成し遂げたことが刻まれています。
西・墓地側に進むと右側に3体の石造仏がまつられています。
左 庚申塔 寛政2年(1790)
中 大日如来 享保8年(1723)
右 六地蔵 明治21年(1888)2月
3体の石仏と向かい合うように石仏群がまつられています。
左から 萬霊塔、西国坂東秩父四国供養塔(天保15年・1844)
先祖供養塔、地蔵菩薩群
六十六部供養塔(明和2年・1765)、霊神
墓地の一角に永代供養墓が建立(平成17年・2005年)されています。
特にご紹介したいのが、庫裡の東側にまつられている白山大権現です。
東側山門から入ってすぐの石造物の横を右に入ると庫裏の右側に鳥居が見えます。
白部山(しらべさん)慶性院と寺の山号のもとになった白山大権現がまつられています。
旧地の石川の里では小高い丘にまつられていたと伝えられます。
明治の神仏分離政策で強引に引き分けられた白山大権現が平成8年(1996)、敷地内に見事に復興されました。
慶性院には南門があります。ここからお参りすると本堂の正面に出ます。
慶性門
寺と離れていますが、貴重なかつての山門が村山貯水池上堰堤の北側台地に「慶生門」(文久元年・1861墨書名)として保存されています。
村山貯水池建設にあたり慶性院が移転した際、山門は残されました。次第に荒れるのを危惧し狭山貯水池愛護会が移築、その後、市が復元、管理しています。
白部山(しらべさん)医王寺と号す。中藤村・真福寺の末。
所在地 芋窪六丁目1353番地
宗 派 新義真言宗豊山派
本 尊 不動明王
多摩四国第四十一番札所
奥多摩新四国第四十八番札所
東大和市内で一番西にあるお寺です。
村山貯水池の建設に伴い、大正11年(1922)、旧地の石川の里(上貯水池)から現在地に移転しています。
移転当時、周辺は見渡す限り畑でした。
山門を入ると車止めがあり、本堂へと向かいます。
その右側に3体の石仏がまつられています。
左 庚申塔 享保7年(1722)10月吉日
中 弁財天 寛延2年(1749)
右 水天像 江戸時代末期(東大和市重宝)
石仏については別に紹介します。
創建年代は明確ではありませんが、室町末から江戸時代初めとされます。
寺伝では天文16年(1547年)を開基、慶長6年(1601年)を開山の起点としています。
本堂本尊の不動明王、薬師堂本尊の薬師如来像はいずれも室町時代の作と考えられています。
西に進むと左側に鐘楼、右側に奥の院・薬師堂があります。
奥の院の薬師堂です。『新編武蔵風土記稿』は「開山承秀 慶長6年(1601)11月28日寂せり。
本尊は薬師如来」としていますので、慶性院の当初の本尊は薬師如来であったことがわかります。
堂内に、薬師如来(明和2・1765年まで慶性院の本尊)、日光菩薩・月光菩薩、十二神将が祀られています。
現在、巡礼されることはほとんど無くなりましたが、狭山三十七薬師の第三十六番札所です。東大和市内でお堂の残るのはここだけになりました。
村山貯水池の湖底に沈む前は、三十五番高木薬師堂から慶性院の三十六番に至り、蓮華寺の三十七番、武蔵村山中藤の第一番真福寺へとまわりました。
旧梵鐘は正徳元年(1711)辛卯十月吉日、江戸神田住鋳工多川長門守見年作とされます。
残念ですが、昭和19年(1944)に戦時供出され現存しません。鐘楼は昭和43年(1968)に改修、梵鐘は同45年(1970)に新鋳されました。
鐘楼の左脇に弘法大師一千百五十年御遠忌記念事業の碑があります。最近の寺の整備の様子が刻まれています。
碑文には、昭和59年(1984)宗祖弘法大師、千百五十年御遠忌にあたり、報恩謝徳の事業として
・弘法大師、興教大師逗子を新造
・本堂並びに薬師堂を修理
・境内の整備等を発願して
・檀徒信徒各位の浄財の寄進により
・昭和59年5月に成し遂げたことが刻まれています。
西・墓地側に進むと右側に3体の石造仏がまつられています。
左 庚申塔 寛政2年(1790)
中 大日如来 享保8年(1723)
右 六地蔵 明治21年(1888)2月
3体の石仏と向かい合うように石仏群がまつられています。
左から 萬霊塔、西国坂東秩父四国供養塔(天保15年・1844)
先祖供養塔、地蔵菩薩群
六十六部供養塔(明和2年・1765)、霊神
墓地の一角に永代供養墓が建立(平成17年・2005年)されています。
特にご紹介したいのが、庫裡の東側にまつられている白山大権現です。
東側山門から入ってすぐの石造物の横を右に入ると庫裏の右側に鳥居が見えます。
白部山(しらべさん)慶性院と寺の山号のもとになった白山大権現がまつられています。
旧地の石川の里では小高い丘にまつられていたと伝えられます。
明治の神仏分離政策で強引に引き分けられた白山大権現が平成8年(1996)、敷地内に見事に復興されました。
慶性院には南門があります。ここからお参りすると本堂の正面に出ます。
慶性門
寺と離れていますが、貴重なかつての山門が村山貯水池上堰堤の北側台地に「慶生門」(文久元年・1861墨書名)として保存されています。
村山貯水池建設にあたり慶性院が移転した際、山門は残されました。次第に荒れるのを危惧し狭山貯水池愛護会が移築、その後、市が復元、管理しています。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“慶性院,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年12月11日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1576.