慶性院の歴史
タイトル (Title)
慶性院の歴史
詳細 (Description)
寺 名 慶性院(けいしょういん)
白部山(しらべさん)医王寺と号す。中藤村・真福寺の末。
所在地 芋窪六丁目1353番地
宗 派 新義真言宗豊山派
本 尊 不動明王
多摩四国第四十一番札所
奥多摩新四国第四十八番札所
1創建
創建の場
慶性院は先史時代から人びとが住み始めた狭山丘陵の大きな谷ッの一つ、現在は村山上貯水池の湖底に沈んだ石川の集落に創建されました。
丘陵からの湧き水を集めて流れる石川(前川)を前に、背面の丘陵部に白山大権現をまつる静かな地です。
創建時は薬師如来を本尊としました。
寺からは北に勝楽寺村、西に中藤村へと小径が通じていました。
大正12年(1923)村山貯水池の建設に伴い、石川の地を去り丘陵の南の現在の地に移転しました。
創建の年代
慶性院の創建については次の説があります。
(1)寺伝では
開基 羕尊上人が遷化された天文16年(1547)を開基の起点
開山 羕秀上人が遷化された慶長6年(1601)を開山の起点とします。
(2)江戸時代からの諸記録
は次のように伝えます。
・『新編武蔵風土記稿』 開山承秀 慶長6年(1601)11月28日寂せり。本尊は薬師如来。
・『武蔵名勝図会』 元亀2年(1571)起立。開山承秀 慶長6年(1601)11月28日寂。本尊は薬師如来。
・『狭山之栞』 開山尊承法印は天文16年(1547)正月寂す。本尊は不動明王。
・文字など相違がありますが、原文のまま関連箇所を引用します。
①『新編武藏風土記稿』
「医王寺 除地、五畝十八歩、字石川にあり、白部山慶性院と号す、これも同寺(中藤村真福寺)の末、開山承秀慶長六年(1601)十一月二十八日寂せり、本堂五間に八間南向、本尊薬師木の立像長一尺六寸、行基の作を置り、鐘楼に鐘を掛たれども、正徳年中(1711~1715)の新鋳なり、ことに考証とすべきことなければ、銘文はとらず、」
②『武蔵名勝図絵』
「慶性院
芋窪村。白部山医王寺と号す。新義真言、中藤村真福寺末なり。元亀二年(一五七一)起立。本尊薬師如来木立像、一尺六寸、行基作。開山承秀法印慶長六年(一六〇一)十一月廿八日寂。」
③『狭山之栞』
「慶性院は白部山医王寺と呼び中藤真福寺末也。本尊不動明王の座像は長一尺五寸許り御腹寵は弘法大師の御作長五寸。開山尊承法印は天文十六丁未(1547)年正月寂す。地内白山神社ある故白部山と號し薬師堂あるにつき医王寺と呼ぶ。
寺僧圓鏡法師曰く、按するに当寺は往古鹿島谷に小堂ありしを地頭二給となりし故に知行所分れしため、薬師堂の地へ合併したるらしと。また慶性の二字は慶長と同意なれば是に依つて考ふれば慶長の頃此処へ引寺となりしなるべしと云へり。
法流開祖は十五世鏡意法印にして天明元辛丑(1781)年六月十五日入寂す。開基より淳賢迄二十二世僧を経。前記圓鏡法印は姓を田口と云ひ下宅郡の産にして三光院比丘順孝の徒也。同師後の山中に水天の像を勧請す。
藥師堂は西の山上にあり。本尊白檀佛の立像は長一尺五寸春日の作なり。狭山薬師三十六番の霊場たり。
先年堂舎焼亡につき尊像は慶性院へ合併し跡は其儘となる。」
(3)仏像による年代想定
慶性院は本堂に木造不動明王座像、薬師堂に木造薬師如来像、十二神将像をまつります。これらの像については、いずれも室町時代から江戸時代初期の作成と推定されています。
①本堂・木造不動明王座像
小さな不動明王立像を胎内に納める40㌢ほどの座像です。『東大和市史資料編8 信仰のすがたと造形』は次のように記します。
「本像は、比較的小像ながら本尊にふさわしい実に堂々とした姿をみせている。(中略)その形式は真言密教系の伝統的スタイルを受け継ぐものといえる。これら作風や技法と併せて専門仏師の手による本格的な造像であることをうかがわせる。
寺伝によれば、法流開祖と伝えられる当寺十五世法印鏡意和尚が明和二年(一七六五)に本尊像を造立し、またこの時、旧来の本尊は小仏であったので、新造の本尊像の体内に奉籠したとされる。この伝えのとおり、現本尊像のもつ作風は江戸時代中期の明和二年頃の制作としても矛盾はなく、この頃の造立とみなして差し支えあるまい。
体内に奉籠した38㌢の立像については
「本像の制作年代については記録の上に確認できず、断定はできないが、その作風には室町時代の古様さが残る反面、裳裾の広がりなどに形式化の進んだところも認められ、江戸時代に入ってからの造立かと考えられる。」
②薬師堂・木造薬師如来像
「頭部においては螺髪(らほつ)が大粒で、髪際にはうねりがみられる。顔のつくりはわりと平板で、下膨れの顔に大きな目が個性的な表情をみせる。また偏杉(へんさん)に大衣をまとった着衣の表現でも、衣文は大ぶりで、衣端も柔らかく波打つような動きをみせて特徴的である。これらの造形の特色は中世室町時代的な趣を感じさせるが、本像においては、体に比してやや大きめの頭部、大胆に簡略化された衣文などから、その余風をとどめる桃山時代を中心とした時期の作と推測される」。(『東大和市史資料編8 信仰のすがたと造形』 p172)
薬師堂を寺では奥の院と呼びます。
以上から、慶性院の創建時の状況が浮かんで来ます。
天文16年(1547) 頃は、後北條氏が関東に入り、戦乱が続きました。
元亀2年(1571)頃は、関西では織田信長が勢力を広め、関東では、武田信玄と後北條氏が激戦を繰り返しているときでした。
開山の時期と考えられる慶長の頃は、徳川家康が直属の家臣をこの地域に配属し、後北條氏からの地域支配が転換しつつあった時期でした。
(4)薬師様からお不動様へ(法流開祖)
慶性院は現在、不動明王を本尊とします。
『狭山之栞』は「法流開祖は十五世鏡意法印にして天明元辛丑(1781)年六月十五日入寂す」と記します。そして、慶性院のHPは「明和2年(1765年)時の住職・鏡意和尚が真言宗正統の法派を伝承し、不動護摩の伝授を受け、これを修するため本尊を新たに造立したと伝えられております」とします。1700年代中頃に、本尊を不動明王像とし、薬師像は奥の院にまつられるようになりました。
2村山貯水池建設による移転
慶性院は大正11年(1922)~12年にかけて移転のための新築工事を行い、大正12年(1923)に現在地に移転しました。移転当時は武蔵野の原野を新田開発した畑の中でした。その際、山門が現地に残され、現在、村山貯水池中央堰堤の北にある台地に慶生門として保存されています。
その後、昭和59年(1984)宗祖弘法大師、千百五十年御遠忌にあたり、報恩謝徳の事業として、檀徒信徒による浄財の寄進により
・弘法大師、興教大師逗子を新造
・本堂並びに薬師堂を修理
・境内の整備等を行い、
昭和59年5月(1984)に竣工したことが、境内の碑に刻まれています。
3白山大権現の復興
特記すべきは白山大権現の復興です。
慶性院は山号を白部山(しらべさん)とし、神仏習合の江戸時代までは境内の小高い丘に白山大権現がまつられていました。
それが、明治新政府の神仏分離政策で、明治2年(1869)6月3日
「芋久保村 新義真言宗慶性院 旧来別当両部神道神勤仕り来たり候、同村熊野神社並びに社地とも同村豊鹿島明神の神主石井以豆美へ神勤は勿論社地とも進退申しつけ候」(『里正日誌』10p419)と強引に引き分けられました。
様々な経緯があったことと推察しますが、平成8年(1996)、敷地内に見事に復興され、鳥居の奥に白山大権現がまつられています。
白部山(しらべさん)医王寺と号す。中藤村・真福寺の末。
所在地 芋窪六丁目1353番地
宗 派 新義真言宗豊山派
本 尊 不動明王
多摩四国第四十一番札所
奥多摩新四国第四十八番札所
1創建
創建の場
慶性院は先史時代から人びとが住み始めた狭山丘陵の大きな谷ッの一つ、現在は村山上貯水池の湖底に沈んだ石川の集落に創建されました。
丘陵からの湧き水を集めて流れる石川(前川)を前に、背面の丘陵部に白山大権現をまつる静かな地です。
創建時は薬師如来を本尊としました。
寺からは北に勝楽寺村、西に中藤村へと小径が通じていました。
大正12年(1923)村山貯水池の建設に伴い、石川の地を去り丘陵の南の現在の地に移転しました。
創建の年代
慶性院の創建については次の説があります。
(1)寺伝では
開基 羕尊上人が遷化された天文16年(1547)を開基の起点
開山 羕秀上人が遷化された慶長6年(1601)を開山の起点とします。
(2)江戸時代からの諸記録
は次のように伝えます。
・『新編武蔵風土記稿』 開山承秀 慶長6年(1601)11月28日寂せり。本尊は薬師如来。
・『武蔵名勝図会』 元亀2年(1571)起立。開山承秀 慶長6年(1601)11月28日寂。本尊は薬師如来。
・『狭山之栞』 開山尊承法印は天文16年(1547)正月寂す。本尊は不動明王。
・文字など相違がありますが、原文のまま関連箇所を引用します。
①『新編武藏風土記稿』
「医王寺 除地、五畝十八歩、字石川にあり、白部山慶性院と号す、これも同寺(中藤村真福寺)の末、開山承秀慶長六年(1601)十一月二十八日寂せり、本堂五間に八間南向、本尊薬師木の立像長一尺六寸、行基の作を置り、鐘楼に鐘を掛たれども、正徳年中(1711~1715)の新鋳なり、ことに考証とすべきことなければ、銘文はとらず、」
②『武蔵名勝図絵』
「慶性院
芋窪村。白部山医王寺と号す。新義真言、中藤村真福寺末なり。元亀二年(一五七一)起立。本尊薬師如来木立像、一尺六寸、行基作。開山承秀法印慶長六年(一六〇一)十一月廿八日寂。」
③『狭山之栞』
「慶性院は白部山医王寺と呼び中藤真福寺末也。本尊不動明王の座像は長一尺五寸許り御腹寵は弘法大師の御作長五寸。開山尊承法印は天文十六丁未(1547)年正月寂す。地内白山神社ある故白部山と號し薬師堂あるにつき医王寺と呼ぶ。
寺僧圓鏡法師曰く、按するに当寺は往古鹿島谷に小堂ありしを地頭二給となりし故に知行所分れしため、薬師堂の地へ合併したるらしと。また慶性の二字は慶長と同意なれば是に依つて考ふれば慶長の頃此処へ引寺となりしなるべしと云へり。
法流開祖は十五世鏡意法印にして天明元辛丑(1781)年六月十五日入寂す。開基より淳賢迄二十二世僧を経。前記圓鏡法印は姓を田口と云ひ下宅郡の産にして三光院比丘順孝の徒也。同師後の山中に水天の像を勧請す。
藥師堂は西の山上にあり。本尊白檀佛の立像は長一尺五寸春日の作なり。狭山薬師三十六番の霊場たり。
先年堂舎焼亡につき尊像は慶性院へ合併し跡は其儘となる。」
(3)仏像による年代想定
慶性院は本堂に木造不動明王座像、薬師堂に木造薬師如来像、十二神将像をまつります。これらの像については、いずれも室町時代から江戸時代初期の作成と推定されています。
①本堂・木造不動明王座像
小さな不動明王立像を胎内に納める40㌢ほどの座像です。『東大和市史資料編8 信仰のすがたと造形』は次のように記します。
「本像は、比較的小像ながら本尊にふさわしい実に堂々とした姿をみせている。(中略)その形式は真言密教系の伝統的スタイルを受け継ぐものといえる。これら作風や技法と併せて専門仏師の手による本格的な造像であることをうかがわせる。
寺伝によれば、法流開祖と伝えられる当寺十五世法印鏡意和尚が明和二年(一七六五)に本尊像を造立し、またこの時、旧来の本尊は小仏であったので、新造の本尊像の体内に奉籠したとされる。この伝えのとおり、現本尊像のもつ作風は江戸時代中期の明和二年頃の制作としても矛盾はなく、この頃の造立とみなして差し支えあるまい。
体内に奉籠した38㌢の立像については
「本像の制作年代については記録の上に確認できず、断定はできないが、その作風には室町時代の古様さが残る反面、裳裾の広がりなどに形式化の進んだところも認められ、江戸時代に入ってからの造立かと考えられる。」
②薬師堂・木造薬師如来像
「頭部においては螺髪(らほつ)が大粒で、髪際にはうねりがみられる。顔のつくりはわりと平板で、下膨れの顔に大きな目が個性的な表情をみせる。また偏杉(へんさん)に大衣をまとった着衣の表現でも、衣文は大ぶりで、衣端も柔らかく波打つような動きをみせて特徴的である。これらの造形の特色は中世室町時代的な趣を感じさせるが、本像においては、体に比してやや大きめの頭部、大胆に簡略化された衣文などから、その余風をとどめる桃山時代を中心とした時期の作と推測される」。(『東大和市史資料編8 信仰のすがたと造形』 p172)
薬師堂を寺では奥の院と呼びます。
以上から、慶性院の創建時の状況が浮かんで来ます。
天文16年(1547) 頃は、後北條氏が関東に入り、戦乱が続きました。
元亀2年(1571)頃は、関西では織田信長が勢力を広め、関東では、武田信玄と後北條氏が激戦を繰り返しているときでした。
開山の時期と考えられる慶長の頃は、徳川家康が直属の家臣をこの地域に配属し、後北條氏からの地域支配が転換しつつあった時期でした。
(4)薬師様からお不動様へ(法流開祖)
慶性院は現在、不動明王を本尊とします。
『狭山之栞』は「法流開祖は十五世鏡意法印にして天明元辛丑(1781)年六月十五日入寂す」と記します。そして、慶性院のHPは「明和2年(1765年)時の住職・鏡意和尚が真言宗正統の法派を伝承し、不動護摩の伝授を受け、これを修するため本尊を新たに造立したと伝えられております」とします。1700年代中頃に、本尊を不動明王像とし、薬師像は奥の院にまつられるようになりました。
2村山貯水池建設による移転
慶性院は大正11年(1922)~12年にかけて移転のための新築工事を行い、大正12年(1923)に現在地に移転しました。移転当時は武蔵野の原野を新田開発した畑の中でした。その際、山門が現地に残され、現在、村山貯水池中央堰堤の北にある台地に慶生門として保存されています。
その後、昭和59年(1984)宗祖弘法大師、千百五十年御遠忌にあたり、報恩謝徳の事業として、檀徒信徒による浄財の寄進により
・弘法大師、興教大師逗子を新造
・本堂並びに薬師堂を修理
・境内の整備等を行い、
昭和59年5月(1984)に竣工したことが、境内の碑に刻まれています。
3白山大権現の復興
特記すべきは白山大権現の復興です。
慶性院は山号を白部山(しらべさん)とし、神仏習合の江戸時代までは境内の小高い丘に白山大権現がまつられていました。
それが、明治新政府の神仏分離政策で、明治2年(1869)6月3日
「芋久保村 新義真言宗慶性院 旧来別当両部神道神勤仕り来たり候、同村熊野神社並びに社地とも同村豊鹿島明神の神主石井以豆美へ神勤は勿論社地とも進退申しつけ候」(『里正日誌』10p419)と強引に引き分けられました。
様々な経緯があったことと推察しますが、平成8年(1996)、敷地内に見事に復興され、鳥居の奥に白山大権現がまつられています。
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Citation
“慶性院の歴史,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年12月11日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1577.