豊鹿島神社本殿の棟札2 天文19年(1550)
タイトル (Title)
豊鹿島神社本殿の棟札2 天文19年(1550)
詳細 (Description)
豊鹿島神社現本殿の棟札の続きです。創建棟札(文正元年・1466)に続いて、天文19年(1550)の棟札が発見されています。
(2)天文19年(1550)棟札について
表面
武州多東郡上奈良橋郷 大旦那工藤下総入道(くどうしもふさにゅうどう)
奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事
当別当 梅満命姉 大工 乙者た太郎左衛門(乙幡)
裏面
天文19年(1550)かのえ十一月五日 筆者不動坊賢清(花押)
この棟札には、
・今回の工事を行った原因
・大旦那工藤下総入道
の問題があります。 大工、「乙者た太郎左衛」は「乙幡」と読め、地元にこの姓を継ぐ方々がいます。
工事の原因
今回の工事を行った原因には二つのことが考えられます。創建後約80年を経ていることと巨大地震です。
①工事が行われる2年前、天文17年(1548)に、後北条氏の氏康(うじやす)と扇谷上杉氏の太田資正(すけまさ)との緊張関係が終結して、氏康が旧扇谷上杉氏の領国を掌握しました。戦乱からのしばしの安定の時期が訪れます。この時に、創建から約80年を経た本殿に修理が必要な箇所が生じており工事が行われたのかも知れません。
②修理が行われた前年の天文18年(1549)4月14日、巨大地震が発生しています。このため、府中の六所宮(大国魂神社)他が修理を行っています。北条氏康が修理費の一部を寄進しています。豊鹿島神社も地震の影響を受けて修理したことが想定されます。豊鹿島神社への氏康の寄進は不明です。修理の原因を記すものは残されていません。
工事の原因と同時に、修理工事の推進者である工藤下総入道と云う人物について、どこを本拠にしていた人なのか、また、所属や役割が気になります。
二人の下総入道
狭山丘陵南麓には中世有力な人物として下総入道を名乗る二人の人物が存在します。
・工藤下総入道(くどうしもふさにゅうどう)=豊鹿島神社棟札
・宅部下総入道(やけべしもふさにゅうどう)=関東管領上杉憲基施行状
です。
①工藤下総入道
すでに紹介した豊鹿島本殿・天文19年(1550)の再建の大旦那をつとめます。人物像は不明です。
②宅部下総入道
天文19年(1550)の再建から100年余遡りますが、宅部に「宅部下総入道」が痕跡を残しています。
立河文書に、応永24年(1417)1月20日、「関東管領上杉憲基施行状写」があります。文書の内容は
・「関東管領上杉憲基」からの命令で
・「立河駿河入道」が庶子「立河雅楽助」に
・「土渕郷田畠・在家・河原等」を「還補」(かんぽ 返還)するにあたっては
・「宅部下総入道」の立ち会いのもとに行え
とするものです。
「立河駿河入道」の館は立川市にある普済寺の場所であろうと考えられています。この駿河入道が、息子の雅楽助に日野市内にある、多摩川を越した部分の田畠・在家・河原等を返還することになった。ついては、宅部下総入道が立ち会って、実務を行え。という関東管領の命令書と考えられます。
ここから、その仕事をこなすに相当した人物が宅部(東大和市下貯水池の堤防付近から東村山駅付近までの区域)に存在したことが伺えます。1400年代、この地域に一挙に板碑の造立が増加します。有力者とともに板碑をまつることが出来る人々が存在したことが考えられ、宅部下総入道もその一人と思われます。
宅部下総入道と工藤下総入道を直接関連づけるのは短絡過ぎて危険です。しかし、両者が、狭山丘陵南麓で活躍したことは否定できません。にもかかわらず、現在に至るまで、両者の像は捉えられていません。
(2)天文19年(1550)棟札について
表面
武州多東郡上奈良橋郷 大旦那工藤下総入道(くどうしもふさにゅうどう)
奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事
当別当 梅満命姉 大工 乙者た太郎左衛門(乙幡)
裏面
天文19年(1550)かのえ十一月五日 筆者不動坊賢清(花押)
この棟札には、
・今回の工事を行った原因
・大旦那工藤下総入道
の問題があります。 大工、「乙者た太郎左衛」は「乙幡」と読め、地元にこの姓を継ぐ方々がいます。
工事の原因
今回の工事を行った原因には二つのことが考えられます。創建後約80年を経ていることと巨大地震です。
①工事が行われる2年前、天文17年(1548)に、後北条氏の氏康(うじやす)と扇谷上杉氏の太田資正(すけまさ)との緊張関係が終結して、氏康が旧扇谷上杉氏の領国を掌握しました。戦乱からのしばしの安定の時期が訪れます。この時に、創建から約80年を経た本殿に修理が必要な箇所が生じており工事が行われたのかも知れません。
②修理が行われた前年の天文18年(1549)4月14日、巨大地震が発生しています。このため、府中の六所宮(大国魂神社)他が修理を行っています。北条氏康が修理費の一部を寄進しています。豊鹿島神社も地震の影響を受けて修理したことが想定されます。豊鹿島神社への氏康の寄進は不明です。修理の原因を記すものは残されていません。
工事の原因と同時に、修理工事の推進者である工藤下総入道と云う人物について、どこを本拠にしていた人なのか、また、所属や役割が気になります。
二人の下総入道
狭山丘陵南麓には中世有力な人物として下総入道を名乗る二人の人物が存在します。
・工藤下総入道(くどうしもふさにゅうどう)=豊鹿島神社棟札
・宅部下総入道(やけべしもふさにゅうどう)=関東管領上杉憲基施行状
です。
①工藤下総入道
すでに紹介した豊鹿島本殿・天文19年(1550)の再建の大旦那をつとめます。人物像は不明です。
②宅部下総入道
天文19年(1550)の再建から100年余遡りますが、宅部に「宅部下総入道」が痕跡を残しています。
立河文書に、応永24年(1417)1月20日、「関東管領上杉憲基施行状写」があります。文書の内容は
・「関東管領上杉憲基」からの命令で
・「立河駿河入道」が庶子「立河雅楽助」に
・「土渕郷田畠・在家・河原等」を「還補」(かんぽ 返還)するにあたっては
・「宅部下総入道」の立ち会いのもとに行え
とするものです。
「立河駿河入道」の館は立川市にある普済寺の場所であろうと考えられています。この駿河入道が、息子の雅楽助に日野市内にある、多摩川を越した部分の田畠・在家・河原等を返還することになった。ついては、宅部下総入道が立ち会って、実務を行え。という関東管領の命令書と考えられます。
ここから、その仕事をこなすに相当した人物が宅部(東大和市下貯水池の堤防付近から東村山駅付近までの区域)に存在したことが伺えます。1400年代、この地域に一挙に板碑の造立が増加します。有力者とともに板碑をまつることが出来る人々が存在したことが考えられ、宅部下総入道もその一人と思われます。
宅部下総入道と工藤下総入道を直接関連づけるのは短絡過ぎて危険です。しかし、両者が、狭山丘陵南麓で活躍したことは否定できません。にもかかわらず、現在に至るまで、両者の像は捉えられていません。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“豊鹿島神社本殿の棟札2 天文19年(1550),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1579.