豊鹿島神社の境内社1
タイトル (Title)
豊鹿島神社の境内社1
詳細 (Description)
概要
豊鹿島神社には、現在、境内に本社殿の他8つの社(祠)がまつられています。下画像の通り、本社殿の左側に1社、右側に6社、少し離れて1社です。それぞれにいわれがあり、お祈り、お願いする事柄も多様です。歴史的に見ると位置や名前が変わっていて、これまで積み続けてきた歴史の重さをズッシリと感じます。
1境内社の経緯
8つの各社がいつ、どのような経緯で現在地にまつられたのか、辿りましたが不明です。そこで、関係する資料を紹介します。
(1)『新編武蔵風土記稿』
江戸時代末の地誌『新編武蔵風土記稿』は当時の末社として
白山祠、子ノ神祠、山王祠の3社を記し、「本社の左右にあり・・・」としています。
◎江戸時代末には本社殿の左右に3社がまつられていたことがわかります。現在も、白山祠は白山神社として、山王祠は日吉神社と改称してまつられているようです。子ノ神祠については不明です。
(2)『狭山之栞』
地元の地誌『狭山之栞』は豊鹿島神社境内社だけでなく、芋窪村全体の「神祠」として
子神、石神、滝沢、山王、弁天、稲荷、大六天、羽黒、神明、熊野、愛宕
を列記しています。なお、白山神社については「慶性院地内にあり」(村山上貯水池に沈んだ地域)としています。
明治初年の神仏分離、大正から昭和初期にかけての村山貯水池の建設と変化が重なり、明治の初めまで、各社は現在とは異なって、次のようにまつられていました。
・豊鹿島神社境内=山王、稲荷、愛宕社
・石川地域(村山上貯水池に沈んだ)=石神、弁天、神明、滝沢社
・西谷ッ=熊野社
・不明=子神、大六天、羽黒社
江戸時代~明治初年の各社の位置は左図の通りです。
現在の位置
・豊鹿島神社境内=山王、稲荷、愛宕、滝沢社
・住吉神社(芋窪四丁目、ただし、道路工事により移転中)=住吉神社、石神碑、弁天碑、神明碑
・西谷ッ=熊野社(現在は山林)
・不明=子神、大六天、羽黒社
(3)「明治3年、芋窪村より韮山県への報告」(里正日誌11p232)
明治3年(1870)、芋窪村は当時の韮山県に鎮守の書き上げを提出しています。その中では
豊鹿島神社
摂社 住吉社 八雲社 熊野社 愛宕社
末社 白山社 稲荷社 子神社
としています。
『狭山之栞』「明治3年書上」に記載されている各社は現在、次の場所にまつられています。
・滝沢、山王、稲荷、愛宕社は豊鹿島神社境内
・弁天、石神、神明社は住吉神社境内(現在、道路拡幅により移転中)に石碑がまつられていました。
・子神、大六天、羽黒、八雲、熊野社は不明
◎熊野社は芋窪西谷ッにまつられていました。現在は丘陵内の林になっています。
◎『新編武蔵風土記稿』『狭山之栞』には記載がなくて、現在、豊鹿島神社境内にまつられる御嶽、産泰社はいずれも芋窪地域の人々が講を形成してまつる神々です。江戸時代から、芋窪地域内にまつられたと考えられます。
2現在の境内社
現在の豊鹿島神社には本社殿に向かって左側と右側に次の各社がまつられています。
本社殿左側(日吉神社・境内社2)
日吉神社 江戸時代の地誌には日吉神社の名はありません。山王社と推定される社がまつられていました。明治3年(1870)の鎮守報告書には豊鹿島神社(鎮守)の摂社として日吉神社の名が記されます。
この時期、新政府の神仏分離政策が推し進められています。その関係により改称されたことも考えられます。
左脇の石灯籠は元禄15年(1702)建立で、「武州多摩郡上奈良橋郷井窪庄」の銘が残り非常に貴重です。
本社殿右側(石段下・境内社3、石段上・境内社4)
本殿右側には石段の右側と石段を登った上に次の各社がまつられています。
石段右側 愛宕神社 白山神社 滝沢明神社=境内社3
石段上側 稲荷社 産泰社 御嶽神社=境内社4
石段下左側の石灯籠は正保4年(1647)の建立で、「鹿嶋大神宮」の銘とともに、東大和市内最古の日待灯籠です。
石段上右側の九頭龍大神碑は、芋窪地域の人々が雹害防止のため、講を形成して、長野県戸隠神社に祈願した碑です。
本社殿右側峰・紅葉稲荷(境内社5)
紅葉稲荷には、境内東側から、石段を登ってお参りできます。もとは、青梅街道沿いにまつられていました。
3境内社と摂社
摂社と境内社の区分については、豊鹿島神社発行パンフレットが次のように記しています。
境内社
紅葉稲荷神社 豊受毘責命(産業振興、商売繁盛)
白山神社 伊裟那岐命(延命長寿、五穀豊穣)
愛宕神社 火産霊命(火難消除)
稲荷神社 豊受毘責命(産業振興、商売繁盛)
産泰社 木花開耶姫命(安産、家内隆昌)
日吉神社 大己貴命(福徳開運)
御嶽神社
滝澤明神社
摂社
住吉神社 底筒男命・中津和多津見命・上津和多津見命
八雲神社 素蓋雄命
豊鹿島神社には、現在、境内に本社殿の他8つの社(祠)がまつられています。下画像の通り、本社殿の左側に1社、右側に6社、少し離れて1社です。それぞれにいわれがあり、お祈り、お願いする事柄も多様です。歴史的に見ると位置や名前が変わっていて、これまで積み続けてきた歴史の重さをズッシリと感じます。
1境内社の経緯
8つの各社がいつ、どのような経緯で現在地にまつられたのか、辿りましたが不明です。そこで、関係する資料を紹介します。
(1)『新編武蔵風土記稿』
江戸時代末の地誌『新編武蔵風土記稿』は当時の末社として
白山祠、子ノ神祠、山王祠の3社を記し、「本社の左右にあり・・・」としています。
◎江戸時代末には本社殿の左右に3社がまつられていたことがわかります。現在も、白山祠は白山神社として、山王祠は日吉神社と改称してまつられているようです。子ノ神祠については不明です。
(2)『狭山之栞』
地元の地誌『狭山之栞』は豊鹿島神社境内社だけでなく、芋窪村全体の「神祠」として
子神、石神、滝沢、山王、弁天、稲荷、大六天、羽黒、神明、熊野、愛宕
を列記しています。なお、白山神社については「慶性院地内にあり」(村山上貯水池に沈んだ地域)としています。
明治初年の神仏分離、大正から昭和初期にかけての村山貯水池の建設と変化が重なり、明治の初めまで、各社は現在とは異なって、次のようにまつられていました。
・豊鹿島神社境内=山王、稲荷、愛宕社
・石川地域(村山上貯水池に沈んだ)=石神、弁天、神明、滝沢社
・西谷ッ=熊野社
・不明=子神、大六天、羽黒社
江戸時代~明治初年の各社の位置は左図の通りです。
現在の位置
・豊鹿島神社境内=山王、稲荷、愛宕、滝沢社
・住吉神社(芋窪四丁目、ただし、道路工事により移転中)=住吉神社、石神碑、弁天碑、神明碑
・西谷ッ=熊野社(現在は山林)
・不明=子神、大六天、羽黒社
(3)「明治3年、芋窪村より韮山県への報告」(里正日誌11p232)
明治3年(1870)、芋窪村は当時の韮山県に鎮守の書き上げを提出しています。その中では
豊鹿島神社
摂社 住吉社 八雲社 熊野社 愛宕社
末社 白山社 稲荷社 子神社
としています。
『狭山之栞』「明治3年書上」に記載されている各社は現在、次の場所にまつられています。
・滝沢、山王、稲荷、愛宕社は豊鹿島神社境内
・弁天、石神、神明社は住吉神社境内(現在、道路拡幅により移転中)に石碑がまつられていました。
・子神、大六天、羽黒、八雲、熊野社は不明
◎熊野社は芋窪西谷ッにまつられていました。現在は丘陵内の林になっています。
◎『新編武蔵風土記稿』『狭山之栞』には記載がなくて、現在、豊鹿島神社境内にまつられる御嶽、産泰社はいずれも芋窪地域の人々が講を形成してまつる神々です。江戸時代から、芋窪地域内にまつられたと考えられます。
2現在の境内社
現在の豊鹿島神社には本社殿に向かって左側と右側に次の各社がまつられています。
本社殿左側(日吉神社・境内社2)
日吉神社 江戸時代の地誌には日吉神社の名はありません。山王社と推定される社がまつられていました。明治3年(1870)の鎮守報告書には豊鹿島神社(鎮守)の摂社として日吉神社の名が記されます。
この時期、新政府の神仏分離政策が推し進められています。その関係により改称されたことも考えられます。
左脇の石灯籠は元禄15年(1702)建立で、「武州多摩郡上奈良橋郷井窪庄」の銘が残り非常に貴重です。
本社殿右側(石段下・境内社3、石段上・境内社4)
本殿右側には石段の右側と石段を登った上に次の各社がまつられています。
石段右側 愛宕神社 白山神社 滝沢明神社=境内社3
石段上側 稲荷社 産泰社 御嶽神社=境内社4
石段下左側の石灯籠は正保4年(1647)の建立で、「鹿嶋大神宮」の銘とともに、東大和市内最古の日待灯籠です。
石段上右側の九頭龍大神碑は、芋窪地域の人々が雹害防止のため、講を形成して、長野県戸隠神社に祈願した碑です。
本社殿右側峰・紅葉稲荷(境内社5)
紅葉稲荷には、境内東側から、石段を登ってお参りできます。もとは、青梅街道沿いにまつられていました。
3境内社と摂社
摂社と境内社の区分については、豊鹿島神社発行パンフレットが次のように記しています。
境内社
紅葉稲荷神社 豊受毘責命(産業振興、商売繁盛)
白山神社 伊裟那岐命(延命長寿、五穀豊穣)
愛宕神社 火産霊命(火難消除)
稲荷神社 豊受毘責命(産業振興、商売繁盛)
産泰社 木花開耶姫命(安産、家内隆昌)
日吉神社 大己貴命(福徳開運)
御嶽神社
滝澤明神社
摂社
住吉神社 底筒男命・中津和多津見命・上津和多津見命
八雲神社 素蓋雄命
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“豊鹿島神社の境内社1,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1582.