豊鹿島神社の境内社4
タイトル (Title)
豊鹿島神社の境内社4
詳細 (Description)
社殿右石段上
本社殿の右側から奥宮への道順の石段を上がります。境内社が並びます。左から、稲荷神社、産泰社、御嶽神社の三社と九頭龍大神碑です。
歴史的にたどると、『新編武蔵風土記稿』には各社とも記載がなく、『狭山之栞』には芋窪村の神祠として「子神、石神、滝沢、山王、弁天、稲荷、大六天、羽黒、神明、熊野、愛宕」の社が記されています。しかし、産泰社、御嶽神社は記載されていません。稲荷社は画像の稲荷社とともに「紅葉稲荷社」がまつられています。
明治3年(1870)芋窪村から韮山県に対して、鎮守についての書上が提出されています。そこには
摂社として、住吉社、八雲社、熊野社、愛宕社
末社として、白山社、稲荷社、子神社
とあり、産泰社、御嶽神社についての記述はありません。
以上から、各社とも治3年以降に、名前が知られてきます。しかし、村人の間では江戸時代から産泰講、御嶽講が形成され、篤く信仰されています。その神としていずれかにおまつりされていたと考えられます。九頭龍大神碑については別に記します。
稲荷社
説明板には、「稲荷神社(豊受姫命=とようくひめみこと)産業振興、商売繁盛」と記されています。
詳細は不明です。
産泰社(さんたいしゃ)
説明板には、「産泰社(木花咲耶姫=このはなさくやひめ)安産、家内隆昌」と記されています。地元の古老の間では、
「安産・子育てに女衆から信仰されたァだ」
「高木じゃ塩釜様だけんど、芋窪じゃ産泰社さまよ」
と伝わります。
隣接の武蔵村山市に伝わる指田日記に、頻繁に「産泰日待」が行われた記事が残されています。特徴のある記述を抜き出します。
安政2年(1855)3月7日、雨、勘右衛門宅、産泰日待 指田日記下p3
安政4年(1857)1月25日、雪、産泰日待、佐五右衛門宅 指田日記下p26
安政4年(1857)3月14日、百之助借宅にて産泰日待 指田日記下p28
安政5年(1858)4月20日、雨、産泰日待、金蔵宅 指田日記下p38
文久元年(1861)2月11日、産泰宮の日待、六兵衛宅 指田日記下p91
文久3年(1863)2月5日、徳左衛門、産泰日待、御上洛に付、八王子千人同心、御供仰せ付けらる。指田日記下p116
将軍家茂の京都上洛の際の記述。
元治元年(1864)2月6」日、葺師(やねや)安五郎宅、産泰 指田日記下p140
明治4年(1871)1月29日、平五郎宅、産泰大神宮日待 指田日記下p239
などです。
雨や雪の日、借家、職人など個人宅で行われています。豊作、安産を願っての女衆の集まりで、飲んで食べての食事会、時にはホッピキというくじ引きのような賭け事が行われていました。
武蔵村山市史民俗編は次のように説明しています。「産泰大神宮日需(日待)は群馬県前橋市の産泰神社を信心するもので、安産・子育ての神であるから女人講であったと思われる。」(p70)
古老が語るように、芋窪地域でも産泰社を中心に何組かの講、グループが結ばれていました。その方々の護り神であったのでしょう。詳細は不明です。
御嶽神社(みたけじんじゃ)
説明板には御嶽神社とだけあります。祠の中を拝見すると
講中安全
大口真神御符
平成三十年四月七日
東大和市芋窪中組
の御札がまつられています。明確に、武州御嶽神社(青梅市)と関係を持つことがわかります。
江戸時代から、芋窪地域の東組、中組、原組では御嶽講が形成されています。五穀豊穣、養蚕、火盗除などを祈願しました。講の結成時にはほとんどの村人が加入し、代参講であったと伝えられます。代表者が選ばれて青梅の御嶽神社にお参りをして、村人にお札を配る方式です。
この講の形成の時期は不明ですが、参考までに、東大和市域での古い講は「宅部講」です。宝暦元年(1751)の記録があります。
付記
木曽御嶽神社碑との関係
御嶽神社の祠の斜め左奥に御嶽山蔵王大権現碑(碑面では御嶽座王大権現)があります。御嶽の文字があることから、この祠との関係を問われることがあります。
この碑は芋窪の西谷ッにあった熊野神社の境内に造立されていました。今は山林となっていますが、明治14年測量の迅速図には神社の記号が記されています。『狭山之栞』に神祠・熊野と記載されている熊野神社です。その脇にこの碑はありました。いつの頃か豊鹿島神社境内に遷されました。
碑の表面は次のように刻まれています。
八海山提頭頼神王
大元租神
御嶽座王大権現
国常立尊
三笠山刀利天
木曽御嶽(おんたけ)の御嶽神社を信仰する講中が元治二年(1865)に造立しています。講中は芋窪村、蔵敷村、上宅部村、中藤村、二本木村、野中村、菩提木村、山口村と、東大和市周辺の広い地域から構成されています。
本社殿の右側から奥宮への道順の石段を上がります。境内社が並びます。左から、稲荷神社、産泰社、御嶽神社の三社と九頭龍大神碑です。
歴史的にたどると、『新編武蔵風土記稿』には各社とも記載がなく、『狭山之栞』には芋窪村の神祠として「子神、石神、滝沢、山王、弁天、稲荷、大六天、羽黒、神明、熊野、愛宕」の社が記されています。しかし、産泰社、御嶽神社は記載されていません。稲荷社は画像の稲荷社とともに「紅葉稲荷社」がまつられています。
明治3年(1870)芋窪村から韮山県に対して、鎮守についての書上が提出されています。そこには
摂社として、住吉社、八雲社、熊野社、愛宕社
末社として、白山社、稲荷社、子神社
とあり、産泰社、御嶽神社についての記述はありません。
以上から、各社とも治3年以降に、名前が知られてきます。しかし、村人の間では江戸時代から産泰講、御嶽講が形成され、篤く信仰されています。その神としていずれかにおまつりされていたと考えられます。九頭龍大神碑については別に記します。
稲荷社
説明板には、「稲荷神社(豊受姫命=とようくひめみこと)産業振興、商売繁盛」と記されています。
詳細は不明です。
産泰社(さんたいしゃ)
説明板には、「産泰社(木花咲耶姫=このはなさくやひめ)安産、家内隆昌」と記されています。地元の古老の間では、
「安産・子育てに女衆から信仰されたァだ」
「高木じゃ塩釜様だけんど、芋窪じゃ産泰社さまよ」
と伝わります。
隣接の武蔵村山市に伝わる指田日記に、頻繁に「産泰日待」が行われた記事が残されています。特徴のある記述を抜き出します。
安政2年(1855)3月7日、雨、勘右衛門宅、産泰日待 指田日記下p3
安政4年(1857)1月25日、雪、産泰日待、佐五右衛門宅 指田日記下p26
安政4年(1857)3月14日、百之助借宅にて産泰日待 指田日記下p28
安政5年(1858)4月20日、雨、産泰日待、金蔵宅 指田日記下p38
文久元年(1861)2月11日、産泰宮の日待、六兵衛宅 指田日記下p91
文久3年(1863)2月5日、徳左衛門、産泰日待、御上洛に付、八王子千人同心、御供仰せ付けらる。指田日記下p116
将軍家茂の京都上洛の際の記述。
元治元年(1864)2月6」日、葺師(やねや)安五郎宅、産泰 指田日記下p140
明治4年(1871)1月29日、平五郎宅、産泰大神宮日待 指田日記下p239
などです。
雨や雪の日、借家、職人など個人宅で行われています。豊作、安産を願っての女衆の集まりで、飲んで食べての食事会、時にはホッピキというくじ引きのような賭け事が行われていました。
武蔵村山市史民俗編は次のように説明しています。「産泰大神宮日需(日待)は群馬県前橋市の産泰神社を信心するもので、安産・子育ての神であるから女人講であったと思われる。」(p70)
古老が語るように、芋窪地域でも産泰社を中心に何組かの講、グループが結ばれていました。その方々の護り神であったのでしょう。詳細は不明です。
御嶽神社(みたけじんじゃ)
説明板には御嶽神社とだけあります。祠の中を拝見すると
講中安全
大口真神御符
平成三十年四月七日
東大和市芋窪中組
の御札がまつられています。明確に、武州御嶽神社(青梅市)と関係を持つことがわかります。
江戸時代から、芋窪地域の東組、中組、原組では御嶽講が形成されています。五穀豊穣、養蚕、火盗除などを祈願しました。講の結成時にはほとんどの村人が加入し、代参講であったと伝えられます。代表者が選ばれて青梅の御嶽神社にお参りをして、村人にお札を配る方式です。
この講の形成の時期は不明ですが、参考までに、東大和市域での古い講は「宅部講」です。宝暦元年(1751)の記録があります。
付記
木曽御嶽神社碑との関係
御嶽神社の祠の斜め左奥に御嶽山蔵王大権現碑(碑面では御嶽座王大権現)があります。御嶽の文字があることから、この祠との関係を問われることがあります。
この碑は芋窪の西谷ッにあった熊野神社の境内に造立されていました。今は山林となっていますが、明治14年測量の迅速図には神社の記号が記されています。『狭山之栞』に神祠・熊野と記載されている熊野神社です。その脇にこの碑はありました。いつの頃か豊鹿島神社境内に遷されました。
碑の表面は次のように刻まれています。
八海山提頭頼神王
大元租神
御嶽座王大権現
国常立尊
三笠山刀利天
木曽御嶽(おんたけ)の御嶽神社を信仰する講中が元治二年(1865)に造立しています。講中は芋窪村、蔵敷村、上宅部村、中藤村、二本木村、野中村、菩提木村、山口村と、東大和市周辺の広い地域から構成されています。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“豊鹿島神社の境内社4,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1585.