豊鹿島神社境内二つの碑
タイトル (Title)
豊鹿島神社境内二つの碑
詳細 (Description)
豊鹿島神社境内には、多くの神々の祠と共に次の二つの碑があります。
1九頭龍大神碑
九頭龍大神碑(くずりゆうおおかみ)
昭和7年(1932)4月建立 高さ155センチメートル
芋窪の方々による戸隠講中による碑です。
かって、東大和市周辺は雹(ひょう)が多かったと伝えられます。そのため、作物が被害を受け、雹害を防ぐ祈りが捧げられました。
雹は長野県の榛名山や戸隠山の方向から来るとされて、榛名、戸隠信仰が高まり、講が形成されました。修験道との関わりが深く、東大和市域の人々にとって関心を呼んだことも考えられます。
戸隠神社は戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなります。そこから、芋窪の九頭龍大神碑は表面中央上に
中社 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
奥社 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
寶光社 天表春命(あめのうわはるのみこと)
中央下に 九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)
を刻みます。裏面にはびっしり講中143名の方々の名前が刻まれています。
講には、代表者が参拝する代参講、神職さんが講中のもとに来られて祈祷される日待講の方法がありますが、最近の芋窪の場合は日待講です。かっては代参講で『東大和のよもやまばなし』中の「雹の話」(p55)として、その様子が採録されています。
2御嶽山座(蔵)王大権現碑
御嶽山座(蔵)王大権現碑(おんたけさん ざおうだいごんげんひ)
高さ130センチメートル
いつの頃か、西谷ッの旧熊野神社から遷されてきました。今は山林となっていますが、明治14年測量の迅速図には神社の記号が記されています。地元の方々は熊野神社とします。『狭山之栞』には神祠として熊野と記載されています。その脇にこの碑は立てられていました。
碑の表面には次のように刻まれています。 木曽の御嶽山を信仰する講中が元治2年(1865)に造立しています。近隣の村々で構成された広範囲な講が形成されていました。
表面には大きく分けて次のように刻まれています。
八海山提頭頼神王
大元租神
御嶽座王大権現
国常立尊
三笠山刀利天
御嶽座(蔵)王大権現、八海山提頭頼神王、三笠山刀利天の三神は御嶽山信仰を代表する神とされます。
裏面には講中の名が刻まれています。その範囲は
・中藤村(原山組、神明ヶ谷戸組、入組、谷組、下組)
・蔵敷講中・蔵敷駅内野杢左衛門
・芋窪村(石川組、東組中、中組中、西組中)
・上宅部村
・二本木村
・野中村
・菩提木村
・山口村
です。世話人は中藤、菩提木、山口、芋窪各村の村役人でした。特に芋窪村の講中は、村山貯水池に沈んだ石川、丘陵南麓の東、中、西組と全域にわたっています。詳細が明らかでないのが残念ですが、幕末、狭山丘陵周辺にこれだけ広範囲で御嶽山蔵王大権現に対する信仰があったことに驚かされます。
1九頭龍大神碑
九頭龍大神碑(くずりゆうおおかみ)
昭和7年(1932)4月建立 高さ155センチメートル
芋窪の方々による戸隠講中による碑です。
かって、東大和市周辺は雹(ひょう)が多かったと伝えられます。そのため、作物が被害を受け、雹害を防ぐ祈りが捧げられました。
雹は長野県の榛名山や戸隠山の方向から来るとされて、榛名、戸隠信仰が高まり、講が形成されました。修験道との関わりが深く、東大和市域の人々にとって関心を呼んだことも考えられます。
戸隠神社は戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなります。そこから、芋窪の九頭龍大神碑は表面中央上に
中社 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
奥社 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
寶光社 天表春命(あめのうわはるのみこと)
中央下に 九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)
を刻みます。裏面にはびっしり講中143名の方々の名前が刻まれています。
講には、代表者が参拝する代参講、神職さんが講中のもとに来られて祈祷される日待講の方法がありますが、最近の芋窪の場合は日待講です。かっては代参講で『東大和のよもやまばなし』中の「雹の話」(p55)として、その様子が採録されています。
2御嶽山座(蔵)王大権現碑
御嶽山座(蔵)王大権現碑(おんたけさん ざおうだいごんげんひ)
高さ130センチメートル
いつの頃か、西谷ッの旧熊野神社から遷されてきました。今は山林となっていますが、明治14年測量の迅速図には神社の記号が記されています。地元の方々は熊野神社とします。『狭山之栞』には神祠として熊野と記載されています。その脇にこの碑は立てられていました。
碑の表面には次のように刻まれています。 木曽の御嶽山を信仰する講中が元治2年(1865)に造立しています。近隣の村々で構成された広範囲な講が形成されていました。
表面には大きく分けて次のように刻まれています。
八海山提頭頼神王
大元租神
御嶽座王大権現
国常立尊
三笠山刀利天
御嶽座(蔵)王大権現、八海山提頭頼神王、三笠山刀利天の三神は御嶽山信仰を代表する神とされます。
裏面には講中の名が刻まれています。その範囲は
・中藤村(原山組、神明ヶ谷戸組、入組、谷組、下組)
・蔵敷講中・蔵敷駅内野杢左衛門
・芋窪村(石川組、東組中、中組中、西組中)
・上宅部村
・二本木村
・野中村
・菩提木村
・山口村
です。世話人は中藤、菩提木、山口、芋窪各村の村役人でした。特に芋窪村の講中は、村山貯水池に沈んだ石川、丘陵南麓の東、中、西組と全域にわたっています。詳細が明らかでないのが残念ですが、幕末、狭山丘陵周辺にこれだけ広範囲で御嶽山蔵王大権現に対する信仰があったことに驚かされます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“豊鹿島神社境内二つの碑,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1589.