八幡神社3
タイトル (Title)
八幡神社3
詳細 (Description)
本殿前庭から本殿
石段をあがり、第二鳥居をくぐると広い本殿前の庭に出ます。
本殿前の庭 左から「八幡神社改修資金奉納者」「八幡神社社殿改修記念碑」「北多摩神道青年会による由緒」
「本殿」「石祠(庖瘡神)」「ご神木の根」「物置」本殿裏に「浅間神社(富士塚)」があります。
正面向かって左側に「八幡神社改修資金奉納者」があります。
八幡神社の最近の改修について、経過が彫られています。
「改修事業の事由
古来から奈良橋地域の住民の守護神としてご加護を受け信仰して参りました八幡神社も新築してから半世紀の歳月が過ぎ屋根等が老朽腐食し、昭和六十一年三月の大雪のため更に甚大なる破損を被りました。
そこで、同年七月十五日臨時氏子総会を開催し改修事業を進めるべき議題を提出したところ全員一致の承諾を頂きました。事業資金について一部資産金を使用して、不足分については氏子および崇敬者からの奉納金をもって改修することに決定いたしました。
昭和六十二年三月吉日 改修委員会(一部省略)
本殿に進むと正面左側に「八幡神社社殿改修記念碑」があります。昭和7年(1932)に改築した経過が彫られています。
「八幡神社社殿改築記念碑
鎮守八幡神社社殿は元禄二年の建立にかかり、以来二百三十有余年の星霜を閲し、規模狭小にして腐朽甚だしく祭典行事等に支障あり、茲に於て氏子一同相謀り、
大正拾四年十二月社殿を改築することに決し、境内地の立木を用材となし、関係各位の浄財の寄進と労力奉仕とにより、爾来これが完成に鋭意努力の結果昭和七年九月現在の荘厳なる社殿の落成を見るに至れり
抑も当社の祭神は応神天皇にして御神威殊に顕著なるを以て今後益々御加護を垂れ給ふことを信ずる次第なり
茲に神殿改築二十五周年に当り記念碑を建て来歴を記録し永く後世に伝ふるものなり
昭和三十一年九月十五日 建之」
本殿向かって左側に「北多摩神道青年会」による八幡神社由緒が掲示されています。
「八幡神社
主祭神名 誉田別之命
当社は創立年暦不詳、太古より鎮守と公称しきて、何神と言うことはわからない。
宮がこわれようとする頃、いつの戦か、武士がにげて来て、此の森に露営しようと、四方を見ると、くらい中より宮のあるのがわかり、宮の中にねむると、その人に告げるに神の夢に「吾は八幡の神なり」当社によく宿ってくれた、宮が破損しようとしているので村人に建替ることを知らせて欲しいと言った。
夢さめて翌朝地領に行き、其の理由を告げる。天正三年(一五七五)十一月、領主石川太郎右衛門氏の寄付により、社殿が再興され、其の後百十四年を経て、元禄二年(一六八九)九月旧領主石川太郎右衛門並岸隼人の尽力に依り拝殿が建てられ、其の後昭和七年に本殿幣殿拝殿が改築された。北多摩神道青年会」
江戸時代の地誌等の記述については八幡神社の歴史にまとめます。
本殿右側に「ご神木の根」が保存されています。
明治初年発行された地元の地誌『狭山之栞』には「八幡の社木松廻り八尺。注連張杉二本廻り各一丈」と記されています。説明板があり、次のように書かれています。
「この根株は八幡神社の階段下の参道入り口にあった二本の大杉の向かって右側の根株であります。樹齢は約二百七十年位と推定され、当時の住民の祈願成就のため植樹されたものと思考されます。
約三世紀にわたり風雪に耐え今日に至った大杉も、樹勢が衰え枯死寸前となり、放置することによって枯枝の落下で通行人等に危険が生じるため、協議を進めてきた折、市当局から道路拡幅整備計画が発表され、氏子総会の決議により切り倒したものであります。
樹齢から市内最古の大杉と考えられ根株を保存することに致しました。なお、左側の大杉については現在市の主要施設に輪切りにして飾られてあります。
昭和六十一年十月吉日 奈良橋 八幡神社」(一部省略させて頂きました)
本殿と根株の間に石祠があります。疱瘡神の石祠です。
石祠の左右に次のように彫られています。
(右側面)別当覚宝院
(左側面) 享和二年戌年十二月 享和2年(1802)
庖瘡神をまつった石の祠です。いまでは過去の話になりましたが、疱瘡(天然痘 てんねんとう)は、命に関わる病でした。江戸時代には多くの子どもが亡くなっています。死亡率が高く、流行病として恐れられました。
そのため、修験によるお祓いや祈祷が頼りにされました。この石祠は修験・覚宝院が八幡神社を管理するとともに村人達の願いに応えて疱瘡神をまつり無事を祈願した貴重な遺産です。
本殿の横を通って北側にまわります。
本殿の北側には富士塚が築かれ、浅間神社がまつられています。
鳥居の前に5段ほどの石段があり、その右前方に「祭神 木花開耶姫」の碑があります。
向かって右側の石祠にかすかに文字が刻まれています。
(左側面)当村中物 別当覚宝院
(右側面) 享和二戌年十二月(享和2年・1802)
富士講については別に書きます。
浅間神社の北側は雑木林になっています。
浅間神社の北側は奥庭で、雑木林となって東大和市立狭山緑地に続きます。
まさに丘陵の懐に抱かれて、四季折々の趣を醸し出します。
石段をあがり、第二鳥居をくぐると広い本殿前の庭に出ます。
本殿前の庭 左から「八幡神社改修資金奉納者」「八幡神社社殿改修記念碑」「北多摩神道青年会による由緒」
「本殿」「石祠(庖瘡神)」「ご神木の根」「物置」本殿裏に「浅間神社(富士塚)」があります。
正面向かって左側に「八幡神社改修資金奉納者」があります。
八幡神社の最近の改修について、経過が彫られています。
「改修事業の事由
古来から奈良橋地域の住民の守護神としてご加護を受け信仰して参りました八幡神社も新築してから半世紀の歳月が過ぎ屋根等が老朽腐食し、昭和六十一年三月の大雪のため更に甚大なる破損を被りました。
そこで、同年七月十五日臨時氏子総会を開催し改修事業を進めるべき議題を提出したところ全員一致の承諾を頂きました。事業資金について一部資産金を使用して、不足分については氏子および崇敬者からの奉納金をもって改修することに決定いたしました。
昭和六十二年三月吉日 改修委員会(一部省略)
本殿に進むと正面左側に「八幡神社社殿改修記念碑」があります。昭和7年(1932)に改築した経過が彫られています。
「八幡神社社殿改築記念碑
鎮守八幡神社社殿は元禄二年の建立にかかり、以来二百三十有余年の星霜を閲し、規模狭小にして腐朽甚だしく祭典行事等に支障あり、茲に於て氏子一同相謀り、
大正拾四年十二月社殿を改築することに決し、境内地の立木を用材となし、関係各位の浄財の寄進と労力奉仕とにより、爾来これが完成に鋭意努力の結果昭和七年九月現在の荘厳なる社殿の落成を見るに至れり
抑も当社の祭神は応神天皇にして御神威殊に顕著なるを以て今後益々御加護を垂れ給ふことを信ずる次第なり
茲に神殿改築二十五周年に当り記念碑を建て来歴を記録し永く後世に伝ふるものなり
昭和三十一年九月十五日 建之」
本殿向かって左側に「北多摩神道青年会」による八幡神社由緒が掲示されています。
「八幡神社
主祭神名 誉田別之命
当社は創立年暦不詳、太古より鎮守と公称しきて、何神と言うことはわからない。
宮がこわれようとする頃、いつの戦か、武士がにげて来て、此の森に露営しようと、四方を見ると、くらい中より宮のあるのがわかり、宮の中にねむると、その人に告げるに神の夢に「吾は八幡の神なり」当社によく宿ってくれた、宮が破損しようとしているので村人に建替ることを知らせて欲しいと言った。
夢さめて翌朝地領に行き、其の理由を告げる。天正三年(一五七五)十一月、領主石川太郎右衛門氏の寄付により、社殿が再興され、其の後百十四年を経て、元禄二年(一六八九)九月旧領主石川太郎右衛門並岸隼人の尽力に依り拝殿が建てられ、其の後昭和七年に本殿幣殿拝殿が改築された。北多摩神道青年会」
江戸時代の地誌等の記述については八幡神社の歴史にまとめます。
本殿右側に「ご神木の根」が保存されています。
明治初年発行された地元の地誌『狭山之栞』には「八幡の社木松廻り八尺。注連張杉二本廻り各一丈」と記されています。説明板があり、次のように書かれています。
「この根株は八幡神社の階段下の参道入り口にあった二本の大杉の向かって右側の根株であります。樹齢は約二百七十年位と推定され、当時の住民の祈願成就のため植樹されたものと思考されます。
約三世紀にわたり風雪に耐え今日に至った大杉も、樹勢が衰え枯死寸前となり、放置することによって枯枝の落下で通行人等に危険が生じるため、協議を進めてきた折、市当局から道路拡幅整備計画が発表され、氏子総会の決議により切り倒したものであります。
樹齢から市内最古の大杉と考えられ根株を保存することに致しました。なお、左側の大杉については現在市の主要施設に輪切りにして飾られてあります。
昭和六十一年十月吉日 奈良橋 八幡神社」(一部省略させて頂きました)
本殿と根株の間に石祠があります。疱瘡神の石祠です。
石祠の左右に次のように彫られています。
(右側面)別当覚宝院
(左側面) 享和二年戌年十二月 享和2年(1802)
庖瘡神をまつった石の祠です。いまでは過去の話になりましたが、疱瘡(天然痘 てんねんとう)は、命に関わる病でした。江戸時代には多くの子どもが亡くなっています。死亡率が高く、流行病として恐れられました。
そのため、修験によるお祓いや祈祷が頼りにされました。この石祠は修験・覚宝院が八幡神社を管理するとともに村人達の願いに応えて疱瘡神をまつり無事を祈願した貴重な遺産です。
本殿の横を通って北側にまわります。
本殿の北側には富士塚が築かれ、浅間神社がまつられています。
鳥居の前に5段ほどの石段があり、その右前方に「祭神 木花開耶姫」の碑があります。
向かって右側の石祠にかすかに文字が刻まれています。
(左側面)当村中物 別当覚宝院
(右側面) 享和二戌年十二月(享和2年・1802)
富士講については別に書きます。
浅間神社の北側は雑木林になっています。
浅間神社の北側は奥庭で、雑木林となって東大和市立狭山緑地に続きます。
まさに丘陵の懐に抱かれて、四季折々の趣を醸し出します。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“八幡神社3,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1601.