二つの神社に属する摂社
タイトル (Title)
二つの神社に属する摂社
詳細 (Description)
奈良橋の「諏訪」「八坂」「厳島」神社について
・東大和市内の奈良橋地域に二つの神社に属する共通の摂社がありました。
・摂社は三社で、それぞれに例祭日が決まっていました。
・三社は二つの神社の神主さんが共におつとめをしていました。
・現在は八幡神社に合祀されていますが、「諏訪」「八坂」「厳島」の三社です。
どのような経過で、このような神祭りが行われたのでしょうか?
1 二つの神社グループ
二つの神社とその摂社については、明治3年(1870)に奈良橋村から県に提出した記録に次のように残されています。(里正日誌11巻p235)
八幡大神(惣村社 村持ち 神官・押本肇)例祭 八月十六日
摂社 日枝大神 山神
末社 浅間大神 御嶽大神 神明宮 道祖神
日月神社(村社 神主持ち 神官・押本愛麿)例祭 二月一日
摂社 愛宕社 熊野社
末社 御嶽大神 御霊明神 稲荷社二社
摂社(八幡、日月神社の両神主が管理)
諏訪大神 例祭 七月二十七日
厳島神社 例祭 四月七日
八坂大神 例祭 六月十九日
このように、奈良橋村に存在した神社は、大別して惣村社の八幡大神(神社)と村社の日月神社に分かれていたようです。
そして、両神社共通の摂社として「諏訪大神」「厳島神社」「八坂大神」がありました。
2 「諏訪」「八坂」「厳島」神社の社(やしろ)は?
この三社の社の大きさ、構造などについて調べてみました。
江戸時代の地誌
①『新編武蔵風土記稿』はこの三社については記述がありません。
②『狭山之栞』には神祠として「山神」「愛宕」「日枝」「八坂」「諏訪」をあげ、「厳島」の記載がありません。
この他、奈良橋の雲性寺の山号となった天王社(宮)について、維新の際、門前の弁財天と共に諏訪山に移したと記しています。
◎いずれの社も『狭山之栞』の記載からすると、小さな石の祠であったことが推定できます。
同じような景観が隣接する蔵敷地域の狭山丘陵の山中(市立狭山緑地内)にあります。
「山の神」(左)、「愛宕社」(右)です。
3 境内の大きさは?
どのくらいの境内をどのような形で形成していたのでしょうか?
明治6年(1873)、当時の村が県に次のように「社寺旧境内調」を提出しています。
9畝6歩=約900㎡
2反24歩=約2000㎡
樅(もみ)の木
桧(ひのき)
これらから、境内は比較的小さく、松林が中心の丘陵地であったことがわかります。八幡神社社務所結婚式場建設記念碑では、「旧地は2町2反5畝」と刻んでいますが、何か違う条件があるのだ考えます。
4 三社はどこにまつられていたのでしょうか?
三社のまつられていた位置を明らかにする資料が見当たりません。
①昭和33年(1958)大和町図に、地形が記されていていて、諏訪前、日月前の地名が記されています。
②また、国土地理院、明治14年(1881)迅速図には地元で諏訪前と云われる地域に3つの鳥居が記されています。
両図を併せると概ねその位置が推測できそうです。現在、諏訪前橋と呼ばれる橋から若干北寄りになります。
奈良橋地域には、聚落の形成過程から八幡大神(神社)と日月神社の2グループがが生まれたようです。八幡谷ッを挟んでそれぞれの丘陵にまつられています。
そこに、なぜ、「諏訪大神」「厳島神社」「八坂大神」が共通してまつられることになったのか、三社の正確な位置、どのような祭りがされていたのかなど?
・東大和市内の奈良橋地域に二つの神社に属する共通の摂社がありました。
・摂社は三社で、それぞれに例祭日が決まっていました。
・三社は二つの神社の神主さんが共におつとめをしていました。
・現在は八幡神社に合祀されていますが、「諏訪」「八坂」「厳島」の三社です。
どのような経過で、このような神祭りが行われたのでしょうか?
1 二つの神社グループ
二つの神社とその摂社については、明治3年(1870)に奈良橋村から県に提出した記録に次のように残されています。(里正日誌11巻p235)
八幡大神(惣村社 村持ち 神官・押本肇)例祭 八月十六日
摂社 日枝大神 山神
末社 浅間大神 御嶽大神 神明宮 道祖神
日月神社(村社 神主持ち 神官・押本愛麿)例祭 二月一日
摂社 愛宕社 熊野社
末社 御嶽大神 御霊明神 稲荷社二社
摂社(八幡、日月神社の両神主が管理)
諏訪大神 例祭 七月二十七日
厳島神社 例祭 四月七日
八坂大神 例祭 六月十九日
このように、奈良橋村に存在した神社は、大別して惣村社の八幡大神(神社)と村社の日月神社に分かれていたようです。
そして、両神社共通の摂社として「諏訪大神」「厳島神社」「八坂大神」がありました。
2 「諏訪」「八坂」「厳島」神社の社(やしろ)は?
この三社の社の大きさ、構造などについて調べてみました。
江戸時代の地誌
①『新編武蔵風土記稿』はこの三社については記述がありません。
②『狭山之栞』には神祠として「山神」「愛宕」「日枝」「八坂」「諏訪」をあげ、「厳島」の記載がありません。
この他、奈良橋の雲性寺の山号となった天王社(宮)について、維新の際、門前の弁財天と共に諏訪山に移したと記しています。
◎いずれの社も『狭山之栞』の記載からすると、小さな石の祠であったことが推定できます。
同じような景観が隣接する蔵敷地域の狭山丘陵の山中(市立狭山緑地内)にあります。
「山の神」(左)、「愛宕社」(右)です。
3 境内の大きさは?
どのくらいの境内をどのような形で形成していたのでしょうか?
明治6年(1873)、当時の村が県に次のように「社寺旧境内調」を提出しています。
9畝6歩=約900㎡
2反24歩=約2000㎡
樅(もみ)の木
桧(ひのき)
これらから、境内は比較的小さく、松林が中心の丘陵地であったことがわかります。八幡神社社務所結婚式場建設記念碑では、「旧地は2町2反5畝」と刻んでいますが、何か違う条件があるのだ考えます。
4 三社はどこにまつられていたのでしょうか?
三社のまつられていた位置を明らかにする資料が見当たりません。
①昭和33年(1958)大和町図に、地形が記されていていて、諏訪前、日月前の地名が記されています。
②また、国土地理院、明治14年(1881)迅速図には地元で諏訪前と云われる地域に3つの鳥居が記されています。
両図を併せると概ねその位置が推測できそうです。現在、諏訪前橋と呼ばれる橋から若干北寄りになります。
奈良橋地域には、聚落の形成過程から八幡大神(神社)と日月神社の2グループがが生まれたようです。八幡谷ッを挟んでそれぞれの丘陵にまつられています。
そこに、なぜ、「諏訪大神」「厳島神社」「八坂大神」が共通してまつられることになったのか、三社の正確な位置、どのような祭りがされていたのかなど?
Item Relations
This item has no relations.
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Citation
“二つの神社に属する摂社
,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1605.
,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1605.