庚申塔(芋窪6丁目)
タイトル (Title)
庚申塔(芋窪6丁目)
詳細 (Description)
所在地 芋窪六丁目1318番地 慶性院の近く
東大和市郷土資料 指定 昭和49年9月20日
指定理由 貯水池工事により移転した市内最古の庚申塔 延宝8年(1680)
大事に覆い屋の中にまつられています。延宝8年(1680)、江戸時代初期、東大和市域最古の庚申塔です。六本の手を持った青面金剛に前向の三猿が浮彫になっています。正面右側に「施主 石川村」と彫られていて、かっては、村山貯水池に沈んだ石川の里が「石川村」を名乗っていたことがわかります。
正面から拝すると
右側 延宝八庚申年 施主 石川村
尊像上部 奉供養庚申像
左側 正月吉祥日 高杉叔左衛門
と刻まれています。
説明板には次のように記されています。
この庚申塔は、もとは芋窪方面より山口観音を経て所沢方面に至る観音道の路傍にあったが、石川村が大正初年頃に村山貯水池の用地の一部としてその土地が買収されたので、永年そこに住んでいた高杉家の本家の当主が一三二六番地の路傍に移転した。さらに平成十七年十月市道の拡幅工事に伴って、現在の地に移転したものである。
延宝八年(西紀一六八○)の造立で、東大和市では最古のものである。大きさは高さ七十五㌢、巾二十三、五㌢あり、上部左右に日月を配し、尊像は陽刻の合掌型六臂青面金剛(ろっぴせいめんこんごう)像で、その下に前向三猿(さんえん)を刻み、その左右に二鶏が陰刻してある。
平成一七年一○月 東大和市教育委員会
合掌型六臂青面金剛と前向三猿
施主 石川村
青面金剛像の右下に「施主 石川村」の彫りがあります。
これまでの東大和市の歴史の中では、この地域は芋窪村の一部として区分されて来ました。「石川」の地名はありますが、「石川村」という村はありません。内堀の里の「内堀村」と同様、集落の形成と村人達の思いが刻まれていると考えられます。
残念ですが、現在では、読み取ることが難しいです。画像は2003年10月に撮影したものです。
庚申塔の旧地
延宝8年の庚申塔は村山貯水池の湖底に沈んだ石川にまつられました。
「芋窪方面より山口観音を経て所沢方面に至る観音道の路傍」とされます。
湖底の集落図から下図の位置を推定しました。高杉家の旧地でもあります。丘陵南麓の芋窪村の人々も山口観音を経て所沢方面に行く際に、往復したと伝えられます。
江戸時代初期、所沢は村人にとって最も近い市場の開かれる場所でした。日常品から農産物まで幅広く往来がありました。
その道筋に庚申塔がまつられ、行き来の村人が様々な願いを祈ったことが偲ばれます。
また、東大和市域では塞ノ神は一二例を除いてはみられず、ほぼその位置に、庚申塔がまつられています。延宝8年庚申塔は村への好ましくないものの侵入を防ぐことも託していたように思われます。
東大和市郷土資料 指定 昭和49年9月20日
指定理由 貯水池工事により移転した市内最古の庚申塔 延宝8年(1680)
大事に覆い屋の中にまつられています。延宝8年(1680)、江戸時代初期、東大和市域最古の庚申塔です。六本の手を持った青面金剛に前向の三猿が浮彫になっています。正面右側に「施主 石川村」と彫られていて、かっては、村山貯水池に沈んだ石川の里が「石川村」を名乗っていたことがわかります。
正面から拝すると
右側 延宝八庚申年 施主 石川村
尊像上部 奉供養庚申像
左側 正月吉祥日 高杉叔左衛門
と刻まれています。
説明板には次のように記されています。
この庚申塔は、もとは芋窪方面より山口観音を経て所沢方面に至る観音道の路傍にあったが、石川村が大正初年頃に村山貯水池の用地の一部としてその土地が買収されたので、永年そこに住んでいた高杉家の本家の当主が一三二六番地の路傍に移転した。さらに平成十七年十月市道の拡幅工事に伴って、現在の地に移転したものである。
延宝八年(西紀一六八○)の造立で、東大和市では最古のものである。大きさは高さ七十五㌢、巾二十三、五㌢あり、上部左右に日月を配し、尊像は陽刻の合掌型六臂青面金剛(ろっぴせいめんこんごう)像で、その下に前向三猿(さんえん)を刻み、その左右に二鶏が陰刻してある。
平成一七年一○月 東大和市教育委員会
合掌型六臂青面金剛と前向三猿
施主 石川村
青面金剛像の右下に「施主 石川村」の彫りがあります。
これまでの東大和市の歴史の中では、この地域は芋窪村の一部として区分されて来ました。「石川」の地名はありますが、「石川村」という村はありません。内堀の里の「内堀村」と同様、集落の形成と村人達の思いが刻まれていると考えられます。
残念ですが、現在では、読み取ることが難しいです。画像は2003年10月に撮影したものです。
庚申塔の旧地
延宝8年の庚申塔は村山貯水池の湖底に沈んだ石川にまつられました。
「芋窪方面より山口観音を経て所沢方面に至る観音道の路傍」とされます。
湖底の集落図から下図の位置を推定しました。高杉家の旧地でもあります。丘陵南麓の芋窪村の人々も山口観音を経て所沢方面に行く際に、往復したと伝えられます。
江戸時代初期、所沢は村人にとって最も近い市場の開かれる場所でした。日常品から農産物まで幅広く往来がありました。
その道筋に庚申塔がまつられ、行き来の村人が様々な願いを祈ったことが偲ばれます。
また、東大和市域では塞ノ神は一二例を除いてはみられず、ほぼその位置に、庚申塔がまつられています。延宝8年庚申塔は村への好ましくないものの侵入を防ぐことも託していたように思われます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“庚申塔(芋窪6丁目),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1644.