おおまかな歴史の流れ 先史
タイトル (Title)
おおまかな歴史の流れ 先史
詳細 (Description)
1旧石器時代
東大和市の地域に人が住み始めたのはいつ頃でしょうか? 現在のところ、約2万年前とされます。というのはその時代の石器が発見されているからです。狩猟と採集の生活の中、獲物を捕らえる貴重な道具であった槍の先につけて使われました。
土器は使われていません。日本の後期旧石器時代に区分されて、約1万年前まで続きます。石器の種類は時代を経るとともにいろいろに変化します。
人々は狭山丘陵と麓(ふもと)、その前面に広がる原野で獣(けもの)や鳥を狩り、植物や木の実を集めて、川の水辺でキャンプをしたようです。その跡が下の図のように、村山貯水池(多摩湖)の中、狭山丘陵、空堀川(からぼりがわ)の周辺などから発見されています。
現在とは植物も川の流れも違い、空堀川周辺には樹木が茂り、原には背の低い木がまばらに続いていたと考えられています。
どんな気候だったのでしょうか? 新世代第四紀として氷河時代がそろそろ終りに入る頃とされます。参考になるのが、この時代に続く遺跡とされる、あきる野市の「前田耕地遺跡」(まえだこうちいせき・縄文時代草創期)です。この遺跡からはたくさんの鮭(さけ)の骨が発見されています。
気候は少しずつ温暖になりはじめていたとはいえ、多摩川にサケが遡上(そじょう)するような寒さが残る時代でした。東大和市でも、現在よりも7~8度寒かったようです。
土器を持たないことからか、東大和市域では、空堀川周辺の水辺に旧石器人のキャンプ跡が残されています。多分、村山貯水池に沈んだ石川(宅部川・やけべがわ)のほとりでも同じように生活がされたと思われます。
そこでは、石を焼いて調理をしたのでしょうか、暖をとったのでしょうか、小さな焼け石が集中する遺跡が発見されています。「お湯を沸かしたのでは」との感想も聞きました。
東大和市郷土博物館2階「ひがしやまと人のはじまり」のところに当時の人が使った石器などが展示されています。
考えさせられるのは、空堀川周辺の街道内遺跡(かいどうないいせき)で発見された左図の石核(せっかく)です。石器を作るときに石器を剥ぎ取って残った部分です。この原石が東大和周辺では見られないそうです。
ということは、他所から運ばれてきたことを意味します。2万年か1万5千年前に、東大和市域に生活した旧石器人は遠いほかの場所との交流、他の所から移動してきたことが考えられます。
清水地区には槍先形尖頭器と丸ノミ型石斧を出土した上ノ台遺跡、空堀川の旧河川敷や旧石器~縄文時代に至る清水上砂台遺跡があります。
はるか遠い時代の遠距離の交流、この道筋が追えたらと夢がふくらみます。
2縄文時代(じょうもんじだい)
今から約1万2千年ほど前です。気候がおだやかになり、多様な動植物が生育してきました。食物や生活環境もやや整ってきたのでしょう、石器に加わって土器が使い始められました。そして、何よりも大きな変化は狩りの道具に弓矢を使うようになったことです。土器にしるされた模様から縄文時代と呼びます。東大和市域内では多摩湖、鹿島台、八幡谷ッなどにその痕跡が残されています。
やがて、人口が増えはじめ、東大和市域内では約5千年前の縄文時代中期には頂点に達しました。狭山丘陵一帯に、この時代の人々の生活した跡が、住居跡(じゅうきょあと)、石器、土器、木の実・・・などとともに数多く発見されています。住居の重なりや集中から縄文銀座と呼ぶほどです。
東大和市史資料編3には市の遺跡一覧として76遺跡が記載されています。この内65遺跡が縄文時代の遺跡に関わりがあります。65遺跡中、早期16、前期19、中期58、後期8、晩期0で、中期遺跡が圧倒的に多いことがわかります。
縄文土器による時代区分は東村山市史資料編考古(p144)では、草創期(約1万3000~1万年前)、早期(約1万~6000年前)、前期(約6000~5000年前)、中期(約5000~4000年前)、後期(約4000~3000年前)、晩期(約3000~2400年前)の6期に区分しています。
しかし、やがて変化が生じました。縄文時代も後半(約3500年前)になると遺跡の数がパッタリ少なくなります。東大和市域では、村山貯水池に沈んだ地域で、後期の小さな土器片が二つ発見されています。遺跡は確認できませんでした。
人々が一斉にどこかへ移動したかのように狭山丘陵全体に人影が薄くなりました。近隣ではただひとつ、東村山市に「下宅部遺跡」(しもやけべいせき)という大規模な遺跡が残されています。漆塗(うるしぬり)りの弓や櫛(くし)、ヘアピン、匙(さじ)、きれいな編みカゴ、大きな丸木舟などが発見されて、この時代の特徴を知ることができます。
3弥生時代(やよいじだい)
約2300年前(3000年まで遡るとする研究があります)になると、時代が変化します。米や青銅器(せいどうき)など新しい文化、技術を持った集団の出現です。弥生文化、弥生時代と呼ばれます。
残念ですが、東大和市域では確認されていません。東大和市域から一峰越えた所沢市の「東の上遺跡」(あずまのうえいせき)では52軒の集落が発掘されています。柳瀬川(やなせがわ)を通じて伝わってきたと考えられています。
とすれば、同じ柳瀬川の上流である現在の村山上貯水池に沈んだ石川周辺にも何らかの伝播があったかも知れません。期待が大きいのですが、何としても水の中、確認できなくて残念です。
東大和市の地域に人が住み始めたのはいつ頃でしょうか? 現在のところ、約2万年前とされます。というのはその時代の石器が発見されているからです。狩猟と採集の生活の中、獲物を捕らえる貴重な道具であった槍の先につけて使われました。
土器は使われていません。日本の後期旧石器時代に区分されて、約1万年前まで続きます。石器の種類は時代を経るとともにいろいろに変化します。
人々は狭山丘陵と麓(ふもと)、その前面に広がる原野で獣(けもの)や鳥を狩り、植物や木の実を集めて、川の水辺でキャンプをしたようです。その跡が下の図のように、村山貯水池(多摩湖)の中、狭山丘陵、空堀川(からぼりがわ)の周辺などから発見されています。
現在とは植物も川の流れも違い、空堀川周辺には樹木が茂り、原には背の低い木がまばらに続いていたと考えられています。
どんな気候だったのでしょうか? 新世代第四紀として氷河時代がそろそろ終りに入る頃とされます。参考になるのが、この時代に続く遺跡とされる、あきる野市の「前田耕地遺跡」(まえだこうちいせき・縄文時代草創期)です。この遺跡からはたくさんの鮭(さけ)の骨が発見されています。
気候は少しずつ温暖になりはじめていたとはいえ、多摩川にサケが遡上(そじょう)するような寒さが残る時代でした。東大和市でも、現在よりも7~8度寒かったようです。
土器を持たないことからか、東大和市域では、空堀川周辺の水辺に旧石器人のキャンプ跡が残されています。多分、村山貯水池に沈んだ石川(宅部川・やけべがわ)のほとりでも同じように生活がされたと思われます。
そこでは、石を焼いて調理をしたのでしょうか、暖をとったのでしょうか、小さな焼け石が集中する遺跡が発見されています。「お湯を沸かしたのでは」との感想も聞きました。
東大和市郷土博物館2階「ひがしやまと人のはじまり」のところに当時の人が使った石器などが展示されています。
考えさせられるのは、空堀川周辺の街道内遺跡(かいどうないいせき)で発見された左図の石核(せっかく)です。石器を作るときに石器を剥ぎ取って残った部分です。この原石が東大和周辺では見られないそうです。
ということは、他所から運ばれてきたことを意味します。2万年か1万5千年前に、東大和市域に生活した旧石器人は遠いほかの場所との交流、他の所から移動してきたことが考えられます。
清水地区には槍先形尖頭器と丸ノミ型石斧を出土した上ノ台遺跡、空堀川の旧河川敷や旧石器~縄文時代に至る清水上砂台遺跡があります。
はるか遠い時代の遠距離の交流、この道筋が追えたらと夢がふくらみます。
2縄文時代(じょうもんじだい)
今から約1万2千年ほど前です。気候がおだやかになり、多様な動植物が生育してきました。食物や生活環境もやや整ってきたのでしょう、石器に加わって土器が使い始められました。そして、何よりも大きな変化は狩りの道具に弓矢を使うようになったことです。土器にしるされた模様から縄文時代と呼びます。東大和市域内では多摩湖、鹿島台、八幡谷ッなどにその痕跡が残されています。
やがて、人口が増えはじめ、東大和市域内では約5千年前の縄文時代中期には頂点に達しました。狭山丘陵一帯に、この時代の人々の生活した跡が、住居跡(じゅうきょあと)、石器、土器、木の実・・・などとともに数多く発見されています。住居の重なりや集中から縄文銀座と呼ぶほどです。
東大和市史資料編3には市の遺跡一覧として76遺跡が記載されています。この内65遺跡が縄文時代の遺跡に関わりがあります。65遺跡中、早期16、前期19、中期58、後期8、晩期0で、中期遺跡が圧倒的に多いことがわかります。
縄文土器による時代区分は東村山市史資料編考古(p144)では、草創期(約1万3000~1万年前)、早期(約1万~6000年前)、前期(約6000~5000年前)、中期(約5000~4000年前)、後期(約4000~3000年前)、晩期(約3000~2400年前)の6期に区分しています。
しかし、やがて変化が生じました。縄文時代も後半(約3500年前)になると遺跡の数がパッタリ少なくなります。東大和市域では、村山貯水池に沈んだ地域で、後期の小さな土器片が二つ発見されています。遺跡は確認できませんでした。
人々が一斉にどこかへ移動したかのように狭山丘陵全体に人影が薄くなりました。近隣ではただひとつ、東村山市に「下宅部遺跡」(しもやけべいせき)という大規模な遺跡が残されています。漆塗(うるしぬり)りの弓や櫛(くし)、ヘアピン、匙(さじ)、きれいな編みカゴ、大きな丸木舟などが発見されて、この時代の特徴を知ることができます。
3弥生時代(やよいじだい)
約2300年前(3000年まで遡るとする研究があります)になると、時代が変化します。米や青銅器(せいどうき)など新しい文化、技術を持った集団の出現です。弥生文化、弥生時代と呼ばれます。
残念ですが、東大和市域では確認されていません。東大和市域から一峰越えた所沢市の「東の上遺跡」(あずまのうえいせき)では52軒の集落が発掘されています。柳瀬川(やなせがわ)を通じて伝わってきたと考えられています。
とすれば、同じ柳瀬川の上流である現在の村山上貯水池に沈んだ石川周辺にも何らかの伝播があったかも知れません。期待が大きいのですが、何としても水の中、確認できなくて残念です。
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Citation
“おおまかな歴史の流れ 先史,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1662.