東大和市の旧石器時代遺跡
タイトル (Title)
東大和市の旧石器時代遺跡
詳細 (Description)
東大和市に最初に住んだ人は、どんな人、いつ頃?
顔つきや身長、どんな服を着て、どんな家に住んでいた、何を話していた・・・などはわかりません。でも、確実に人々が活動していることがわかっています。
2万年から1万2千年くらい前です。寒い時代からやや温かくなってきたときでした。狭山丘陵と南に広がる原野で狩りをして獲物を捕り、木の実や植物 を食べていたようです。空堀川のほとりでキャンプをしていたあとが見つかっています。旧石器時代(後期旧石器時代、先土器時代)と呼ばれます。東大和市内では15ヵ所で当時の人が使った道具などが確認されています。
村山貯水池に沈んだ地域に最初に住んだ人々が使った石器です。
槍先にしたり、獣の皮を剥(は)いだりしました。
東大和市立郷土博物館に行ってご覧下さい。旧石器時代の人の姿がたくましく描かれています。
この時代の人々は、まだ、土器を使っていませんでした。
水を貯めるのに皮袋を使ったとの意見もありますが、生活の場は川辺などが選ばれたのでしょう。
東大和市内では空堀川のほとりにキャンプ場のあとが残されています。
村山貯水池に沈んだ石川のほとりも、そうであったと思われます。
1空堀川のほとりでキャンプをしたあと
旧石器時代の人々は土器を使いませんでした。狭山丘陵や原野で活動しても、どうしても、水場が必要になります。その大切な場所が空堀川や奈良橋川でした。貯水池に沈んだ地域では石川・宅部川でした。
空堀川のほとりでキャンプをしていた跡が見つかっています。
奈良橋五丁目799番地周辺・空堀川沿いの場所で見つかった丸山遺跡です。焼けた小石が転がっていました。何だろうと疑問と興味が高まりました。石を焼いて食べ物を料理した跡と考えられています。焼いたのでしょうか、木の葉に包んで蒸し焼きにしたのでしょうか。
2狩りや肉を切ったりした道具(石器)
旧石器人は米や麦、稗(稗)、粟(あわ)など、食べ物の栽培をしませんでした。動物を追って狩りをしたり、木の実や植物を食べていました。そのために使った道具が石器でした。
11と12は槍の先に使われた石器(槍先)(多摩湖11、12遺跡)です。 13は突くばかりでなく、実を砕いたり、動物の皮を剥いだりした道具(多摩湖36遺跡)と考えられています。(多摩湖遺跡群調査会『多摩湖の歴史』p143~145)
これらの遺跡を残した人々は、一定の期間がたつと新しく動物や植物を見つけるため、次々と場所を変えて生活していたようです。そのため、東大和市内ではキャンプ跡は見つかっても長く住んだ「家」の跡は見つかっていません。遺構として残るのは上砂台、丸山遺跡で「キャンプ」跡と考えられる礫群(れきぐん)が発掘されています。
3他の場所と交流があった?
こんな不思議な形をしたものが発見されています。石器を剥ぎ取ったあとに残る石核(せきかく)で、15000年くらい前のものとされます。空堀川南側の街道内遺跡で発見されました。
興味シンシンは、この石の質です。同じ石質のものが東大和周辺にはないそうです。つまり、この石で石器を作った旧石器人がどこからか持ってきたものと推定されています。どこの石かわかるとイイですね!!
多摩川にも入間川にもないそうです。どこから運ばれてきたのでしょう?
4東大和市内の旧石器時代遺跡の一覧
東大和市内で発見されている旧石器時代の遺跡(先土器)は次の表の通りです。
これらの人々はいつの間にか東大和市域からいなくなってしまいます。次に来た人々は縄文時代人で、縄文時代中期(4500年ぐらい前)には縄文銀座と云われるくらいたくさんの集落が出来ます。しかし、その後、寒冷期が来ると縄文時代の人々も次第に姿を消します。東大和市では奈良・平安時代になって人々が定着し始めます。地球の気候変動が大きく生活に作用したのでしょうか?
現代の温暖化問題をつくづくと考えさせられます。
顔つきや身長、どんな服を着て、どんな家に住んでいた、何を話していた・・・などはわかりません。でも、確実に人々が活動していることがわかっています。
2万年から1万2千年くらい前です。寒い時代からやや温かくなってきたときでした。狭山丘陵と南に広がる原野で狩りをして獲物を捕り、木の実や植物 を食べていたようです。空堀川のほとりでキャンプをしていたあとが見つかっています。旧石器時代(後期旧石器時代、先土器時代)と呼ばれます。東大和市内では15ヵ所で当時の人が使った道具などが確認されています。
村山貯水池に沈んだ地域に最初に住んだ人々が使った石器です。
槍先にしたり、獣の皮を剥(は)いだりしました。
東大和市立郷土博物館に行ってご覧下さい。旧石器時代の人の姿がたくましく描かれています。
この時代の人々は、まだ、土器を使っていませんでした。
水を貯めるのに皮袋を使ったとの意見もありますが、生活の場は川辺などが選ばれたのでしょう。
東大和市内では空堀川のほとりにキャンプ場のあとが残されています。
村山貯水池に沈んだ石川のほとりも、そうであったと思われます。
1空堀川のほとりでキャンプをしたあと
旧石器時代の人々は土器を使いませんでした。狭山丘陵や原野で活動しても、どうしても、水場が必要になります。その大切な場所が空堀川や奈良橋川でした。貯水池に沈んだ地域では石川・宅部川でした。
空堀川のほとりでキャンプをしていた跡が見つかっています。
奈良橋五丁目799番地周辺・空堀川沿いの場所で見つかった丸山遺跡です。焼けた小石が転がっていました。何だろうと疑問と興味が高まりました。石を焼いて食べ物を料理した跡と考えられています。焼いたのでしょうか、木の葉に包んで蒸し焼きにしたのでしょうか。
2狩りや肉を切ったりした道具(石器)
旧石器人は米や麦、稗(稗)、粟(あわ)など、食べ物の栽培をしませんでした。動物を追って狩りをしたり、木の実や植物を食べていました。そのために使った道具が石器でした。
11と12は槍の先に使われた石器(槍先)(多摩湖11、12遺跡)です。 13は突くばかりでなく、実を砕いたり、動物の皮を剥いだりした道具(多摩湖36遺跡)と考えられています。(多摩湖遺跡群調査会『多摩湖の歴史』p143~145)
これらの遺跡を残した人々は、一定の期間がたつと新しく動物や植物を見つけるため、次々と場所を変えて生活していたようです。そのため、東大和市内ではキャンプ跡は見つかっても長く住んだ「家」の跡は見つかっていません。遺構として残るのは上砂台、丸山遺跡で「キャンプ」跡と考えられる礫群(れきぐん)が発掘されています。
3他の場所と交流があった?
こんな不思議な形をしたものが発見されています。石器を剥ぎ取ったあとに残る石核(せきかく)で、15000年くらい前のものとされます。空堀川南側の街道内遺跡で発見されました。
興味シンシンは、この石の質です。同じ石質のものが東大和周辺にはないそうです。つまり、この石で石器を作った旧石器人がどこからか持ってきたものと推定されています。どこの石かわかるとイイですね!!
多摩川にも入間川にもないそうです。どこから運ばれてきたのでしょう?
4東大和市内の旧石器時代遺跡の一覧
東大和市内で発見されている旧石器時代の遺跡(先土器)は次の表の通りです。
これらの人々はいつの間にか東大和市域からいなくなってしまいます。次に来た人々は縄文時代人で、縄文時代中期(4500年ぐらい前)には縄文銀座と云われるくらいたくさんの集落が出来ます。しかし、その後、寒冷期が来ると縄文時代の人々も次第に姿を消します。東大和市では奈良・平安時代になって人々が定着し始めます。地球の気候変動が大きく生活に作用したのでしょうか?
現代の温暖化問題をつくづくと考えさせられます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“東大和市の旧石器時代遺跡,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年12月4日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1663.