上ノ台遺跡(旧石器~平安時代)
タイトル (Title)
上ノ台遺跡(旧石器~平安時代)
詳細 (Description)
遺跡の位置
楽しみな遺跡です。旧石器時代(12000年前)から、一度は途絶えながら平安時代(1000年前)にかけて、長い間人が活動した地域です。
全く、その状況を留めませんが、清水二丁目~三丁目、清水神社の南側から庚申神社にかけての横に広いところです。
地元に住んでいても興味しんしんの地形です。狭山丘陵の麓は小さな谷になっています。そこに
・二ッ池から流れる前川と(清水観音堂裏、武蔵大和駅前)
・高木地域からの湧き水を集める細流(清水神社の裏・旧吉岡邸の北側)
が流れます。この二つを越すと、南にゆるやかな斜面が続き、やがて台地となります。「上ノ台」と地名が付けられています。
この微高地を中心にして、比較的広い範囲に広がるのが「上ノ台遺跡」です。
遺跡の南端は空堀川に達します。そして、再び少し登り、平坦になって砂川地域までかっての武蔵野が広がりっていました。
上ノ台遺跡の特徴
この遺跡の特徴は先史時代から平安時代までの特色ある遺跡が集まっていることです。
・旧石器・先土器時代(約12000年前)
・縄文時代中期(約4500年前)
・平安時代(約1000年前)
の遺跡が並ぶようにあります。
これは東大和市内では他にみることが出来ません。『東大和市史資料編3』では次のようにまとめています。
「それぞれ間が途切れてはいるが、全体で見れば一万年以上の長い期間、人々の暮らしの舞台であったことを示している。それは、当時の人々にとって、この場所が暮らしやすい場所だったと考えることもできる。(『東大和市史資料編3』p108)
以下、それぞれの概要を記します。
1 旧石器・先土器時代(約12000年前)
上ノ台遺跡からは、農耕中の表面採集(1975年)ですが、17.5㌢の大型の槍先形尖頭器、農耕により攪乱された地層から出土した(1978年)丸ノミ形石斧が発見されています。この貴重さは調査報告書『上ノ台遺跡』で次のように紹介されています。
「・・・、上ノ台遺跡では50m以上もはなれた地点からそれぞれ偶然に発見されたものではあるが、大形槍先尖頭器と丸ノミ形石斧は、もともとは同じ時代に作られた石器であったということができるのである。
一方、このように大形槍先形尖頭器と丸ノミ形石斧がセットとなって発見される遺跡は、中部地方から東の地域に点々と存在し、その源はシベリヤやカムチャッカなど、北方アジァ大陸にたどりうるものとされている。
関東地方でも大形槍先形尖頭器の発見される遺跡は、先に示した東大和市内の2例(奈良橋の砂野、八幡谷ッ遺跡)のほかにもかなり多く知られているが、丸ノミ形石斧の出土例となると、管見にふれた例だけであるが、埼玉県に3例、神奈川県に2例、茨城県に2例、それに東京都では今回の上ノ台遺跡の1例と、合計8例をかぞえるにすぎない。」(『上ノ台遺跡』1978発行 p8)
2 縄文時代中期(約4500年前)
上ノ台遺跡からは縄文時代中期の敷石住居跡が発見されました。道路工事中の発見(1986)で、一部が失われてしまっていました。緊急調査を行い、主要な部分の把握が出来ました。あわせて特殊とも云える土器、石器類が発見されて、この遺跡の特殊性と周辺の状況が浮かんできました。
この遺跡の意義について『東大和市史資料編3発掘された先人のくらし』は、次のように記しています。
「一九八六年の調査で特筆すべき点は、縄文時代中期の敷石住居跡が発見されたことだ。残念ながら道路工事により三分の二程は失われてしまっていたが、柄鏡形(えかがみがた)の住居の中央の炉と、その周りに敷きつめられた扁平な石が検出された。住居内からは、縄文時代中期の末ごろの土器や、石棒(せきぼう)という石器の破片なども出土している。
特に石棒は、破片をつなぎ合わせて復元すると直径一五センチメートル、長さも五〇センチメートル近くになる大きなもので、日常生活で使うものではなく、子孫繁栄など信仰の対象となるものだったと考えられる。
縄文時代の住居跡は残念ながらこの一軒だけしか見つかっていないが、市内では他に例のない敷石住居跡という形態や、大形の石棒の存在から考えて、この住居跡が遺跡内で特別な役割を持っていたと考えられるだろう。(『東大和市史資料編3発掘された先人のくらし』p108)
なお、この住居跡の側近の場所から、明治末か大正初年の頃、東大和市指定文化財・市重宝の石皿が採集されています。
3 平安時代(約1000年前)
1978年の調査で、上ノ台遺跡から、一軒だけでしたが平安時代と考えられる竪穴住居跡が発掘されました。それも、竈(かまど)が普通とは違う形の家でした。
約3.5㍍四方の床に1㍍近くの幅の壁がつくられていました。そして、その上に竈(かまど)を設けるという特殊な竪穴住居でした。
この時代の竪穴住居では、多くがカマドは住居の床面から壁にそって作られ、煙出しだけが外にのびているのが普通であるのに、この住居址のような例は珍しいとされます。
そして、この家跡から発見された土器(土師器 はじき)が当時の生活を語ります。上ノ台遺跡調査報告書は次のように記します。
「40片ほどの土器片が出土したが、そのうちカメ(煮炊きに使う容器)とみられるものが一片あるだけで、他はすべて小さな杯(食事の時に使う一人一人の椀と考えればよい)であった。つまり単純に書けば、ただ一つの鍋、釜にあたる土器と、わずかな数の一人用の食器が、この上ノ台第1号住居跡に住んだ人々の財産だったということになる。(中略)
府中に荘大な武蔵国分寺が造営された頃の、栄華からは見放された庶民の生活が、この上ノ台第1号住居跡に暗示されている。」(p14)
現在のところ、この地域での奈良時代から平安時代にかけての住居跡の発見はこの家だけです。しかし、その時代のこの地域の実態を告げるようで、改めて当時が偲ばれます。中世以降に継続した生活があったかどうかは不明です。
詳細は『東大和市史資料編3発掘された先人のくらし』1995発行
調査報告書『上ノ台遺跡』1978発行をご覧下さい。
石器、住居跡の画像はいずれも東大和市立郷土博物館の許可を得て撮影、掲載しました。
楽しみな遺跡です。旧石器時代(12000年前)から、一度は途絶えながら平安時代(1000年前)にかけて、長い間人が活動した地域です。
全く、その状況を留めませんが、清水二丁目~三丁目、清水神社の南側から庚申神社にかけての横に広いところです。
地元に住んでいても興味しんしんの地形です。狭山丘陵の麓は小さな谷になっています。そこに
・二ッ池から流れる前川と(清水観音堂裏、武蔵大和駅前)
・高木地域からの湧き水を集める細流(清水神社の裏・旧吉岡邸の北側)
が流れます。この二つを越すと、南にゆるやかな斜面が続き、やがて台地となります。「上ノ台」と地名が付けられています。
この微高地を中心にして、比較的広い範囲に広がるのが「上ノ台遺跡」です。
遺跡の南端は空堀川に達します。そして、再び少し登り、平坦になって砂川地域までかっての武蔵野が広がりっていました。
上ノ台遺跡の特徴
この遺跡の特徴は先史時代から平安時代までの特色ある遺跡が集まっていることです。
・旧石器・先土器時代(約12000年前)
・縄文時代中期(約4500年前)
・平安時代(約1000年前)
の遺跡が並ぶようにあります。
これは東大和市内では他にみることが出来ません。『東大和市史資料編3』では次のようにまとめています。
「それぞれ間が途切れてはいるが、全体で見れば一万年以上の長い期間、人々の暮らしの舞台であったことを示している。それは、当時の人々にとって、この場所が暮らしやすい場所だったと考えることもできる。(『東大和市史資料編3』p108)
以下、それぞれの概要を記します。
1 旧石器・先土器時代(約12000年前)
上ノ台遺跡からは、農耕中の表面採集(1975年)ですが、17.5㌢の大型の槍先形尖頭器、農耕により攪乱された地層から出土した(1978年)丸ノミ形石斧が発見されています。この貴重さは調査報告書『上ノ台遺跡』で次のように紹介されています。
「・・・、上ノ台遺跡では50m以上もはなれた地点からそれぞれ偶然に発見されたものではあるが、大形槍先尖頭器と丸ノミ形石斧は、もともとは同じ時代に作られた石器であったということができるのである。
一方、このように大形槍先形尖頭器と丸ノミ形石斧がセットとなって発見される遺跡は、中部地方から東の地域に点々と存在し、その源はシベリヤやカムチャッカなど、北方アジァ大陸にたどりうるものとされている。
関東地方でも大形槍先形尖頭器の発見される遺跡は、先に示した東大和市内の2例(奈良橋の砂野、八幡谷ッ遺跡)のほかにもかなり多く知られているが、丸ノミ形石斧の出土例となると、管見にふれた例だけであるが、埼玉県に3例、神奈川県に2例、茨城県に2例、それに東京都では今回の上ノ台遺跡の1例と、合計8例をかぞえるにすぎない。」(『上ノ台遺跡』1978発行 p8)
2 縄文時代中期(約4500年前)
上ノ台遺跡からは縄文時代中期の敷石住居跡が発見されました。道路工事中の発見(1986)で、一部が失われてしまっていました。緊急調査を行い、主要な部分の把握が出来ました。あわせて特殊とも云える土器、石器類が発見されて、この遺跡の特殊性と周辺の状況が浮かんできました。
この遺跡の意義について『東大和市史資料編3発掘された先人のくらし』は、次のように記しています。
「一九八六年の調査で特筆すべき点は、縄文時代中期の敷石住居跡が発見されたことだ。残念ながら道路工事により三分の二程は失われてしまっていたが、柄鏡形(えかがみがた)の住居の中央の炉と、その周りに敷きつめられた扁平な石が検出された。住居内からは、縄文時代中期の末ごろの土器や、石棒(せきぼう)という石器の破片なども出土している。
特に石棒は、破片をつなぎ合わせて復元すると直径一五センチメートル、長さも五〇センチメートル近くになる大きなもので、日常生活で使うものではなく、子孫繁栄など信仰の対象となるものだったと考えられる。
縄文時代の住居跡は残念ながらこの一軒だけしか見つかっていないが、市内では他に例のない敷石住居跡という形態や、大形の石棒の存在から考えて、この住居跡が遺跡内で特別な役割を持っていたと考えられるだろう。(『東大和市史資料編3発掘された先人のくらし』p108)
なお、この住居跡の側近の場所から、明治末か大正初年の頃、東大和市指定文化財・市重宝の石皿が採集されています。
3 平安時代(約1000年前)
1978年の調査で、上ノ台遺跡から、一軒だけでしたが平安時代と考えられる竪穴住居跡が発掘されました。それも、竈(かまど)が普通とは違う形の家でした。
約3.5㍍四方の床に1㍍近くの幅の壁がつくられていました。そして、その上に竈(かまど)を設けるという特殊な竪穴住居でした。
この時代の竪穴住居では、多くがカマドは住居の床面から壁にそって作られ、煙出しだけが外にのびているのが普通であるのに、この住居址のような例は珍しいとされます。
そして、この家跡から発見された土器(土師器 はじき)が当時の生活を語ります。上ノ台遺跡調査報告書は次のように記します。
「40片ほどの土器片が出土したが、そのうちカメ(煮炊きに使う容器)とみられるものが一片あるだけで、他はすべて小さな杯(食事の時に使う一人一人の椀と考えればよい)であった。つまり単純に書けば、ただ一つの鍋、釜にあたる土器と、わずかな数の一人用の食器が、この上ノ台第1号住居跡に住んだ人々の財産だったということになる。(中略)
府中に荘大な武蔵国分寺が造営された頃の、栄華からは見放された庶民の生活が、この上ノ台第1号住居跡に暗示されている。」(p14)
現在のところ、この地域での奈良時代から平安時代にかけての住居跡の発見はこの家だけです。しかし、その時代のこの地域の実態を告げるようで、改めて当時が偲ばれます。中世以降に継続した生活があったかどうかは不明です。
詳細は『東大和市史資料編3発掘された先人のくらし』1995発行
調査報告書『上ノ台遺跡』1978発行をご覧下さい。
石器、住居跡の画像はいずれも東大和市立郷土博物館の許可を得て撮影、掲載しました。
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Citation
“上ノ台遺跡(旧石器~平安時代),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1665.