大まかな歴史の流れ 古代
タイトル (Title)
大まかな歴史の流れ 古代
詳細 (Description)
1古墳時代
300年代から600年代にかけて、
・南の多摩川沿いには全長110メートルの芝丸山古墳(初期前方後円墳)をはじめとする一連の南武蔵の古墳群
・北には4世紀末と考えられる全長115メートルの野本将軍塚古墳を含む北武蔵の埼玉古墳群
・利根川沿いには、全長129メートル前橋天神山古墳を含む毛野(けぬ)古墳群
が築かれます。
それぞれ中央政権とのつながりや狛江古墳群、瀬戸岡古墳群のように渡来系の関係が指摘される古墳が出現し、武蔵の古代の人々の活動が伝えられます。
7世紀前半には、武蔵府中に全国的に例が少ない上円下方墳である熊野神社古墳が築かれます。武蔵の指導者であったことが推測されます。
さて、その中間に当たる狭山丘陵周辺です。所沢市に数基の全長10メートル前後の円墳である岩崎古墳群、海谷古墳群が築かれています。残念ですが、他に古墳は見当たりません。しかし、所沢市は「二つの古墳群が語るもの」として
「岩崎古墳群の副葬品は、装身具や直刀等の象徴的なものであったのに対し、海谷古墳群の副葬品は、装身具の他に鉄鏃や刀子等の鉄器類が加わり、武装的な副葬品に変わった。岩崎古墳群は在地の氏族集団の有力者が被葬者であるのに対し、海谷古墳群の被葬者は、鉄鏃などの武器を所有する武装者集団であったと考えられる。」
と、在地豪族と武装者集団の進出を指摘しています。狭山丘陵南麓にも何らかの動きがあったはずです。
東大和市域では、村山貯水池に沈んだ地域に蘇我石川麻呂の伝承が伝わりますが、確実な痕跡は見つかっていません。
南麓では現在の湖畔二丁目(諏訪山遺跡)で、工事の最中、鬼高式土器(古墳時代後期5世紀末から7世紀)が2個発見されています。ブルドーザーによる攪乱で住居址などは確認できませんでした。廻田谷ッに営まれた水田(現在の東邦団地)を営む小家族が居住していたことが推定できます。
2東山道武蔵路・国府・国分寺建立の頃、豊鹿島神社の創建伝承
7世紀後半、狭山丘陵東端に古代の官道「東山道武蔵路」(とうさんどうむさしみち)が通過します。上野新田駅から相模国への幅12メートルの官道です。狭山丘陵東端を直線で走って東村山駅近くを通っています。初代東国国司が通ったことも考えられます。
8世紀には府中市域に武蔵国府、国分寺市域に武蔵国分寺の建設が進められました。大量の瓦が末野(寄居町)、南比企(鳩山町)東金子(入間市)窯跡(ようし)群で焼かれ、運搬されました。これらの事業に東大和市域の人々も従事したのでしょうか?
その痕跡は辿れません。東大和市域では、慶雲4年(707)に、豊鹿島神社が創建されたとの伝承があります。
3多摩・入間の郡界
天武12年(683)~14年(685)にかけて日本書紀は国境画定作業を伝えます。和銅6年(713)「諸国の国郡名は二字の好字を用いよ」の詔により、これまでの胸刺、无邪志の表示は廃止され「武蔵国」が生まれました。
その頃、多摩と入間の郡界が定まり、狭山丘陵の峰を境に東大和市域は多摩郡に属することになりました。現在の村山貯水池の北側の周囲道路が概ねその位置になります。
霊亀2年(716)5月16日、高麗郡、天平宝字2年(758)8月24日、新羅郡と武蔵国に渡来系の人々を中心とする郡が設立されます。山口貯水池に沈んだ勝楽寺村には高麗郡建郡に関する伝承が伝えられます。東大和市域の属した「郷」は、そして「郡界」は?
4平安時代
天平勝宝7年(755)防人が武蔵国府から旅立ちます。
「赤駒を 山野(やまぬ)に放し(はがし)捕りかねて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」と夫を見送る妻は詠みます。(万葉集20-4417)
この時代・平安時代(8~12世紀)になると、東大和市域にも定着する人々が増えはじめたと推定できます。多摩湖の湖底や現在の湖畔一・二丁目(廻田谷ッ東)から当時の家のあとや生活用具が発掘されています。狭山丘陵が刻んだ谷の各所に小規模な水田を営み、集落を営み始めたようです。
将門の乱と西楽寺の不動明王
承平5年(935)、下総で平将門(たいらのまさかど)の乱が発生します。天慶2年(938)に、将門は武蔵国府に向かい、武蔵権守興世王(むさしごんのかみおきよおう)・武蔵介源経基(むさしのすけみなもとのつねもと)対足立郡司武蔵武芝の対立を調停し和睦させます。その間に将門に敵対する源経基は比企郡「狭服山」に籠もったとされます。「狭服山」の位置については狭山丘陵を含め諸説あります。
しかし、一族間の対立は止まず、源経基も加わって朝廷に将門の反逆を訴え、将門もこれに対立します。天慶3年(939)、将門は上野国府を占領、武蔵・相模を巡検して国印を奪い、新皇を称します。朝廷は平貞盛と藤原秀郷に将門追討を命じます。将門は討たれ乱は終結します。この藤原秀郷が陣中に戦勝を祈願した不動明王が幾多の変遷を経て村山貯水池に沈んだ西楽寺に遷されて、まつられていたとの伝承があります。
村山党の定着
10世紀後半、狭山丘陵周辺に武蔵七党の一つ村山党が定着し、所沢市の山口に山口氏が砦を構えました。やがて一族は金子、難波田(なんばた)、仙波、須黒、久米、荒幡・荒波田(あらはた)、宮寺氏などを分立させました。現在の地名につながります。
治承4年(1180)、源頼朝の挙兵時には村山党の面々も参戦し、金子氏の武勇が伝わります。東大和市域周辺にもその動向は伝わり、何らかの画期があったものと推定されます。多摩湖の湖底に沈んだ地域に建設された御霊神社(明神・1063)、三光院(1112)、狭山の円乘院(1159)などの創建についての伝承が伝わります。
300年代から600年代にかけて、
・南の多摩川沿いには全長110メートルの芝丸山古墳(初期前方後円墳)をはじめとする一連の南武蔵の古墳群
・北には4世紀末と考えられる全長115メートルの野本将軍塚古墳を含む北武蔵の埼玉古墳群
・利根川沿いには、全長129メートル前橋天神山古墳を含む毛野(けぬ)古墳群
が築かれます。
それぞれ中央政権とのつながりや狛江古墳群、瀬戸岡古墳群のように渡来系の関係が指摘される古墳が出現し、武蔵の古代の人々の活動が伝えられます。
7世紀前半には、武蔵府中に全国的に例が少ない上円下方墳である熊野神社古墳が築かれます。武蔵の指導者であったことが推測されます。
さて、その中間に当たる狭山丘陵周辺です。所沢市に数基の全長10メートル前後の円墳である岩崎古墳群、海谷古墳群が築かれています。残念ですが、他に古墳は見当たりません。しかし、所沢市は「二つの古墳群が語るもの」として
「岩崎古墳群の副葬品は、装身具や直刀等の象徴的なものであったのに対し、海谷古墳群の副葬品は、装身具の他に鉄鏃や刀子等の鉄器類が加わり、武装的な副葬品に変わった。岩崎古墳群は在地の氏族集団の有力者が被葬者であるのに対し、海谷古墳群の被葬者は、鉄鏃などの武器を所有する武装者集団であったと考えられる。」
と、在地豪族と武装者集団の進出を指摘しています。狭山丘陵南麓にも何らかの動きがあったはずです。
東大和市域では、村山貯水池に沈んだ地域に蘇我石川麻呂の伝承が伝わりますが、確実な痕跡は見つかっていません。
南麓では現在の湖畔二丁目(諏訪山遺跡)で、工事の最中、鬼高式土器(古墳時代後期5世紀末から7世紀)が2個発見されています。ブルドーザーによる攪乱で住居址などは確認できませんでした。廻田谷ッに営まれた水田(現在の東邦団地)を営む小家族が居住していたことが推定できます。
2東山道武蔵路・国府・国分寺建立の頃、豊鹿島神社の創建伝承
7世紀後半、狭山丘陵東端に古代の官道「東山道武蔵路」(とうさんどうむさしみち)が通過します。上野新田駅から相模国への幅12メートルの官道です。狭山丘陵東端を直線で走って東村山駅近くを通っています。初代東国国司が通ったことも考えられます。
8世紀には府中市域に武蔵国府、国分寺市域に武蔵国分寺の建設が進められました。大量の瓦が末野(寄居町)、南比企(鳩山町)東金子(入間市)窯跡(ようし)群で焼かれ、運搬されました。これらの事業に東大和市域の人々も従事したのでしょうか?
その痕跡は辿れません。東大和市域では、慶雲4年(707)に、豊鹿島神社が創建されたとの伝承があります。
3多摩・入間の郡界
天武12年(683)~14年(685)にかけて日本書紀は国境画定作業を伝えます。和銅6年(713)「諸国の国郡名は二字の好字を用いよ」の詔により、これまでの胸刺、无邪志の表示は廃止され「武蔵国」が生まれました。
その頃、多摩と入間の郡界が定まり、狭山丘陵の峰を境に東大和市域は多摩郡に属することになりました。現在の村山貯水池の北側の周囲道路が概ねその位置になります。
霊亀2年(716)5月16日、高麗郡、天平宝字2年(758)8月24日、新羅郡と武蔵国に渡来系の人々を中心とする郡が設立されます。山口貯水池に沈んだ勝楽寺村には高麗郡建郡に関する伝承が伝えられます。東大和市域の属した「郷」は、そして「郡界」は?
4平安時代
天平勝宝7年(755)防人が武蔵国府から旅立ちます。
「赤駒を 山野(やまぬ)に放し(はがし)捕りかねて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」と夫を見送る妻は詠みます。(万葉集20-4417)
この時代・平安時代(8~12世紀)になると、東大和市域にも定着する人々が増えはじめたと推定できます。多摩湖の湖底や現在の湖畔一・二丁目(廻田谷ッ東)から当時の家のあとや生活用具が発掘されています。狭山丘陵が刻んだ谷の各所に小規模な水田を営み、集落を営み始めたようです。
将門の乱と西楽寺の不動明王
承平5年(935)、下総で平将門(たいらのまさかど)の乱が発生します。天慶2年(938)に、将門は武蔵国府に向かい、武蔵権守興世王(むさしごんのかみおきよおう)・武蔵介源経基(むさしのすけみなもとのつねもと)対足立郡司武蔵武芝の対立を調停し和睦させます。その間に将門に敵対する源経基は比企郡「狭服山」に籠もったとされます。「狭服山」の位置については狭山丘陵を含め諸説あります。
しかし、一族間の対立は止まず、源経基も加わって朝廷に将門の反逆を訴え、将門もこれに対立します。天慶3年(939)、将門は上野国府を占領、武蔵・相模を巡検して国印を奪い、新皇を称します。朝廷は平貞盛と藤原秀郷に将門追討を命じます。将門は討たれ乱は終結します。この藤原秀郷が陣中に戦勝を祈願した不動明王が幾多の変遷を経て村山貯水池に沈んだ西楽寺に遷されて、まつられていたとの伝承があります。
村山党の定着
10世紀後半、狭山丘陵周辺に武蔵七党の一つ村山党が定着し、所沢市の山口に山口氏が砦を構えました。やがて一族は金子、難波田(なんばた)、仙波、須黒、久米、荒幡・荒波田(あらはた)、宮寺氏などを分立させました。現在の地名につながります。
治承4年(1180)、源頼朝の挙兵時には村山党の面々も参戦し、金子氏の武勇が伝わります。東大和市域周辺にもその動向は伝わり、何らかの画期があったものと推定されます。多摩湖の湖底に沈んだ地域に建設された御霊神社(明神・1063)、三光院(1112)、狭山の円乘院(1159)などの創建についての伝承が伝わります。
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Citation
“大まかな歴史の流れ 古代,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年12月11日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1667.