大まかな歴史の流れ 中世1
タイトル (Title)
大まかな歴史の流れ 中世1
詳細 (Description)
狭山丘陵周辺の中世は明確な指標による区分が難しく、次の3区分で紹介します。
中世1 頼朝の旗揚げ~鎌倉幕府の終焉まで
中世2 南北朝~室町幕府=足利氏~上杉氏
中世3 戦国時代=後北条氏~豊臣秀吉
中世1 源頼朝の旗揚げ~鎌倉幕府の終焉まで
(1)村山党
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵します。狭山丘陵周辺には武蔵七党のうち村山党が基盤を築きつつありました。村山党系図からその位置を判断すると下図のように推測されます。
肝心の村山党の本拠は山口氏か、それとも南麓の村山地域に村山氏が拠点を構えていたのか確定できません。何よりも東大和市域はどのようになっていたのか不明です。
建久元年(1190)11月7日、頼朝は京都に入ります。この時の先陣として、山口小七郎(=家継)・仙波次郎・山口次郎兵衛尉・金子小太郎、後陣に、金子十郎・仙波平太・山口小次郎らが供奉しています。
承久3年(1221)、承久の乱が起きます。その際、金子・宮寺・勝呂・山口・仙波・久米など村山党の武士の名が記され、ほとんどが北条方として参戦しています。いずれも狭山丘陵北麓地域で、南麓地域に村山氏の名前は確認できません。
(2)谷ッに散在する集落
この時代の東大和市域の人々はどのような生活をしていたのでしょうか? 村山党の山口氏に属していたのでしょうか?それとも、別に村山氏が地域を定めて統治し、そこに属していたのでしょうか?残念ですが確認できません。
ただし、神社や寺の創建が伝えられます。このことから、丘陵に刻まれた谷々を中心に人々が生活し、集落を形成、散在していたことが考えられます。具体的な家の状況や集落、村の名称などは不明です。荒ヶ谷戸(あらがやと)、鍛冶ヶ谷戸(かじがやと)・・・など人々の生活の基盤となった谷ッには名前をつけて位置関係を表したものと考えられます。
(3)初期の東大和市域の神社・寺院建立の伝承
11世紀に入ると狭山丘陵の中腹に神社や寺院(真言宗)が建立され始めました。また、丘陵の峰や中腹には板碑がまつられました。その多くに阿弥陀様が刻まれ、浄土信仰が普及していたことがわかります。
神社
・後三年の役(1083~1087)の時です。村山貯水池の湖底に沈んだ内堀の里に、鎌倉権五郎景政の家臣であった寺島小十郎が居住し、御霊神社をまつったとします。明治3年(1870)調査では下図のように報告されています。いろいろの経過が重ねられているようです。貯水池建設に伴い、移転して現在は狭山神社に合祀されています。
・健保2年(1214)、湖底に沈んだ清水村に氷川神社が建立されました。その棟札に大旦那として石井美作守の記載があります。現在は移転して清水神社に合祀されています。
寺院と板碑
・天永3年(1112)、湖底に沈んだ三光院(清水)の開山・円長が入寂したと伝えます(『新編武蔵風土記稿』)。
『狭山之栞』では草創開基末詳とし、開山の快元法印は延文2年(1357)に没とします。
・平治元年(1159)、円乗院(狭山)を開いた賢誉法印が入寂したと伝えられます。
・弘安6年(1283)、東大和市域最古の板碑の存在が記録されています。村山下貯水池南東付近にあった墓地にまつられていました。現物はありません。
・永仁2年(1294)、東大和市域内では最古の板碑が発掘されています。現湖畔三丁目、二つ池の南西、狭山丘陵の中腹に埋められていました。永仁の板碑
・弘安元年(1278)、隣接の東村山市野口に正福寺が建立されました。南宋の径山興聖万寿(けいざんこうしょう まんじゅ)禅寺の石渓心月(しっけいしんげつ)を開山とし、執権・北条時宗により開創されたとの伝承を持ちます。実質的には弟子の無象静照(む ぞうじょうしょう)と考えられるとされます(正福寺展p5)。
(4)鎌倉街道上道
鎌倉時代を代表する道に鎌倉街道があります。信濃、越後、上野(こうずけ)から武蔵を通過して鎌倉に至る「鎌倉街道上道」(かみつみち)が狭山丘陵の東端を通っていました。隣接の東村山市久米川に「久米川宿」が営まれていました。文永8年(1271)、日蓮が佐渡に流される途中でこの宿に泊まっています。
多くの枝道がありますが、その一つとして東大和市内には八幡神社東側に鎌倉街道の伝承があります。府中市に「奈良橋道」と呼ぶ道があり、接続していたと考えられます。
広域な道路を通じ、人・物・政治と時代が動く様相が伝えられます。東大和市域では
・狭山丘陵南麓の清水村では平安時代末、鎌倉時代初期に定住したことを伝える旧家がありました。
・また、村山貯水池に沈んだ内堀、宅部地域では御霊神社、氷川神社、三光院を建立し開基となる旧家が伝えられます。
・芋窪地域では平安時代から豊鹿島神社をまつる人々の活動があったことが推測されます。
中世1 頼朝の旗揚げ~鎌倉幕府の終焉まで
中世2 南北朝~室町幕府=足利氏~上杉氏
中世3 戦国時代=後北条氏~豊臣秀吉
中世1 源頼朝の旗揚げ~鎌倉幕府の終焉まで
(1)村山党
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵します。狭山丘陵周辺には武蔵七党のうち村山党が基盤を築きつつありました。村山党系図からその位置を判断すると下図のように推測されます。
肝心の村山党の本拠は山口氏か、それとも南麓の村山地域に村山氏が拠点を構えていたのか確定できません。何よりも東大和市域はどのようになっていたのか不明です。
建久元年(1190)11月7日、頼朝は京都に入ります。この時の先陣として、山口小七郎(=家継)・仙波次郎・山口次郎兵衛尉・金子小太郎、後陣に、金子十郎・仙波平太・山口小次郎らが供奉しています。
承久3年(1221)、承久の乱が起きます。その際、金子・宮寺・勝呂・山口・仙波・久米など村山党の武士の名が記され、ほとんどが北条方として参戦しています。いずれも狭山丘陵北麓地域で、南麓地域に村山氏の名前は確認できません。
(2)谷ッに散在する集落
この時代の東大和市域の人々はどのような生活をしていたのでしょうか? 村山党の山口氏に属していたのでしょうか?それとも、別に村山氏が地域を定めて統治し、そこに属していたのでしょうか?残念ですが確認できません。
ただし、神社や寺の創建が伝えられます。このことから、丘陵に刻まれた谷々を中心に人々が生活し、集落を形成、散在していたことが考えられます。具体的な家の状況や集落、村の名称などは不明です。荒ヶ谷戸(あらがやと)、鍛冶ヶ谷戸(かじがやと)・・・など人々の生活の基盤となった谷ッには名前をつけて位置関係を表したものと考えられます。
(3)初期の東大和市域の神社・寺院建立の伝承
11世紀に入ると狭山丘陵の中腹に神社や寺院(真言宗)が建立され始めました。また、丘陵の峰や中腹には板碑がまつられました。その多くに阿弥陀様が刻まれ、浄土信仰が普及していたことがわかります。
神社
・後三年の役(1083~1087)の時です。村山貯水池の湖底に沈んだ内堀の里に、鎌倉権五郎景政の家臣であった寺島小十郎が居住し、御霊神社をまつったとします。明治3年(1870)調査では下図のように報告されています。いろいろの経過が重ねられているようです。貯水池建設に伴い、移転して現在は狭山神社に合祀されています。
・健保2年(1214)、湖底に沈んだ清水村に氷川神社が建立されました。その棟札に大旦那として石井美作守の記載があります。現在は移転して清水神社に合祀されています。
寺院と板碑
・天永3年(1112)、湖底に沈んだ三光院(清水)の開山・円長が入寂したと伝えます(『新編武蔵風土記稿』)。
『狭山之栞』では草創開基末詳とし、開山の快元法印は延文2年(1357)に没とします。
・平治元年(1159)、円乗院(狭山)を開いた賢誉法印が入寂したと伝えられます。
・弘安6年(1283)、東大和市域最古の板碑の存在が記録されています。村山下貯水池南東付近にあった墓地にまつられていました。現物はありません。
・永仁2年(1294)、東大和市域内では最古の板碑が発掘されています。現湖畔三丁目、二つ池の南西、狭山丘陵の中腹に埋められていました。永仁の板碑
・弘安元年(1278)、隣接の東村山市野口に正福寺が建立されました。南宋の径山興聖万寿(けいざんこうしょう まんじゅ)禅寺の石渓心月(しっけいしんげつ)を開山とし、執権・北条時宗により開創されたとの伝承を持ちます。実質的には弟子の無象静照(む ぞうじょうしょう)と考えられるとされます(正福寺展p5)。
(4)鎌倉街道上道
鎌倉時代を代表する道に鎌倉街道があります。信濃、越後、上野(こうずけ)から武蔵を通過して鎌倉に至る「鎌倉街道上道」(かみつみち)が狭山丘陵の東端を通っていました。隣接の東村山市久米川に「久米川宿」が営まれていました。文永8年(1271)、日蓮が佐渡に流される途中でこの宿に泊まっています。
多くの枝道がありますが、その一つとして東大和市内には八幡神社東側に鎌倉街道の伝承があります。府中市に「奈良橋道」と呼ぶ道があり、接続していたと考えられます。
広域な道路を通じ、人・物・政治と時代が動く様相が伝えられます。東大和市域では
・狭山丘陵南麓の清水村では平安時代末、鎌倉時代初期に定住したことを伝える旧家がありました。
・また、村山貯水池に沈んだ内堀、宅部地域では御霊神社、氷川神社、三光院を建立し開基となる旧家が伝えられます。
・芋窪地域では平安時代から豊鹿島神社をまつる人々の活動があったことが推測されます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“大まかな歴史の流れ 中世1,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年10月15日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1675.