大まかな歴史の流れ 中世3
タイトル (Title)
大まかな歴史の流れ 中世3
詳細 (Description)
伊勢宗瑞・氏綱~武蔵制覇
1伊勢宗瑞の関東進出
地域領主の変化 15世紀中頃、武蔵野は関東の戦国時代と言われるほど戦乱が続きました。鎌倉公方足利持氏と上杉氏の間の争いが続いた享徳の大乱(1455~1483)は、武蔵の勢力に、これまでとは異なったより広域な地域領主を生む変化をもたらせました。
上杉氏の独壇場 足利持氏亡き後は上杉氏の独壇場となり、山内上杉氏と扇谷上杉氏の有力家臣が力をつけてきました。東大和市周辺の山口氏は規模を縮小し、山内上杉氏の家臣(守護代)大石氏が勢力を増し、扇谷上杉氏の家宰太田道灌などが新たな支配者として登場しました。
大石氏の勢力拡大 この時期、大石氏は高槻(八王子市高月)周辺に本拠を置き、所沢、東久留米周辺まで勢力を伸ばしました。東大和市域は、明確ではありませんが、その支配下にあったことも推測されます。
太田道灌謀殺 やがて、山内上杉氏と扇谷上杉氏の間で対立が生じ、その間に太田道灌が主家の扇谷定正によって謀殺(文明18・1486年7月26日)されます。道灌を失った定正は逆にピンチを招き、戦況打開のため伊豆から相模に勢力を伸ばしてきた伊勢宗瑞(一般的には北条早雲)に接近します。
長享の乱 長享元年(1487)両上杉家の対決が始まりました。18年間にわたり一連の合戦が行われ、長享の乱と呼ばれます。
明応3年(1494)、山内上杉氏は南武蔵関戸へ南下、相模・玉縄城を攻撃、扇谷上杉定正は敗戦を重ね、伊勢宗瑞に応援の要請をしました。宗瑞は時機到来と応じました。
伊勢宗瑞の久米川着陣 明応3年(1494)9月28日、宗瑞は久米川に着陣しました。山内上杉、扇谷上杉氏は合戦を続け、その最中に扇谷定正は荒川渡河中に落馬して死亡しました。宗瑞は2ヶ月にわたって武蔵、相模を転戦して伊豆に戻りました。その経過が「石川忠総留書」に残されています。
長享の乱の終息・大石氏の後退 山内、扇谷両上杉家の対立は続きます。永正元年(1504)、立河原、川越などで合戦を重ね、 永正2年(1505)、山内上杉氏による扇谷上杉氏の川越城総攻撃を機に、扇谷上杉氏からの和議申し入れによって和睦が成立します。長享の乱は終息しました。背景に力を増した伊勢宗瑞、今川氏の関東進出を阻止しようとする上杉側の狙いがありました。長い乱の過程で山口氏、仙波氏は扇谷上杉方として行動したと考えられています。(東村山市史p451)
一方の宗瑞はさらに武蔵進出の機を狙い、永正7年(1510)、武蔵に出陣、椚田要害(八王子市)に籠もる大石氏を攻撃、大石氏は後退を続けます。
2後北条氏の武蔵支配
(1)北条氏綱の江戸城、川越城奪取
氏綱が家督を継ぎ江戸城攻撃 永正15年(1518)伊勢宗瑞は嫡子氏綱に家督を譲ります。大永3年(1523)、氏綱が北条氏を名乗りました。やがて、氏綱は扇谷上杉朝興と対立、大永4年(1524)、氏綱が江戸城を攻撃して朝興は破れ川越城に逃れました。氏綱は江戸城を手中にしました。
川越城奪取 江戸城という武蔵攻略の重要拠点を得た氏綱は、天文6年(1537)、入間郡三木(狭山市)で扇谷上杉朝定軍と戦い勝利します。勢いに乗じて川越城を攻撃して奪取しました。両城を奪われた扇谷上杉氏は武蔵を追われ、松山城に退きます。
(2)河越夜戦 北条氏の武蔵支配
謎の河越夜戦 武蔵を追われた上杉氏は失地回復を図ります。天文15年(1546)、両上杉家は古河公方と共に川越城奪取のため、攻撃を開始しました。両上杉家と公方勢併せて8万余騎と籠城する北条方3千人の対戦とされます。
結果は北条氏康の駿河からの応援、奇襲攻撃により、圧倒的に有利であったはずの上杉・公方方が敗れました。上杉氏は越後に追われました。河越夜戦と呼ばれます。ただし、確実な資料がなく、議論が分かれます。
東大和市域も北条氏へ? 以後、武蔵は北条氏の支配下に入りました。大石氏は北条氏へ服従しました。東大和市域も北条氏の支配下に入ったのでしょうか? 確たる記録はありません。
(3)豊鹿島神社の修理、厳島神社の創建
工藤下総入道 相次ぐ合戦が一段落した時期に、東大和市域でも安定がもたらされたのか、豊鹿島神社の修理が行われ、厳島神社(蔵敷)の創建が伝えられます。
・天文19年(1550)、豊鹿島神社本殿が修理されました。前年の天文18年(1549)の巨大地震の影響と考えられます。このときの大旦那に工藤下総入道の名が記されています。どのような人物なのか不明です。ご教授ください。
・永禄年間(1558~72)、厳島神社(蔵敷村)創建の伝承があります。一説では天文2年(1533)とされます。規模や位置は明らかではありませんが、産土を祀る集落の形成が考えられます。
3北条氏へ大石氏が服属
河越合戦を契機に、関東は上杉氏の支配から北条氏の支配に替わりました。この時、大石氏は北条氏とは戦う方法をとらずに、北条氏康の子息・氏照を養子に迎えることによって領国を継承しました。
氏照への名跡移行 武蔵地域の支配は下記の文書から、当初(1555年)は北条氏康が直接掌握していましたが、1559年頃には北条氏照へと名跡が移ったようです。
1555(弘治元)年4月3日、北条氏康、入間郡の北野天神社(所沢市)に禁制
1559(永禄 2)年11月10日、北條氏照、小宮の三島社(あきる野市)の禰宜職を宮本氏に安堵
氏照は滝山領を治めました。相模の一部(神奈川県座間市周辺)から西多摩、入間郡西南部、高麗郡の一部と考えられます。
東大和地域の領主は氏照か
山口 永禄二年(1559)北条氏の地域支配状況を表す『小田原衆所領役帳』が作成されました。これによれば、
山口平六は山口の内 大かね(所沢市)、藤沢分(入間市)、小野分(北野か?所沢市)を治める他国衆として記され、岩付城太田氏家臣の付記があります。
宮寺 永禄10年(1567)氏照文書に検地の記録があり、宮寺郷(入間市宮寺)は氏照の直轄地である滝山領に編入されていたことがわかります。
東大和市域 以上から、東大和市域は山口氏に接し、滝山領の縁辺にあり、氏照に従ったことが想定されます。狭山杉本家に伝わる『代々之かがみ』二十八代勘解由種繁の項に「当代、天正十八年(1590)七月以前は小田原北条の領であったが、同年七月以降は徳川家の領となる。この改革事務一切に関与したのである。」と貴重な記述が残されています。
1伊勢宗瑞の関東進出
地域領主の変化 15世紀中頃、武蔵野は関東の戦国時代と言われるほど戦乱が続きました。鎌倉公方足利持氏と上杉氏の間の争いが続いた享徳の大乱(1455~1483)は、武蔵の勢力に、これまでとは異なったより広域な地域領主を生む変化をもたらせました。
上杉氏の独壇場 足利持氏亡き後は上杉氏の独壇場となり、山内上杉氏と扇谷上杉氏の有力家臣が力をつけてきました。東大和市周辺の山口氏は規模を縮小し、山内上杉氏の家臣(守護代)大石氏が勢力を増し、扇谷上杉氏の家宰太田道灌などが新たな支配者として登場しました。
大石氏の勢力拡大 この時期、大石氏は高槻(八王子市高月)周辺に本拠を置き、所沢、東久留米周辺まで勢力を伸ばしました。東大和市域は、明確ではありませんが、その支配下にあったことも推測されます。
太田道灌謀殺 やがて、山内上杉氏と扇谷上杉氏の間で対立が生じ、その間に太田道灌が主家の扇谷定正によって謀殺(文明18・1486年7月26日)されます。道灌を失った定正は逆にピンチを招き、戦況打開のため伊豆から相模に勢力を伸ばしてきた伊勢宗瑞(一般的には北条早雲)に接近します。
長享の乱 長享元年(1487)両上杉家の対決が始まりました。18年間にわたり一連の合戦が行われ、長享の乱と呼ばれます。
明応3年(1494)、山内上杉氏は南武蔵関戸へ南下、相模・玉縄城を攻撃、扇谷上杉定正は敗戦を重ね、伊勢宗瑞に応援の要請をしました。宗瑞は時機到来と応じました。
伊勢宗瑞の久米川着陣 明応3年(1494)9月28日、宗瑞は久米川に着陣しました。山内上杉、扇谷上杉氏は合戦を続け、その最中に扇谷定正は荒川渡河中に落馬して死亡しました。宗瑞は2ヶ月にわたって武蔵、相模を転戦して伊豆に戻りました。その経過が「石川忠総留書」に残されています。
長享の乱の終息・大石氏の後退 山内、扇谷両上杉家の対立は続きます。永正元年(1504)、立河原、川越などで合戦を重ね、 永正2年(1505)、山内上杉氏による扇谷上杉氏の川越城総攻撃を機に、扇谷上杉氏からの和議申し入れによって和睦が成立します。長享の乱は終息しました。背景に力を増した伊勢宗瑞、今川氏の関東進出を阻止しようとする上杉側の狙いがありました。長い乱の過程で山口氏、仙波氏は扇谷上杉方として行動したと考えられています。(東村山市史p451)
一方の宗瑞はさらに武蔵進出の機を狙い、永正7年(1510)、武蔵に出陣、椚田要害(八王子市)に籠もる大石氏を攻撃、大石氏は後退を続けます。
2後北条氏の武蔵支配
(1)北条氏綱の江戸城、川越城奪取
氏綱が家督を継ぎ江戸城攻撃 永正15年(1518)伊勢宗瑞は嫡子氏綱に家督を譲ります。大永3年(1523)、氏綱が北条氏を名乗りました。やがて、氏綱は扇谷上杉朝興と対立、大永4年(1524)、氏綱が江戸城を攻撃して朝興は破れ川越城に逃れました。氏綱は江戸城を手中にしました。
川越城奪取 江戸城という武蔵攻略の重要拠点を得た氏綱は、天文6年(1537)、入間郡三木(狭山市)で扇谷上杉朝定軍と戦い勝利します。勢いに乗じて川越城を攻撃して奪取しました。両城を奪われた扇谷上杉氏は武蔵を追われ、松山城に退きます。
(2)河越夜戦 北条氏の武蔵支配
謎の河越夜戦 武蔵を追われた上杉氏は失地回復を図ります。天文15年(1546)、両上杉家は古河公方と共に川越城奪取のため、攻撃を開始しました。両上杉家と公方勢併せて8万余騎と籠城する北条方3千人の対戦とされます。
結果は北条氏康の駿河からの応援、奇襲攻撃により、圧倒的に有利であったはずの上杉・公方方が敗れました。上杉氏は越後に追われました。河越夜戦と呼ばれます。ただし、確実な資料がなく、議論が分かれます。
東大和市域も北条氏へ? 以後、武蔵は北条氏の支配下に入りました。大石氏は北条氏へ服従しました。東大和市域も北条氏の支配下に入ったのでしょうか? 確たる記録はありません。
(3)豊鹿島神社の修理、厳島神社の創建
工藤下総入道 相次ぐ合戦が一段落した時期に、東大和市域でも安定がもたらされたのか、豊鹿島神社の修理が行われ、厳島神社(蔵敷)の創建が伝えられます。
・天文19年(1550)、豊鹿島神社本殿が修理されました。前年の天文18年(1549)の巨大地震の影響と考えられます。このときの大旦那に工藤下総入道の名が記されています。どのような人物なのか不明です。ご教授ください。
・永禄年間(1558~72)、厳島神社(蔵敷村)創建の伝承があります。一説では天文2年(1533)とされます。規模や位置は明らかではありませんが、産土を祀る集落の形成が考えられます。
3北条氏へ大石氏が服属
河越合戦を契機に、関東は上杉氏の支配から北条氏の支配に替わりました。この時、大石氏は北条氏とは戦う方法をとらずに、北条氏康の子息・氏照を養子に迎えることによって領国を継承しました。
氏照への名跡移行 武蔵地域の支配は下記の文書から、当初(1555年)は北条氏康が直接掌握していましたが、1559年頃には北条氏照へと名跡が移ったようです。
1555(弘治元)年4月3日、北条氏康、入間郡の北野天神社(所沢市)に禁制
1559(永禄 2)年11月10日、北條氏照、小宮の三島社(あきる野市)の禰宜職を宮本氏に安堵
氏照は滝山領を治めました。相模の一部(神奈川県座間市周辺)から西多摩、入間郡西南部、高麗郡の一部と考えられます。
東大和地域の領主は氏照か
山口 永禄二年(1559)北条氏の地域支配状況を表す『小田原衆所領役帳』が作成されました。これによれば、
山口平六は山口の内 大かね(所沢市)、藤沢分(入間市)、小野分(北野か?所沢市)を治める他国衆として記され、岩付城太田氏家臣の付記があります。
宮寺 永禄10年(1567)氏照文書に検地の記録があり、宮寺郷(入間市宮寺)は氏照の直轄地である滝山領に編入されていたことがわかります。
東大和市域 以上から、東大和市域は山口氏に接し、滝山領の縁辺にあり、氏照に従ったことが想定されます。狭山杉本家に伝わる『代々之かがみ』二十八代勘解由種繁の項に「当代、天正十八年(1590)七月以前は小田原北条の領であったが、同年七月以降は徳川家の領となる。この改革事務一切に関与したのである。」と貴重な記述が残されています。
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Citation
“大まかな歴史の流れ 中世3,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1677.