大まかな歴史の流れ 中世4
タイトル (Title)
大まかな歴史の流れ 中世4
詳細 (Description)
北条氏康・氏直~徳川家康
1長尾景虎の関東出陣、三田氏の滅亡
長尾景虎の関東出陣 永禄3年(1560)秋、越後の長尾景虎は関東管領山内上杉憲政及び里見義堯・古河公方の子息・足利藤氏などの要請を受け、関東に出陣しました。翌永禄4年(1561)3月、相模に入り、小田原城を囲みます。陥落させることはできず、武田信玄の動向もあり帰国します。その際、3月27日、鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領としての拝賀を行ないます。ここで、上杉憲政より、山内上杉氏の家督を譲られ、長尾景虎の名を上杉謙信と改めます。
鎌倉からの帰途、謙信は武蔵府中六所宮(大国魂神社)に参詣したと伝えられます。このルートを北上すれば、久米川宿を通過したことになり、東大和市域の人々も一行の通過を見たかもしれません。
このとき、忍城主(行田市)成田長康、岩付城主(岩槻市)太田資正、羽生城主(羽生市)・広田式部、勝沼城主(青梅市)三田綱秀、大石岩見守など後北条氏の支配に不満をいだく各地の有力領主が呼応して挙兵しました。
三田氏の滅亡 これに対し、その後、北条氏照は反撃を開始(永禄5年・1562)し、挙兵した諸氏と対戦してついに永禄7年(1564)、武蔵を制覇しました。東大和市周辺では青梅の三田氏が滅び、氏照の滝山領の全域支配が実現しました。
2武田信玄の滝山城攻め・豊鹿島神社本殿修理
信玄が拝島大師に陣をはった 北条氏は武田家と時には同盟を結び、時には対立を繰り返してきました。特に永禄12年(1569)以降は北条氏が上杉謙信と同盟関係を結んだため、北条対武田が徹底的な対立関係に入りました。
永禄12年(1569)信玄は小田原攻めを開始し、その途次、10月2日~3日にわたって滝山城を攻撃しました。信玄は拝島大師(昭島市)に陣を構え城下の村々を焼きました。そして、滝山城は激しい攻撃を受け、氏照は籠城します。二の丸まで攻め込まれましたが死守したとされます。
東大和市域の村人たちも滝山城への召集がかかったかも知れません。
その後、信玄は小田原城に向かい、10月4日~5日、小田原城を包囲、村を焼き払いました。北条氏政は籠城し、対戦は長引こうとしましたが、信玄は10月5日、突如、囲みを解き、帰国しました。背後に、上杉謙信の動きがあったとされます。
室町幕府亡びる 天正元年(1573)4月、武田信玄が上洛作戦中に没しました。同年7月、織田信長が足利義昭を将軍職から追放しました。室町幕府は滅びます。
豊鹿島神社本殿修理・細野主計 北条氏はこの時とばかり領国拡大に動きます。その最中です。天正4年(1576)、豊鹿島神社の本殿が修理されました。棟札の大旦那と思われる位置に 細野主計殿 番丈衆十人御力合と墨書されています。この人物、どのような立場の人なのでしょうか?
3武田氏の滅亡、家臣の来村
北条氏が家康、信長に接触 関東に勢力を伸ばす過程で北条氏は織田信長に鷹を贈り、同時に徳川家康にも年賀の書状や、太刀、馬などを贈り、好みを通じます。
信長・家康が武田攻撃 天正10年(1582)3月、信長・家康軍が武田氏を攻撃、武田家は滅びます。信長は武田家の旧領のうち、駿河を徳川家康に与えます。
武田家旧臣の来村 武田家の滅亡により、家臣は新たな途への歩みを余儀なくされました。多くは帰農したとされます。狭山丘陵周辺の村々には、この時期に来村したとの伝えが多くあります。東大和市内の旧家にも同様に伝わります。
4八王子城の落城
八王子城築城 滝山城を信玄に攻撃された氏照は直ちに滝山城の拡張とともに、より堅固な山城として八王子城の築城に入りました。
天正10年(1582)6月、本能寺の変によって信長が亡くなると、天下は騒動になります。家康は駿河から甲斐へ、北条氏康も甲斐を狙います。
家康・氏康の同盟 督姫と氏直の婚儀 家康と北条氏3ヶ月の対峙の結果、両者は和議を結び、天正11年(1583)、家康の娘督姫と北条氏康の息子氏直との婚儀が整いました。
秀吉の小田原攻撃 家康と北条氏の同盟は秀吉との対立を生みました。秀吉・家康の緊張は、天正12年(1584)3月、小牧・長久手の合戦となり、対陣は長期化、和睦が成立します。これに反し、孤立した北条氏に対し秀吉は 天正14年(1586)、関東惣無事令を発し、秀吉対北条の交戦の危機を迎えました。家康の取りなしで一度は小康を得ましたが沼田領問題(名胡桃城)を契機に秀吉の小田原攻撃となりました。
八王子城落城、小田原城開城 天正18年(1590)、秀吉は氏直の籠もる小田原城を包囲します。八王子城主氏照も小田原に詰めました。
秀吉の元に参加した別働隊に、北条氏は川越城、鉢形城と攻められ、ついに、天正18年6月23日、前田利家・上杉景勝軍の攻撃によって、八王子城が開城しました。ついで、7月5日、小田原城の氏直が投降し、小田原合戦は終わりました。
八王子城に招集された武士や農民は周辺地域に散り、農業に従事しました。狭山丘陵周辺(含む東大和市域)にはこの時点での来村者が多く伝えられます。
5徳川家康の家臣の来村
小田原合戦の最中、家康の関東移封が決まりました。家康は三河に帰国することなく、天正18年(1590)8月、江戸に入ります。
そして、早くも翌、天正19年(1591)、家康の直属家臣が地頭として配属されてきました。その際、一定の区域をもって領地とする村切りが行われたものと考えられます。東大和市域内の配属地には芋窪、奈良橋、高木、後ヶ谷、清水の名称がつけられていました。
1長尾景虎の関東出陣、三田氏の滅亡
長尾景虎の関東出陣 永禄3年(1560)秋、越後の長尾景虎は関東管領山内上杉憲政及び里見義堯・古河公方の子息・足利藤氏などの要請を受け、関東に出陣しました。翌永禄4年(1561)3月、相模に入り、小田原城を囲みます。陥落させることはできず、武田信玄の動向もあり帰国します。その際、3月27日、鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領としての拝賀を行ないます。ここで、上杉憲政より、山内上杉氏の家督を譲られ、長尾景虎の名を上杉謙信と改めます。
鎌倉からの帰途、謙信は武蔵府中六所宮(大国魂神社)に参詣したと伝えられます。このルートを北上すれば、久米川宿を通過したことになり、東大和市域の人々も一行の通過を見たかもしれません。
このとき、忍城主(行田市)成田長康、岩付城主(岩槻市)太田資正、羽生城主(羽生市)・広田式部、勝沼城主(青梅市)三田綱秀、大石岩見守など後北条氏の支配に不満をいだく各地の有力領主が呼応して挙兵しました。
三田氏の滅亡 これに対し、その後、北条氏照は反撃を開始(永禄5年・1562)し、挙兵した諸氏と対戦してついに永禄7年(1564)、武蔵を制覇しました。東大和市周辺では青梅の三田氏が滅び、氏照の滝山領の全域支配が実現しました。
2武田信玄の滝山城攻め・豊鹿島神社本殿修理
信玄が拝島大師に陣をはった 北条氏は武田家と時には同盟を結び、時には対立を繰り返してきました。特に永禄12年(1569)以降は北条氏が上杉謙信と同盟関係を結んだため、北条対武田が徹底的な対立関係に入りました。
永禄12年(1569)信玄は小田原攻めを開始し、その途次、10月2日~3日にわたって滝山城を攻撃しました。信玄は拝島大師(昭島市)に陣を構え城下の村々を焼きました。そして、滝山城は激しい攻撃を受け、氏照は籠城します。二の丸まで攻め込まれましたが死守したとされます。
東大和市域の村人たちも滝山城への召集がかかったかも知れません。
その後、信玄は小田原城に向かい、10月4日~5日、小田原城を包囲、村を焼き払いました。北条氏政は籠城し、対戦は長引こうとしましたが、信玄は10月5日、突如、囲みを解き、帰国しました。背後に、上杉謙信の動きがあったとされます。
室町幕府亡びる 天正元年(1573)4月、武田信玄が上洛作戦中に没しました。同年7月、織田信長が足利義昭を将軍職から追放しました。室町幕府は滅びます。
豊鹿島神社本殿修理・細野主計 北条氏はこの時とばかり領国拡大に動きます。その最中です。天正4年(1576)、豊鹿島神社の本殿が修理されました。棟札の大旦那と思われる位置に 細野主計殿 番丈衆十人御力合と墨書されています。この人物、どのような立場の人なのでしょうか?
3武田氏の滅亡、家臣の来村
北条氏が家康、信長に接触 関東に勢力を伸ばす過程で北条氏は織田信長に鷹を贈り、同時に徳川家康にも年賀の書状や、太刀、馬などを贈り、好みを通じます。
信長・家康が武田攻撃 天正10年(1582)3月、信長・家康軍が武田氏を攻撃、武田家は滅びます。信長は武田家の旧領のうち、駿河を徳川家康に与えます。
武田家旧臣の来村 武田家の滅亡により、家臣は新たな途への歩みを余儀なくされました。多くは帰農したとされます。狭山丘陵周辺の村々には、この時期に来村したとの伝えが多くあります。東大和市内の旧家にも同様に伝わります。
4八王子城の落城
八王子城築城 滝山城を信玄に攻撃された氏照は直ちに滝山城の拡張とともに、より堅固な山城として八王子城の築城に入りました。
天正10年(1582)6月、本能寺の変によって信長が亡くなると、天下は騒動になります。家康は駿河から甲斐へ、北条氏康も甲斐を狙います。
家康・氏康の同盟 督姫と氏直の婚儀 家康と北条氏3ヶ月の対峙の結果、両者は和議を結び、天正11年(1583)、家康の娘督姫と北条氏康の息子氏直との婚儀が整いました。
秀吉の小田原攻撃 家康と北条氏の同盟は秀吉との対立を生みました。秀吉・家康の緊張は、天正12年(1584)3月、小牧・長久手の合戦となり、対陣は長期化、和睦が成立します。これに反し、孤立した北条氏に対し秀吉は 天正14年(1586)、関東惣無事令を発し、秀吉対北条の交戦の危機を迎えました。家康の取りなしで一度は小康を得ましたが沼田領問題(名胡桃城)を契機に秀吉の小田原攻撃となりました。
八王子城落城、小田原城開城 天正18年(1590)、秀吉は氏直の籠もる小田原城を包囲します。八王子城主氏照も小田原に詰めました。
秀吉の元に参加した別働隊に、北条氏は川越城、鉢形城と攻められ、ついに、天正18年6月23日、前田利家・上杉景勝軍の攻撃によって、八王子城が開城しました。ついで、7月5日、小田原城の氏直が投降し、小田原合戦は終わりました。
八王子城に招集された武士や農民は周辺地域に散り、農業に従事しました。狭山丘陵周辺(含む東大和市域)にはこの時点での来村者が多く伝えられます。
5徳川家康の家臣の来村
小田原合戦の最中、家康の関東移封が決まりました。家康は三河に帰国することなく、天正18年(1590)8月、江戸に入ります。
そして、早くも翌、天正19年(1591)、家康の直属家臣が地頭として配属されてきました。その際、一定の区域をもって領地とする村切りが行われたものと考えられます。東大和市域内の配属地には芋窪、奈良橋、高木、後ヶ谷、清水の名称がつけられていました。
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This item has no relations.
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Citation
“大まかな歴史の流れ 中世4,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月14日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1678.