村山党の武士の館
タイトル (Title)
村山党の武士の館
詳細 (Description)
狭山丘陵周辺に本拠を置いた村山党の武士はそれぞれに館を構えたとされます。
その全容は明らかではありませんが、次のように訪ねることができます。
・山口氏の館(山口城 所沢市)山口城の土塁や構えが残されています。山口貯水池に沈んだ部分に根古屋城跡があります。
・久米氏の館跡(大堀山 所沢市)遠望は出来ますが、堀跡などを直接には見ることができなくなりました。
・村山氏の館跡(福正寺周辺 瑞穂町)景観が変わり、専門家の案内を必要とします。寺内に村山土佐守関連の墓石が残されています。
・宮寺氏の西勝院(入間市) 土塁が残されています。
・金子氏一族の宝篋印塔(入間市)木蓮寺地域 かっての瑞泉院(現在閉鎖)の地に金子十郎一族の墓があります。
山口城
山口城の地域は開発が進み、城館跡の景観は見られなくなりました。注意してみると土塁が残されていて、規模などを追うことができます。
説明版に土塁と堀の位置、発掘の状況、土塁と堀跡の見取図が紹介されています。
この地から100メートルぐらい北方に離れますが、山口小学校の南西により原型と思われる姿が残されています。山口城は東大和市と関係が深かったことが考えられますので、所沢市史から、概要を紹介します。
「山口城は、初代家継以来、山口氏の歴代居館として国時代まで利用されたことは事実である。この城は、当初館から出発して、後世に城郭的様相を具備するように改造されたので、規模も拡大されるとともに、土塁や空堀も雄大となった。
測量調査によって、山口城の規模は東西二〇〇メートル、南北二〇〇メートルであり、いちおう多郭式の平山城(館城)であったことがわかった。
城郭は本郭を中心にして、東西の両郭と、東北部の出張部分とがあり、なお南部にも郭の存在が認められる。現在、土塁の残存している箇所は、東部と西部に部分的に確認できるに過ぎないが、試掘溝を入れたところでは、土塁の高さ四メートル、堀の深さ一・九メートルとなっており、この堀は当時水堀であったこともわかった。山口城は、北方が狭山丘陵、南方が柳瀬川に面し、北方から南方にかけて緩傾斜をなしている。
山口城は、室町時代の末期には城郭として大規模な改造が行われて、その規模が拡張されたものの本来が館であったために、山口氏としても別個に本格的な城郭として根古屋城を築かねばならなかった。したがって、戦国時代においては、山口城の城郭としての機能はむしろ根古屋へ移ったと見ることができよう。しかし、鎌倉街道沿いに立地するこの城は、狭山丘陵という天然の要害を利して、その後も存続したのであった。
山口城は背後に丘陵を控え、前方には柳瀬川をめぐらして、比較的に防衛しやすかったと考えられるが、それでも東北方には、梨の木戸、東方には藤の木戸という防御施設を設けていた。」(一部省略 所沢市史中世資料p13)
根古屋城は山口貯水池敷地内に水没せずに残されているため、入間郡の中世の城として完全に保存されることになりました。立ち入り禁止のため、見ることはできません。
大堀山館
久米氏の館と想定されていますが、周辺の開発が進み、道路際から望むだけで、内部は見られません。
所沢市北秋津353-1にあります。400㍍ほど南方に柳瀬川があり左右の地形、山口城と滝の城の中間の位置から見て相当の規模の館があったと思われます。所沢市では単郭方式の館跡と位置づけていますが、詳細は不明のままです。所沢駅下車、東口に出て八雲神社、日月神社方面に進めば道路から画像の景観が見られます。
福正寺
武蔵村山市から瑞穂町にかけては「村山郷」があり、殿ヶ谷戸の地名を残すこともあって、村山氏の郷(さと)として、居館の存在が指摘されてきました。調査の結果村山党の内の金子氏の一族であることがわかり、現在では、村山貫首の系統とは別に考えられています。
福正寺に、村山土佐守一族の墓と伝えられる一隅があり、五輪塔が残されています。また、阿豆佐味天神社には文明14年(1482)に村山土佐守が社殿を修復した記録とともに、天正15年8月22日に没した記録があることから、この時期に活躍した武将であることがわかります。
西勝院
入間市の西勝院は宮寺氏の館跡と伝えられています。現在でもその一部が見られ、また、寺の周囲を流れる川は当時の堀跡とされ、全体として中世武士の館の雰囲気が残されています。
山門前の説明版には次のように記されています。
「・・・村山(平)頼任の子、頼家には四子があり、その二男の家平が宮寺の領主になって宮寺五郎家平と称して、この居館を構えたのである。
すでに八百年以上も昔のことであり、この居館跡の全体遺構を見ることはできないが、西勝院境内南側・東側の土塁と空堀また、山門手前左側土塁の痕跡は明らかに当時の遺構の一部である。さらに西側を流れる溝が館の堀であったと推測され、したがって内側に土塁が構築されていたと考えられ、この溝は西勝院の境内を囲むように西側から北側に流れている。
鎌倉幕府が滅亡(西暦一三三三年)時には、加納下野守が、ここに住んだと伝承され、江戸時代には伊能尾(狩尾)氏が住んだと伝えられている。
昭和五十九年七月 入間市教育委員会 」
木蓮寺
景観は変化していますが、埼玉県入間市の木蓮寺地域に金子十郎家忠の館跡が伝えられます。貴重な資料に、入間市博物館古地図シリーズ5「木蓮寺村絵図」があります。解説で、東京都青梅市の今井城跡との関連も指摘されています。
金龍山木蓮寺瑞泉禅院 金子十郎家忠公之墓所に、金子氏一族の宝篋印塔がまつられています。
東大和市の「宅部」(やけべ)
村山下貯水池の湖底に沈み、下堰堤が築かれている付近に「宅部」(やけべ)と云う地名の地域がありました。東村山駅近くまでの広範な区域を占めます。地名から武士の所領とは違った印象を与えます。そして、この地域には現在のところ、武蔵武士の所領であったと考えられる資料は発見されていません。
これらから、武蔵国府と関係があり、武蔵武士の支配地域とは異なった何らかの条件があったことも推定されます。
宅部郷は1400年代になると、東村山市・正福寺地蔵堂(1407)の棟札に記されます。
その全容は明らかではありませんが、次のように訪ねることができます。
・山口氏の館(山口城 所沢市)山口城の土塁や構えが残されています。山口貯水池に沈んだ部分に根古屋城跡があります。
・久米氏の館跡(大堀山 所沢市)遠望は出来ますが、堀跡などを直接には見ることができなくなりました。
・村山氏の館跡(福正寺周辺 瑞穂町)景観が変わり、専門家の案内を必要とします。寺内に村山土佐守関連の墓石が残されています。
・宮寺氏の西勝院(入間市) 土塁が残されています。
・金子氏一族の宝篋印塔(入間市)木蓮寺地域 かっての瑞泉院(現在閉鎖)の地に金子十郎一族の墓があります。
山口城
山口城の地域は開発が進み、城館跡の景観は見られなくなりました。注意してみると土塁が残されていて、規模などを追うことができます。
説明版に土塁と堀の位置、発掘の状況、土塁と堀跡の見取図が紹介されています。
この地から100メートルぐらい北方に離れますが、山口小学校の南西により原型と思われる姿が残されています。山口城は東大和市と関係が深かったことが考えられますので、所沢市史から、概要を紹介します。
「山口城は、初代家継以来、山口氏の歴代居館として国時代まで利用されたことは事実である。この城は、当初館から出発して、後世に城郭的様相を具備するように改造されたので、規模も拡大されるとともに、土塁や空堀も雄大となった。
測量調査によって、山口城の規模は東西二〇〇メートル、南北二〇〇メートルであり、いちおう多郭式の平山城(館城)であったことがわかった。
城郭は本郭を中心にして、東西の両郭と、東北部の出張部分とがあり、なお南部にも郭の存在が認められる。現在、土塁の残存している箇所は、東部と西部に部分的に確認できるに過ぎないが、試掘溝を入れたところでは、土塁の高さ四メートル、堀の深さ一・九メートルとなっており、この堀は当時水堀であったこともわかった。山口城は、北方が狭山丘陵、南方が柳瀬川に面し、北方から南方にかけて緩傾斜をなしている。
山口城は、室町時代の末期には城郭として大規模な改造が行われて、その規模が拡張されたものの本来が館であったために、山口氏としても別個に本格的な城郭として根古屋城を築かねばならなかった。したがって、戦国時代においては、山口城の城郭としての機能はむしろ根古屋へ移ったと見ることができよう。しかし、鎌倉街道沿いに立地するこの城は、狭山丘陵という天然の要害を利して、その後も存続したのであった。
山口城は背後に丘陵を控え、前方には柳瀬川をめぐらして、比較的に防衛しやすかったと考えられるが、それでも東北方には、梨の木戸、東方には藤の木戸という防御施設を設けていた。」(一部省略 所沢市史中世資料p13)
根古屋城は山口貯水池敷地内に水没せずに残されているため、入間郡の中世の城として完全に保存されることになりました。立ち入り禁止のため、見ることはできません。
大堀山館
久米氏の館と想定されていますが、周辺の開発が進み、道路際から望むだけで、内部は見られません。
所沢市北秋津353-1にあります。400㍍ほど南方に柳瀬川があり左右の地形、山口城と滝の城の中間の位置から見て相当の規模の館があったと思われます。所沢市では単郭方式の館跡と位置づけていますが、詳細は不明のままです。所沢駅下車、東口に出て八雲神社、日月神社方面に進めば道路から画像の景観が見られます。
福正寺
武蔵村山市から瑞穂町にかけては「村山郷」があり、殿ヶ谷戸の地名を残すこともあって、村山氏の郷(さと)として、居館の存在が指摘されてきました。調査の結果村山党の内の金子氏の一族であることがわかり、現在では、村山貫首の系統とは別に考えられています。
福正寺に、村山土佐守一族の墓と伝えられる一隅があり、五輪塔が残されています。また、阿豆佐味天神社には文明14年(1482)に村山土佐守が社殿を修復した記録とともに、天正15年8月22日に没した記録があることから、この時期に活躍した武将であることがわかります。
西勝院
入間市の西勝院は宮寺氏の館跡と伝えられています。現在でもその一部が見られ、また、寺の周囲を流れる川は当時の堀跡とされ、全体として中世武士の館の雰囲気が残されています。
山門前の説明版には次のように記されています。
「・・・村山(平)頼任の子、頼家には四子があり、その二男の家平が宮寺の領主になって宮寺五郎家平と称して、この居館を構えたのである。
すでに八百年以上も昔のことであり、この居館跡の全体遺構を見ることはできないが、西勝院境内南側・東側の土塁と空堀また、山門手前左側土塁の痕跡は明らかに当時の遺構の一部である。さらに西側を流れる溝が館の堀であったと推測され、したがって内側に土塁が構築されていたと考えられ、この溝は西勝院の境内を囲むように西側から北側に流れている。
鎌倉幕府が滅亡(西暦一三三三年)時には、加納下野守が、ここに住んだと伝承され、江戸時代には伊能尾(狩尾)氏が住んだと伝えられている。
昭和五十九年七月 入間市教育委員会 」
木蓮寺
景観は変化していますが、埼玉県入間市の木蓮寺地域に金子十郎家忠の館跡が伝えられます。貴重な資料に、入間市博物館古地図シリーズ5「木蓮寺村絵図」があります。解説で、東京都青梅市の今井城跡との関連も指摘されています。
金龍山木蓮寺瑞泉禅院 金子十郎家忠公之墓所に、金子氏一族の宝篋印塔がまつられています。
東大和市の「宅部」(やけべ)
村山下貯水池の湖底に沈み、下堰堤が築かれている付近に「宅部」(やけべ)と云う地名の地域がありました。東村山駅近くまでの広範な区域を占めます。地名から武士の所領とは違った印象を与えます。そして、この地域には現在のところ、武蔵武士の所領であったと考えられる資料は発見されていません。
これらから、武蔵国府と関係があり、武蔵武士の支配地域とは異なった何らかの条件があったことも推定されます。
宅部郷は1400年代になると、東村山市・正福寺地蔵堂(1407)の棟札に記されます。
権利 (Rights)
狭山丘陵周辺の中世の初期は武蔵七党の時代に当たります。東大和市域には、どのような武士団が定着していたのでしょうか? 残念ですがはっきりしません。
武蔵七党
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵しました。この挙兵に武蔵七党の面々が加わっています。何が武蔵七党か、については諸説あります。
「武蔵七党系図」(『続群書類従』第四輯上)では、野与・村山・横山・猪俣・西・児玉・丹
『節用集』(日本古典全集)では、丹治・私市・児玉・猪股・西野・横山・村山
の七党としています。
『大和町史』では、第一説として横山、猪俣、野与、村山、児玉、丹、西党をあげて、二説、三説として、綴(つづき)、私市(きさいち)を加える説を紹介しています(p125)。そして、「村山党は北多摩郡村山・狭山・久米川・山口・野口にかけて、狭山丘陵を控えた地を領し、この一族は村山・大井・山口・金子・宮寺・広屋・須黒・仙波・荒波多・久米・難波田の諸氏に分れている。」(p127)としています。
これらに基づき、狭山丘陵周辺の同族的な武士団(山口、荒幡、久米、宮寺、金子氏など)をあげてみます。
問題は村山党の本拠はどこにあるのかです。山口氏か、それとも南麓の村山地域に村山氏が拠点を構えていたのか、これにも諸説があり、確定できません。
建久元年(1190)11月7日、頼朝は京都に入ります。この時の先陣として、山口小七郎(=家継)・仙波次郎・山口次郎兵衛尉・金子小太郎、後陣に、金子十郎・仙波平太・山口小次郎らが供奉しています。
承久3年(1221)、承久の乱が起きます。その際、狭山丘陵周辺では、村山党の武士として、金子・宮寺・勝呂・山口・仙波・久米氏などの名が記されて、参戦しています。いずれも狭山丘陵北麓地域で、東大和市が位置する南麓地域については確認できません。
村山党に属したのか?
武蔵七党の武士団に属し、狭山丘陵周辺に拠点を置いたのが「村山党」でした。村山党の系図があり、党祖=貫首からそれぞれに分派し、近接地域に棲み分けたことがわかります。
村山党は秩父氏一族と火奉氏(日奉氏)一族が構成した武士団の空白地=狭山丘陵周辺に拠点を置きました。村山貫首を除いては、分出した一族の所在はほぼ推測できます。ところが肝心の党祖=村山貫首の拠点が不明です。
東村山市史は次のように説明します。
「・・・、系図によればこの「村山貫首」という名乗りは頼家までで、その子孫は名乗っていない。村山党は、頼家の後四家に分立したようだが、その名乗りを見ると、大井・宮寺・金子・山口であった。そして、その四家のなかからさらに難波田・仙波・須黒・久米・荒波多・広屋氏などの諸氏が分立していった。これらの名乗りの地名からも明らかなように、村山党は狭山丘陵周辺を拠点にしつつ、川越・児玉方面に勢力を拡大していったことがわかる。
と同時に注目しなければならないのは、山口家継が一時「村山小七郎」と名乗っていたようだが、後に「山口七郎」に変えているように、実は「村山」を名乗るのは頼任と頼家の二代だけであって、その後は「村山」を名乗る家がなくなっていることである。このことから、本来的に村山党などというまとまった同族的な武士団は存在せず、「村山地方を中心として分布していた小武士団の諸氏が、頼任・頼家という共通の祖先から出たと称して団結を強めたとみる方がよさそうである」という評価も可能になる(『東村山市史』・一九七一、一八八頁)。」(東村山市史上p363)
この時代の東大和市域の人々は、村山党の山口氏に属していたのでしょうか?
それとも、別に村山氏が地域を定めて統治し、そこに属していたのでしょうか?
武蔵七党
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵しました。この挙兵に武蔵七党の面々が加わっています。何が武蔵七党か、については諸説あります。
「武蔵七党系図」(『続群書類従』第四輯上)では、野与・村山・横山・猪俣・西・児玉・丹
『節用集』(日本古典全集)では、丹治・私市・児玉・猪股・西野・横山・村山
の七党としています。
『大和町史』では、第一説として横山、猪俣、野与、村山、児玉、丹、西党をあげて、二説、三説として、綴(つづき)、私市(きさいち)を加える説を紹介しています(p125)。そして、「村山党は北多摩郡村山・狭山・久米川・山口・野口にかけて、狭山丘陵を控えた地を領し、この一族は村山・大井・山口・金子・宮寺・広屋・須黒・仙波・荒波多・久米・難波田の諸氏に分れている。」(p127)としています。
これらに基づき、狭山丘陵周辺の同族的な武士団(山口、荒幡、久米、宮寺、金子氏など)をあげてみます。
問題は村山党の本拠はどこにあるのかです。山口氏か、それとも南麓の村山地域に村山氏が拠点を構えていたのか、これにも諸説があり、確定できません。
建久元年(1190)11月7日、頼朝は京都に入ります。この時の先陣として、山口小七郎(=家継)・仙波次郎・山口次郎兵衛尉・金子小太郎、後陣に、金子十郎・仙波平太・山口小次郎らが供奉しています。
承久3年(1221)、承久の乱が起きます。その際、狭山丘陵周辺では、村山党の武士として、金子・宮寺・勝呂・山口・仙波・久米氏などの名が記されて、参戦しています。いずれも狭山丘陵北麓地域で、東大和市が位置する南麓地域については確認できません。
村山党に属したのか?
武蔵七党の武士団に属し、狭山丘陵周辺に拠点を置いたのが「村山党」でした。村山党の系図があり、党祖=貫首からそれぞれに分派し、近接地域に棲み分けたことがわかります。
村山党は秩父氏一族と火奉氏(日奉氏)一族が構成した武士団の空白地=狭山丘陵周辺に拠点を置きました。村山貫首を除いては、分出した一族の所在はほぼ推測できます。ところが肝心の党祖=村山貫首の拠点が不明です。
東村山市史は次のように説明します。
「・・・、系図によればこの「村山貫首」という名乗りは頼家までで、その子孫は名乗っていない。村山党は、頼家の後四家に分立したようだが、その名乗りを見ると、大井・宮寺・金子・山口であった。そして、その四家のなかからさらに難波田・仙波・須黒・久米・荒波多・広屋氏などの諸氏が分立していった。これらの名乗りの地名からも明らかなように、村山党は狭山丘陵周辺を拠点にしつつ、川越・児玉方面に勢力を拡大していったことがわかる。
と同時に注目しなければならないのは、山口家継が一時「村山小七郎」と名乗っていたようだが、後に「山口七郎」に変えているように、実は「村山」を名乗るのは頼任と頼家の二代だけであって、その後は「村山」を名乗る家がなくなっていることである。このことから、本来的に村山党などというまとまった同族的な武士団は存在せず、「村山地方を中心として分布していた小武士団の諸氏が、頼任・頼家という共通の祖先から出たと称して団結を強めたとみる方がよさそうである」という評価も可能になる(『東村山市史』・一九七一、一八八頁)。」(東村山市史上p363)
この時代の東大和市域の人々は、村山党の山口氏に属していたのでしょうか?
それとも、別に村山氏が地域を定めて統治し、そこに属していたのでしょうか?
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“村山党の武士の館,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1680.