大まかな歴史の流れ 近世2
タイトル (Title)
大まかな歴史の流れ 近世2
詳細 (Description)
1玉川上水・野火止用水の開削、細長い村
江戸市中の整備・家臣団の集住 江戸市中の整備が進むにつれ家臣団が江戸に集住するようになりました。
・元和2年(1616)、駿府詰めの家臣団が江戸に移住、神田台を開拓、駿河台と称しました。
・寛永元年(1624)、諸大名が妻子を江戸に置くようになりました。
・寛永2年(1625)、下級武士団・地頭に対して、江戸の屋敷割りが実施されました。
・寛永12年(1635)、3代将軍家光は各大名に参勤交代を義務付けました。
江戸市街地の拡大・水不足 市街地が拡大しました。入り江であった日比谷の埋め立てが終わり、一挙に築地、八丁堀、霊厳島、日比谷、新橋、芝口、四谷、麹町、赤坂、青山が市街地になりました。急速に人口増となり、従前の溜池、神田上水による給水能力に問題が出てきました。
本百姓自立策 幕府開設後50年を経て、幕府は本百姓の育成と財政基盤確立のための施策が求められます。年貢を負担する自立農民の育成、検地の強化による農地の把握、新たな農耕地の開発に向かいます。
松平信綱の老中就任 家光は寛永10年(1633)、松平信綱を老中に任じ、寛永16年(1639)、武蔵川越藩に加増、移封しました。さらに正保4年(1647)、15000石を加増、この時、野火止の地が含まれました。信綱は江戸市中の水不足と野火が止まらないほどの武蔵野の原野=無限の新田開発可能な地を前にしました。
玉川兄弟の申し出 承応元年(1652)12月25日、庄右衛門と清右衛門兄弟が羽村から四谷大木戸までの上水道敷設を申し出ました。飲料水不足に追われる幕府はこれを承認し、松平信綱が上水奉行となって工事が進められることになりました。
突貫工事、工事費の不足は立て替え 工事は
承応2年(1653年)4月 4日、工事開始
同年 11月15日、四谷大木戸まで掘り上げ
承応3年(1654年)6月、四谷から虎ノ門まで埋設、関連工事すべて終了・完成
の突貫工事でした。途中工事費が不足する問題が生じましたが、玉川兄弟が私財をなげうって完成したとされます。
野火止用水の開削、分水(三分の一)は褒美 玉川上水の工事が終わると、その翌年の明暦元年(承応4年・1655年)信綱は野火止用水の開削に着工しました。玉川上水から貴重な用水の三分の一が分水されました。玉川上水工事を完成させた恩賞として信綱に与えられています。工事も突貫工事です。
承応4年(明暦元年・1655年)2月10日着工
同年 3月20日完成
ルートはどのようにして決まったのか 野火止用水は玉川上水から都立東大和南高校の南付近から分水されました。まさにこの地点は玉川・野火止両用水が自然流下で目的地まで流れ、国分寺崖線による阻害要因が解消される最適点です。どのようにして決めたのか最大の興味を引きます。
まさに知恵伊豆 信綱は、承応2年(1653)、自らの領地である野火止を新田用地として指定、川越領内から54世帯を移住させています。玉川上水の開削を決定したのが承応2年(1653)1月でした。この移住は、野火止用水の開削に先立つ2年前です。まるで、野火止用水敷設を見越しているかのような手際よさです。
もちろん老中として、幕府財政強化のための新たな農耕地の開発を目指す先行的事業であったとも考えられます。事の詮索は別にして「知恵伊豆」の名が響き「伊豆殿堀」と呼ばれます。しかし、東大和市域では、村人たちが用水の保全にかり出されても、一滴の水も利用は許されませんでした。
2新田開発・細長い村の成立
小川村の成立 玉川上水、野火止用水開削の経過をつぶさに見て、行動を起こしたのが、岸村(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛です。野火止用水が開通した翌年の明暦2年(1656)、早速、動きを始めます。幕府代官今井八郎左衛門に、遙かに離れた地(現小平市)に新天地を求めて、新田開発の願いを出しました。
「石灰を運ぶ道である江戸への往還は、箱根が崎から田無まで五里にも及ぶが、全くの荒野で、人馬は寒暑風雨の節、飲水に至極難渋し、行倒れて死ぬ者も多い。ついては、途中に「石灰御伝馬継」と「往還の人馬を救う」ために自費をもって新田を取立てたい」との内容でした。
この願い出は直ちに聞き届けられ、時の老中松平信綱から西は玉川上水と野火止用水との分水口の地点から、東は田無村に至る地域を開発するようにとの命令を受けました。入墾者は明歴2年(1656)47名、明暦3年11名、明暦4年10名と続き、幾多の困難を経て小川村(現小平市)が開かれました。
併せて、石灰を運ぶ道が新しく作られました。東大和市内では桜街道と呼ばれる、モノレール桜街道駅の南、ヤオコー、イトーヨーカドーの前を経て青梅橋を通過するルートです。
東大和市域の村人たちの一斉開墾 東大和市域の村人たちも一斉に動き出しました。狭山丘陵の中と麓の旧村を親村として、南に広がる武蔵野の荒野の新田開発です。高木村に残された古文書に次のような地名が記されています。
寛文9年(1669)に、奈良橋境 街道内 街道向 中原
延宝2年(1674)に、中南奈良橋境 堀端 中原 堀際 後ヶ谷戸境
新田開発が徐々に進んで行く状況を表しています。延宝2年には堀際の地名が出てきます。野火止用水が開鑿されて20年後にはその堀際まで開墾が進んだことを示します。この状況は各村共通しています。
細長い・政争の激しい村の成立 絶え間ない努力の結果、東大和市域の村々は延宝期(1673~1680)には、野火止用水際まで新田として耕地を広げました。境界部分の開発は様々に問題があったようです。
その結果、縦に細長い境界の複雑に入り込む村ができました。この過程は自立性の高い政争の激しい村として後々まで影響を与えたようです。また、新田と云っても水田は全くなく、全てが畑でした。赤土の上に僅かに乗る黒土では生産力は低く、ほとんどが下下畑にランク付けされました。
江戸市中の整備・家臣団の集住 江戸市中の整備が進むにつれ家臣団が江戸に集住するようになりました。
・元和2年(1616)、駿府詰めの家臣団が江戸に移住、神田台を開拓、駿河台と称しました。
・寛永元年(1624)、諸大名が妻子を江戸に置くようになりました。
・寛永2年(1625)、下級武士団・地頭に対して、江戸の屋敷割りが実施されました。
・寛永12年(1635)、3代将軍家光は各大名に参勤交代を義務付けました。
江戸市街地の拡大・水不足 市街地が拡大しました。入り江であった日比谷の埋め立てが終わり、一挙に築地、八丁堀、霊厳島、日比谷、新橋、芝口、四谷、麹町、赤坂、青山が市街地になりました。急速に人口増となり、従前の溜池、神田上水による給水能力に問題が出てきました。
本百姓自立策 幕府開設後50年を経て、幕府は本百姓の育成と財政基盤確立のための施策が求められます。年貢を負担する自立農民の育成、検地の強化による農地の把握、新たな農耕地の開発に向かいます。
松平信綱の老中就任 家光は寛永10年(1633)、松平信綱を老中に任じ、寛永16年(1639)、武蔵川越藩に加増、移封しました。さらに正保4年(1647)、15000石を加増、この時、野火止の地が含まれました。信綱は江戸市中の水不足と野火が止まらないほどの武蔵野の原野=無限の新田開発可能な地を前にしました。
玉川兄弟の申し出 承応元年(1652)12月25日、庄右衛門と清右衛門兄弟が羽村から四谷大木戸までの上水道敷設を申し出ました。飲料水不足に追われる幕府はこれを承認し、松平信綱が上水奉行となって工事が進められることになりました。
突貫工事、工事費の不足は立て替え 工事は
承応2年(1653年)4月 4日、工事開始
同年 11月15日、四谷大木戸まで掘り上げ
承応3年(1654年)6月、四谷から虎ノ門まで埋設、関連工事すべて終了・完成
の突貫工事でした。途中工事費が不足する問題が生じましたが、玉川兄弟が私財をなげうって完成したとされます。
野火止用水の開削、分水(三分の一)は褒美 玉川上水の工事が終わると、その翌年の明暦元年(承応4年・1655年)信綱は野火止用水の開削に着工しました。玉川上水から貴重な用水の三分の一が分水されました。玉川上水工事を完成させた恩賞として信綱に与えられています。工事も突貫工事です。
承応4年(明暦元年・1655年)2月10日着工
同年 3月20日完成
ルートはどのようにして決まったのか 野火止用水は玉川上水から都立東大和南高校の南付近から分水されました。まさにこの地点は玉川・野火止両用水が自然流下で目的地まで流れ、国分寺崖線による阻害要因が解消される最適点です。どのようにして決めたのか最大の興味を引きます。
まさに知恵伊豆 信綱は、承応2年(1653)、自らの領地である野火止を新田用地として指定、川越領内から54世帯を移住させています。玉川上水の開削を決定したのが承応2年(1653)1月でした。この移住は、野火止用水の開削に先立つ2年前です。まるで、野火止用水敷設を見越しているかのような手際よさです。
もちろん老中として、幕府財政強化のための新たな農耕地の開発を目指す先行的事業であったとも考えられます。事の詮索は別にして「知恵伊豆」の名が響き「伊豆殿堀」と呼ばれます。しかし、東大和市域では、村人たちが用水の保全にかり出されても、一滴の水も利用は許されませんでした。
2新田開発・細長い村の成立
小川村の成立 玉川上水、野火止用水開削の経過をつぶさに見て、行動を起こしたのが、岸村(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛です。野火止用水が開通した翌年の明暦2年(1656)、早速、動きを始めます。幕府代官今井八郎左衛門に、遙かに離れた地(現小平市)に新天地を求めて、新田開発の願いを出しました。
「石灰を運ぶ道である江戸への往還は、箱根が崎から田無まで五里にも及ぶが、全くの荒野で、人馬は寒暑風雨の節、飲水に至極難渋し、行倒れて死ぬ者も多い。ついては、途中に「石灰御伝馬継」と「往還の人馬を救う」ために自費をもって新田を取立てたい」との内容でした。
この願い出は直ちに聞き届けられ、時の老中松平信綱から西は玉川上水と野火止用水との分水口の地点から、東は田無村に至る地域を開発するようにとの命令を受けました。入墾者は明歴2年(1656)47名、明暦3年11名、明暦4年10名と続き、幾多の困難を経て小川村(現小平市)が開かれました。
併せて、石灰を運ぶ道が新しく作られました。東大和市内では桜街道と呼ばれる、モノレール桜街道駅の南、ヤオコー、イトーヨーカドーの前を経て青梅橋を通過するルートです。
東大和市域の村人たちの一斉開墾 東大和市域の村人たちも一斉に動き出しました。狭山丘陵の中と麓の旧村を親村として、南に広がる武蔵野の荒野の新田開発です。高木村に残された古文書に次のような地名が記されています。
寛文9年(1669)に、奈良橋境 街道内 街道向 中原
延宝2年(1674)に、中南奈良橋境 堀端 中原 堀際 後ヶ谷戸境
新田開発が徐々に進んで行く状況を表しています。延宝2年には堀際の地名が出てきます。野火止用水が開鑿されて20年後にはその堀際まで開墾が進んだことを示します。この状況は各村共通しています。
細長い・政争の激しい村の成立 絶え間ない努力の結果、東大和市域の村々は延宝期(1673~1680)には、野火止用水際まで新田として耕地を広げました。境界部分の開発は様々に問題があったようです。
その結果、縦に細長い境界の複雑に入り込む村ができました。この過程は自立性の高い政争の激しい村として後々まで影響を与えたようです。また、新田と云っても水田は全くなく、全てが畑でした。赤土の上に僅かに乗る黒土では生産力は低く、ほとんどが下下畑にランク付けされました。
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Citation
“大まかな歴史の流れ 近世2,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年10月15日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1691.