大まかな歴史の流れ 近世3
タイトル (Title)
大まかな歴史の流れ 近世3
詳細 (Description)
生産性の低い新田 農間稼ぎ
1 空堀川までが日常生活圏
早くに済ませた新田開発 一般的に大々的な武蔵野の新田開発は享保7年(1722)、江戸日本橋高札場に掲げられた武蔵野新田開発奨励のお触れ以降急速に進んだとされます。
しかし、東大和市域内では承応4年(1655)、野火止用水完成後間もなくから開墾が始められ延宝期(1673~1680) には、ほぼ、野火止用水際まで開発が終わっていました。
野火止用水際までは狭山丘陵の麓を親村とする切添、持添による新田開発でした。
日常生活圏は空堀川周辺まで 奈良橋村に残されている古図を見ると、集落は村山貯水池に沈んだ地域と狭山丘陵の麓、村山道(現・青梅街道)に沿って形成され、以南はすべて畑であることがわかります。
ほぼ中央に地頭屋敷、小高いところに神社と寺が位置し、谷ッを中心に集落が形成されていました。この図は年代不明ですが、蔵敷村が分離する前であることから正徳年中(1711~16)以前と考えられています。
空堀川以南は全て畑 東大和市には「神棚にゴボウがまける」との伝承がありますが、ひとたび風が吹くと新田開発による赤土が舞い上がり村人たちを苦しませました。
江戸時代末の地誌『新編武蔵風土記稿』では「土性は野土なれば土輕きゆへ、田間に字津木を植て風除などせり、陸田多く水田はわずかに北方山よりの所に開き、そこの清水を引て用水となせり、」としています。この状況は昭和13年(1938)、南部に東京ガス電気工業(株)が工場立地をするまで続いています。
図は昭和13年(1938)の大和村図です。昭和2年(1927)に村山貯水池が完成してその区域が水没しました。江戸、明治時代には古くからの集落がありました。以後、新田開発した地域は昭和13年(1938)まで全面が畑でした。作物の種類は変わりましたが、景観としては江戸時代の姿がそのまま残っていました。
2 山口領の悪米・80%が飢え人
生産性の低い新田 武蔵野を開発した新田は黒土が少なく、すぐ赤土になるため、作物の実りは極めて低かったことが伝わります。奈良橋村に寛永年間(1624~44)の資料が残されています。
水田は少なく、ほとんどが畑でした。貴重な水田も下田が58%、畑では下々畑が60%近くを占め、その生産性の低さが読み取れます。他の村もほぼ同じ傾向であったと推定されます。
零細な経営規模 同じ時期、奈良橋村の田畑の所有状況は次の表の通りです。かっての農家の方々に聞くと「三反では食うがやっとだったんべー」と教えて貰いました。
それが、江戸時代初期、奈良橋村では、3反以下が58.4% 4反以下で73.8%でした。うち、1反以下では7人中5人が無屋敷、2反の耕作者も9人中3人が無屋敷でした。どのようにして生活していたのか気になります。
粟・稗・芋が主要作物 残念ですが、現在のところ農産物に関しての江戸初期の統計数値がありません。やむを得ず、文政4年(1821)の資料を紹介します。
図は文化14年(1817)から起こった、大干ばつの影響を受けて、その対応のため、蔵敷村の被害状況を提出したものです。
ここから蔵敷村農作物の作付状況がわかります。稗、粟、芋が主食でした。米は水田がなかったため、畑で収穫する陸稲・岡穂を植えています。最も干害を受けやすい作物で、当時の生産力としては危険作物とされ、作付面積は非常に少なかったことがわかります。
以上のような状況から、東大和市周辺の村々からの米は「山口領の悪米」と位置づけられ、年貢は現物では納められず何らかの代替え措置(代替え品、金納)を求められました。
人口減 時代が下がりますが天明の時代の様子です。天明2年(1782)4月の大地震、天明3年(1783)の浅間山の噴火、豪雨など、天明時代に入ると、全国的に異常気象による自然災害が発生して、それが原因となって凶作が続きます。また、浅間山の噴火による灰は、数年にわたっての作柄に影響を与えました。
安永7年(1778)には蔵敷村の家数は57戸、人口は250人でした。それが、飢饉後の天明7年(1787)になると、家数は余り変わりませんが人口が減ってきて、天明8年(1788)には210人となります。以後、取り戻せずに210人台で推移し、寛政8年(1796)の飢饉で最低の201人となります。その間の出生死亡関係が明らかではありませんが、村内から村外へ働きに出かけた村人達が多く、一時的に凌いだことが推測できます。明治までに家数はさほど変化しないのに人口は急速に増加へと転じています。データーが不そろいのことお許しください。
藁餅作法 天明の飢饉は、米価の高騰、打ち壊しなど様々な現象が起こります。そのとき、東大和市域の村々に幕府から次の伝達がされています。
・天明三年十月三日、「米穀高直」につき食糧の「足合」として「藁餅」の作り方の触達。
内容は代用食として 藁餅 ところ餅 田螺の貯蔵奨励でした
藁を半日水に浸してゴミを洗い落とす。穂先の部分は切り落とし細かく裂いて干す。
乾燥したものを臼にかけて粉状にする。
藁粉と葛粉や蕨粉(ワラビの根茎からとった粉)、小麦粉などを練りあわせ餅状にして蒸す。
茹でて塩や味噌などをつけて食べる。
そして、同年五月、何かよくない影響がでたのか、
・凶年時の食あたり、およびその後の疫病流行に備え妙薬の製法につき触書
80%が飢え人 東大和市域の村々では、飢饉に落ちいると一気に飢え人が出ました。天保8年(1837)の例です。
天保6年(1835)から天候不順が続き、作物被害が続発して物価が高騰しました。その影響から抜け出せない状況で天保7年(1836)は冷害となり、表のような飢の状況を来しました。また、藁餅を食べたのでしょうか。
3農間稼ぎ
狭山丘陵南麓の村々は、紹介したとおり米の生産が極めて低く、また、地味が悪かったため多くの肥料を必要としました。そのため、年貢を納めるにも、肥料を得るにも独特の稼ぎが必要でした。そこで行われたのが農業の合間に養蚕や機織りとともに馬で品物を江戸市中まで運んで稼ぐ駄賃稼ぎです。天保14年(1843)の清水村の村明細です。
「当村は古来より極めて困窮の村で
・それぞれに持山並びに畔木等を伐って、炭や薪にして、馬で運んだり、河岸に出し、
・或は八王子、五日市、青梅、飯能等へ行って、炭薪を買入れ、馬で江戸表へ運んで、
・御屋敷様方へ納入します
・そこで得た「駄賃」で御年貢を納めています
・馬で運ぶ方法は、夜の四ッ時(午後10時)に出発し、次の夜の五ッ時(午後8時)前後に帰宅します、
・女は農業の間に木綿縞を織出し、養蚕を営んでいます
・誠に難渋の村方に御座います」
主に外神田、番町、外桜田方面に出かけ、途中の内藤新宿で妨害に遭うなど難儀な稼ぎでした。よもやま話に「火をふところに入れた法印さん」が伝わります。
1 空堀川までが日常生活圏
早くに済ませた新田開発 一般的に大々的な武蔵野の新田開発は享保7年(1722)、江戸日本橋高札場に掲げられた武蔵野新田開発奨励のお触れ以降急速に進んだとされます。
しかし、東大和市域内では承応4年(1655)、野火止用水完成後間もなくから開墾が始められ延宝期(1673~1680) には、ほぼ、野火止用水際まで開発が終わっていました。
野火止用水際までは狭山丘陵の麓を親村とする切添、持添による新田開発でした。
日常生活圏は空堀川周辺まで 奈良橋村に残されている古図を見ると、集落は村山貯水池に沈んだ地域と狭山丘陵の麓、村山道(現・青梅街道)に沿って形成され、以南はすべて畑であることがわかります。
ほぼ中央に地頭屋敷、小高いところに神社と寺が位置し、谷ッを中心に集落が形成されていました。この図は年代不明ですが、蔵敷村が分離する前であることから正徳年中(1711~16)以前と考えられています。
空堀川以南は全て畑 東大和市には「神棚にゴボウがまける」との伝承がありますが、ひとたび風が吹くと新田開発による赤土が舞い上がり村人たちを苦しませました。
江戸時代末の地誌『新編武蔵風土記稿』では「土性は野土なれば土輕きゆへ、田間に字津木を植て風除などせり、陸田多く水田はわずかに北方山よりの所に開き、そこの清水を引て用水となせり、」としています。この状況は昭和13年(1938)、南部に東京ガス電気工業(株)が工場立地をするまで続いています。
図は昭和13年(1938)の大和村図です。昭和2年(1927)に村山貯水池が完成してその区域が水没しました。江戸、明治時代には古くからの集落がありました。以後、新田開発した地域は昭和13年(1938)まで全面が畑でした。作物の種類は変わりましたが、景観としては江戸時代の姿がそのまま残っていました。
2 山口領の悪米・80%が飢え人
生産性の低い新田 武蔵野を開発した新田は黒土が少なく、すぐ赤土になるため、作物の実りは極めて低かったことが伝わります。奈良橋村に寛永年間(1624~44)の資料が残されています。
水田は少なく、ほとんどが畑でした。貴重な水田も下田が58%、畑では下々畑が60%近くを占め、その生産性の低さが読み取れます。他の村もほぼ同じ傾向であったと推定されます。
零細な経営規模 同じ時期、奈良橋村の田畑の所有状況は次の表の通りです。かっての農家の方々に聞くと「三反では食うがやっとだったんべー」と教えて貰いました。
それが、江戸時代初期、奈良橋村では、3反以下が58.4% 4反以下で73.8%でした。うち、1反以下では7人中5人が無屋敷、2反の耕作者も9人中3人が無屋敷でした。どのようにして生活していたのか気になります。
粟・稗・芋が主要作物 残念ですが、現在のところ農産物に関しての江戸初期の統計数値がありません。やむを得ず、文政4年(1821)の資料を紹介します。
図は文化14年(1817)から起こった、大干ばつの影響を受けて、その対応のため、蔵敷村の被害状況を提出したものです。
ここから蔵敷村農作物の作付状況がわかります。稗、粟、芋が主食でした。米は水田がなかったため、畑で収穫する陸稲・岡穂を植えています。最も干害を受けやすい作物で、当時の生産力としては危険作物とされ、作付面積は非常に少なかったことがわかります。
以上のような状況から、東大和市周辺の村々からの米は「山口領の悪米」と位置づけられ、年貢は現物では納められず何らかの代替え措置(代替え品、金納)を求められました。
人口減 時代が下がりますが天明の時代の様子です。天明2年(1782)4月の大地震、天明3年(1783)の浅間山の噴火、豪雨など、天明時代に入ると、全国的に異常気象による自然災害が発生して、それが原因となって凶作が続きます。また、浅間山の噴火による灰は、数年にわたっての作柄に影響を与えました。
安永7年(1778)には蔵敷村の家数は57戸、人口は250人でした。それが、飢饉後の天明7年(1787)になると、家数は余り変わりませんが人口が減ってきて、天明8年(1788)には210人となります。以後、取り戻せずに210人台で推移し、寛政8年(1796)の飢饉で最低の201人となります。その間の出生死亡関係が明らかではありませんが、村内から村外へ働きに出かけた村人達が多く、一時的に凌いだことが推測できます。明治までに家数はさほど変化しないのに人口は急速に増加へと転じています。データーが不そろいのことお許しください。
藁餅作法 天明の飢饉は、米価の高騰、打ち壊しなど様々な現象が起こります。そのとき、東大和市域の村々に幕府から次の伝達がされています。
・天明三年十月三日、「米穀高直」につき食糧の「足合」として「藁餅」の作り方の触達。
内容は代用食として 藁餅 ところ餅 田螺の貯蔵奨励でした
藁を半日水に浸してゴミを洗い落とす。穂先の部分は切り落とし細かく裂いて干す。
乾燥したものを臼にかけて粉状にする。
藁粉と葛粉や蕨粉(ワラビの根茎からとった粉)、小麦粉などを練りあわせ餅状にして蒸す。
茹でて塩や味噌などをつけて食べる。
そして、同年五月、何かよくない影響がでたのか、
・凶年時の食あたり、およびその後の疫病流行に備え妙薬の製法につき触書
80%が飢え人 東大和市域の村々では、飢饉に落ちいると一気に飢え人が出ました。天保8年(1837)の例です。
天保6年(1835)から天候不順が続き、作物被害が続発して物価が高騰しました。その影響から抜け出せない状況で天保7年(1836)は冷害となり、表のような飢の状況を来しました。また、藁餅を食べたのでしょうか。
3農間稼ぎ
狭山丘陵南麓の村々は、紹介したとおり米の生産が極めて低く、また、地味が悪かったため多くの肥料を必要としました。そのため、年貢を納めるにも、肥料を得るにも独特の稼ぎが必要でした。そこで行われたのが農業の合間に養蚕や機織りとともに馬で品物を江戸市中まで運んで稼ぐ駄賃稼ぎです。天保14年(1843)の清水村の村明細です。
「当村は古来より極めて困窮の村で
・それぞれに持山並びに畔木等を伐って、炭や薪にして、馬で運んだり、河岸に出し、
・或は八王子、五日市、青梅、飯能等へ行って、炭薪を買入れ、馬で江戸表へ運んで、
・御屋敷様方へ納入します
・そこで得た「駄賃」で御年貢を納めています
・馬で運ぶ方法は、夜の四ッ時(午後10時)に出発し、次の夜の五ッ時(午後8時)前後に帰宅します、
・女は農業の間に木綿縞を織出し、養蚕を営んでいます
・誠に難渋の村方に御座います」
主に外神田、番町、外桜田方面に出かけ、途中の内藤新宿で妨害に遭うなど難儀な稼ぎでした。よもやま話に「火をふところに入れた法印さん」が伝わります。
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Citation
“大まかな歴史の流れ 近世3,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年12月4日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1692.