大まかな歴史の流れ 近世4
タイトル (Title)
大まかな歴史の流れ 近世4
詳細 (Description)
荒れる村
1踏んだり蹴ったりお犬様
狭山丘陵周辺の生類憐れみの令 延宝8年(1680)8月、五代将軍に綱吉が就任します。武蔵野開発に力を入れた三代将軍家光の四男です。放漫になりかけていた幕制改革に着手しました。一方で、生類憐れみの令により、犬猫の緊縛禁止、殺傷禁止令を出します。東大和市域の村々にとって喜ばしかったことは、鷹場が廃止(元禄6年・1693)されたことでした。鷹場指定により、猛烈な規制がかけられて、幕府と領主と尾張家(鷹場)などの多重支配に悩まされていたことから解放されました。
お犬小屋 ところが、綱吉将軍、犬公方と呼ばれるように、犬を大切にするあまり、忖度も重なって、江戸市中に野良犬があふれ、元禄8年(1695)、公設の「御囲=御犬小屋」が四谷・大久保に作られました。あっという間に不足して、引き続いて中野に作られました。建設費は諸大名に賦課され、武蔵野の村からは建設材料や大豆、藁、菰(こも) などが集められました。
お犬様のお預かり 中野の犬小屋も満杯になり、元禄12年(1699)頃から、収容しきれなくなった犬を江戸周辺の村々に預ける方策がとられました。養育金を支給するとのことで、疲弊にあえぐ村々からは賛意が表されたことも考えられます。それもそのはず、養育金は「奉公人の一年の給金に等しかった」(武蔵村山市史 上p751)と云うのですから。東大和市域では芋窪村の人々が参加していました。
養育金の後始末 その喜びも束の間、宝永6年(1709)1月10日、将軍綱吉がなくなりました。後を継いだ6代将軍家宣は早くも1月20日、生類憐れみ政策を転換しました。犬の養育も解除されました。それからが大変、4月、犬を預かっていた村々に「御犬御用金」=養育金を返還するようにとの命令が来ました。
芋窪村では33年後まで 芋窪村にも返納の命令が来ました。とっくに、犬の養育に使ってしまっています。返すに返せません。どのように経過したのか不明ですが、33年後の寛保2年(1742)に、まだ、返納督促を受けていたことが記録に残されています。その上、踏んだり蹴ったりで、享保2年(1717年)鷹場が復活しました。
2武州村山騒動・打ち壊し
飢饉の中で 明和から天明年間へと続いた飢餓は多くの困窮者を生み、東大和周辺の村々を疲弊させました。その過程で噴出したのが武州村山騒動=天明の打ち壊しです。狭山丘陵周辺の村々40ヵ村に及んで、江戸時代の歴史に深く刻み込まれました。
狭山が池へ集まれ 天明4年(1784)2月27日、多摩・入間の各村の要所に次のような張札が張られました。
「この近在有徳の者共が寄合い、相談致し、市場・町場はもちろん、小前迄の雑穀を買い留め置き、占め売りいたす者が居る。大勢の難儀を顧みず、甚だ不法だ。よって、相談いたしたい。
来る二十八日暮六ツ時(午後6時)より五ツ時(午後8時)迄に箱根ケ崎村池尻(現・狭山が池)へ、お出会い下され。
もしお出会なき村方へは大勢押し寄せ、理不尽なることもお覚悟を!」
2~3万人が一斉に 二八日、指定の刻限より夜も更けた夜九ッ(午前零時)、池尻には高提灯を立てて二~三万の人が集まりました。頭目となるものがはっきりしない中で、時間が過ぎていきました。その時、「山王前」との声があがりました。400~500人がそれに答えて「山王前」と繰り返すやいなや、一斉に叫びだし、鋤・鍬など農耕具を手に走り出します。狭山池から二里の道程にある萩之尾(武蔵村山市)の文右衛門宅を目指して押し寄せました。
打ち壊し 文右衛門、山釣五衛門、中藤村名主佐兵衛、同組百姓代与七、高木村(東大和市)名主庄兵衛の順序で5軒を打ちこわしました。その状況は、「米穀、雑穀、莚俵叺(むしろ、たわら、かます)入り、みな広庭に持ち出し、俵叺切り散らし、雑穀、微塵にするのみならず、油、酢、醤油持ち出し、かの広庭にてたが切れば、油は流れ出でて玉川のごとし。雑穀は出水の砂のごとし」でした。
そして、「二月二十九日朝巳ノ刻にいたりければ、いずくにまで立退き候とも、その行方知れず、みな散り散りに帰りけり。実に夢の覚めたるごとし。」でした。(『武州村山大変次第之事』 他)
後始末 打ち壊しにあった家々は幕府に訴えました。中藤村、高木村とも同心10人が宿泊して取り調べが行われました。
結果、総勢63名が捕らえられて、村預け、江戸送りになりました。「六十三人囚人ども、御吟味中、病死の者多し」と伝えられます。捕らえられた中に芋窪村の農民14名が含まれていました。
3荒れる村に八州回り
1700年代後半になると、村では、富者、富農、貧農と階層化が進み、人口が減少し、耕地の荒廃が見られるようになりました。また、江戸市中へ流入する「遊民」、長脇差や刀を帯びて村々を渡り歩き回る「無宿」や「渡世人」が生まれてきました。
風斗出(ふとでもの)者 安永6年(1777)、中藤村の百姓太右衛門の女房とめ50歳が行方知れずになり、方々捜したが見つからないという事件が起きました。その一件文書に、「風と罷出」という言葉が使われていることが『武蔵村山市史通史編上』(p1112)に紹介されています。村人が村を捨てて、フッと出て行く空気がうまれていることを語ります。
江戸打ち壊し 天明7年(1787)は各地で一揆が起こります。『里正日誌』は「天明七年春より江戸にて米価高く、初めは百文に白米六合なりしに五合となり、四合となり、四、五月より又上りて三合となると」記し、ついに5月18日、江戸打ち壊しが起こりました。
寛政の改革 幕府は事態解決のためか次のような改革を実施しました。
旧里帰農令・物価引下令・七分積金令、石川島に人足寄場の設置(無宿人に対する授産施設=無宿人の予防拘禁策)、夫食代・農具代・種籾代の恩貸とその返済猶予令、他国出稼ぎ制限令などが相次いで出されました。寛政の改革と呼ばれます。
1踏んだり蹴ったりお犬様
狭山丘陵周辺の生類憐れみの令 延宝8年(1680)8月、五代将軍に綱吉が就任します。武蔵野開発に力を入れた三代将軍家光の四男です。放漫になりかけていた幕制改革に着手しました。一方で、生類憐れみの令により、犬猫の緊縛禁止、殺傷禁止令を出します。東大和市域の村々にとって喜ばしかったことは、鷹場が廃止(元禄6年・1693)されたことでした。鷹場指定により、猛烈な規制がかけられて、幕府と領主と尾張家(鷹場)などの多重支配に悩まされていたことから解放されました。
お犬小屋 ところが、綱吉将軍、犬公方と呼ばれるように、犬を大切にするあまり、忖度も重なって、江戸市中に野良犬があふれ、元禄8年(1695)、公設の「御囲=御犬小屋」が四谷・大久保に作られました。あっという間に不足して、引き続いて中野に作られました。建設費は諸大名に賦課され、武蔵野の村からは建設材料や大豆、藁、菰(こも) などが集められました。
お犬様のお預かり 中野の犬小屋も満杯になり、元禄12年(1699)頃から、収容しきれなくなった犬を江戸周辺の村々に預ける方策がとられました。養育金を支給するとのことで、疲弊にあえぐ村々からは賛意が表されたことも考えられます。それもそのはず、養育金は「奉公人の一年の給金に等しかった」(武蔵村山市史 上p751)と云うのですから。東大和市域では芋窪村の人々が参加していました。
養育金の後始末 その喜びも束の間、宝永6年(1709)1月10日、将軍綱吉がなくなりました。後を継いだ6代将軍家宣は早くも1月20日、生類憐れみ政策を転換しました。犬の養育も解除されました。それからが大変、4月、犬を預かっていた村々に「御犬御用金」=養育金を返還するようにとの命令が来ました。
芋窪村では33年後まで 芋窪村にも返納の命令が来ました。とっくに、犬の養育に使ってしまっています。返すに返せません。どのように経過したのか不明ですが、33年後の寛保2年(1742)に、まだ、返納督促を受けていたことが記録に残されています。その上、踏んだり蹴ったりで、享保2年(1717年)鷹場が復活しました。
2武州村山騒動・打ち壊し
飢饉の中で 明和から天明年間へと続いた飢餓は多くの困窮者を生み、東大和周辺の村々を疲弊させました。その過程で噴出したのが武州村山騒動=天明の打ち壊しです。狭山丘陵周辺の村々40ヵ村に及んで、江戸時代の歴史に深く刻み込まれました。
狭山が池へ集まれ 天明4年(1784)2月27日、多摩・入間の各村の要所に次のような張札が張られました。
「この近在有徳の者共が寄合い、相談致し、市場・町場はもちろん、小前迄の雑穀を買い留め置き、占め売りいたす者が居る。大勢の難儀を顧みず、甚だ不法だ。よって、相談いたしたい。
来る二十八日暮六ツ時(午後6時)より五ツ時(午後8時)迄に箱根ケ崎村池尻(現・狭山が池)へ、お出会い下され。
もしお出会なき村方へは大勢押し寄せ、理不尽なることもお覚悟を!」
2~3万人が一斉に 二八日、指定の刻限より夜も更けた夜九ッ(午前零時)、池尻には高提灯を立てて二~三万の人が集まりました。頭目となるものがはっきりしない中で、時間が過ぎていきました。その時、「山王前」との声があがりました。400~500人がそれに答えて「山王前」と繰り返すやいなや、一斉に叫びだし、鋤・鍬など農耕具を手に走り出します。狭山池から二里の道程にある萩之尾(武蔵村山市)の文右衛門宅を目指して押し寄せました。
打ち壊し 文右衛門、山釣五衛門、中藤村名主佐兵衛、同組百姓代与七、高木村(東大和市)名主庄兵衛の順序で5軒を打ちこわしました。その状況は、「米穀、雑穀、莚俵叺(むしろ、たわら、かます)入り、みな広庭に持ち出し、俵叺切り散らし、雑穀、微塵にするのみならず、油、酢、醤油持ち出し、かの広庭にてたが切れば、油は流れ出でて玉川のごとし。雑穀は出水の砂のごとし」でした。
そして、「二月二十九日朝巳ノ刻にいたりければ、いずくにまで立退き候とも、その行方知れず、みな散り散りに帰りけり。実に夢の覚めたるごとし。」でした。(『武州村山大変次第之事』 他)
後始末 打ち壊しにあった家々は幕府に訴えました。中藤村、高木村とも同心10人が宿泊して取り調べが行われました。
結果、総勢63名が捕らえられて、村預け、江戸送りになりました。「六十三人囚人ども、御吟味中、病死の者多し」と伝えられます。捕らえられた中に芋窪村の農民14名が含まれていました。
3荒れる村に八州回り
1700年代後半になると、村では、富者、富農、貧農と階層化が進み、人口が減少し、耕地の荒廃が見られるようになりました。また、江戸市中へ流入する「遊民」、長脇差や刀を帯びて村々を渡り歩き回る「無宿」や「渡世人」が生まれてきました。
風斗出(ふとでもの)者 安永6年(1777)、中藤村の百姓太右衛門の女房とめ50歳が行方知れずになり、方々捜したが見つからないという事件が起きました。その一件文書に、「風と罷出」という言葉が使われていることが『武蔵村山市史通史編上』(p1112)に紹介されています。村人が村を捨てて、フッと出て行く空気がうまれていることを語ります。
江戸打ち壊し 天明7年(1787)は各地で一揆が起こります。『里正日誌』は「天明七年春より江戸にて米価高く、初めは百文に白米六合なりしに五合となり、四合となり、四、五月より又上りて三合となると」記し、ついに5月18日、江戸打ち壊しが起こりました。
寛政の改革 幕府は事態解決のためか次のような改革を実施しました。
旧里帰農令・物価引下令・七分積金令、石川島に人足寄場の設置(無宿人に対する授産施設=無宿人の予防拘禁策)、夫食代・農具代・種籾代の恩貸とその返済猶予令、他国出稼ぎ制限令などが相次いで出されました。寛政の改革と呼ばれます。
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Citation
“大まかな歴史の流れ 近世4,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1693.