玉川上水の開削の背景、ルートは?

1玉川上水が造られる前の江戸の水道.jpg
2玉川上水のルートと崖線_立川断層.jpg

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玉川上水の開削の背景、ルートは?

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 玉川上水が身近にあるだけに、これだけのものが、何時、どのようにして造られたのか、知りたくなります。
1進む江戸の整備、水不足
 家康の関東入府後50年を経て、江戸の整備が進み、参勤交代制も定着、人口が増加して、飲料水が不足となりました。家康入府当時、江戸の上水は井の頭池、善福寺池、妙正寺池の湧き水を水源とする神田上水と赤坂の溜池用水によって賄われていました。その水量では飲み水をまかないきれない状況が生まれました。
2 寛永の飢饉、新田開発の必要性
・江戸の整備が進み人口が集中する一方で、幕府財政が逼迫してきます。
 そこで必要になったのが年貢を納める本百姓の自立政策でした。
・寛永19年(1642)、折からの天候不順により全国的に飢饉が発生します。
・寛永20年(1643)、田畑永代売買禁止を定めます。
・慶安2年(1649)、慶安触書、慶安検地条例をさだめ、年貢負担のもとになる本百姓自立策をとります。
 この時、幕府の閣僚として活躍したのが松平信綱です。
 このように、
・水不足対策
・広大な武蔵野の原野の農耕地としての開発
 が課題となっていました。
 ここに、幕府は新たな上水の開削を検討し、同時に広大な武蔵野の原野の開発を目指したと思われます。
どのようにしてルートが決まり工事が行われたのか
 そこで持ち上がったのが武蔵野の原野に飲み水の水道を通す玉川上水計画でした。
・承応元年(1652)、幕府が玉川上水の開削を決定
・そのルートは多摩川の水を羽村に堰を設け、四谷大木戸まで運び、江戸市中に配水するというものでした。
・承応2年(1653)、四谷大木戸まで開削、翌3年(1654)完成
 と1年足らずで完成しています。
問題山積
 短期間にあっと云う間に出来上がったようですが、少し内容に立ち入ってみると多くの課題が浮かんできます。
 上図のように
・羽村の取り入れ口から四谷大木戸まで、
・武蔵野の原野を素堀で開削し、
・自然勾配を利用して
・多摩川の水を江戸まで自然流下で運ぼうとする。
 江戸から武蔵野の原野を経て多摩川にルートを探せば、原野は平坦としても、
・国分寺崖線
・立川崖線
・立川断層
 にぶち当たり、これを超える必要があります。
 自然流下方式では立川崖線、国分寺崖線は避けざるを得ません。もう一つの立川断層の概念は当時はなかったでしょうから、断層に沿って流れる残堀川をどのように処理するかに難問だらけです。しかし、計画は立てられ、1年足らずで完成しています。
疑問だらけ
 あっという間の完成ですが、一般的な伝承では
・計画は承応2年(1653)、玉川兄弟が苦労して作った。
・工事費として6000両が渡されたが、4000両は高井戸までに使い果たし、3000両不足したので玉川家で負担した。
・途中でいくつかのとり入れを試みたが失敗した。
 ・青柳村、府中八幡下、染谷村
 ・福生村前、草花下、川崎村前
・総指揮者は老中松平信綱で、関東郡代伊那半十郎が技術指導した。
 などが伝えられます。
 ◎何故、現在の玉川上水駅前を流れるように流路の位置が決まったのか、玉川兄弟とは何者か、など,謎解きが迫ります。そんなに簡単ではなさそうです。調べれば調べるほど面白いです。一つ一つ追ってみたいと思います。

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“玉川上水の開削の背景、ルートは?,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1714.