天明の打ち毀し(武州村山騒動)2
タイトル (Title)
天明の打ち毀し(武州村山騒動)2
詳細 (Description)
打ち毀し (天明4年・1784)
「ほんこ(本当)に、やんだんべか」
「物持ちは、隠し始めたとよ」
「それじゃ済むめー」
「どこがやられんだか気が気じゃあんめー」
「時に、おら方じゃ、誰が行ったただや?」
「そりゃー、ひっぱたかれても、云えねえことよ」
2打ち毀し
(1)池尻へ集合、出発
天明4年(1784)2月28日の夜です。箱根ヶ崎・狭山池(瑞穂町)に、通知を受けたそれぞれの村から村人達が集まりました。前の日に張り出しのあった打ち毀しの集合場所です。
(画像:現在の池尻(狭山が池)『瑞穂町史』の表紙裏に天保年間の箱根が崎村絵図が記載されています。池は更に大きく、その周辺に数倍の芝地があったことがわかります。)
以下、「武州村山大変次第之事」から意訳します。
・「いよいよ二十八日、夜九つ(夜中の12時・午前0時)の鐘を合図に
・松竹の印やまつだけの印の高提灯を先に立てて
・合わせると二~三万人の人々が我も我もと池尻へ集まってきた。
・口々に発せられる声で野山も崩れるばかりだった。
・寄手の中に、頭取(先導者)もなく、これという評儀(評議・打ち合わせ、会議)もない。
ざわめきも静まって来た時、老人の声で「いずれへなりともこころざす方へ趣き候ように」
と下知があったけれども、応ずるものなし。
・そうした時、箱根ヶ崎三社権現(現狭山神社)の御山頂の峰で、
小声で「原山才次郎」と云う者あり。
「今、ひと言」と所望したが、返答はない。
・時が過ぎようとするとき、また、老人の声で「山王前」(さんのうまえ)という声あり。
・この時、四、五百人、口を揃えて、山王前、山王前と二~三返(ぺん)、いうやいなや、
・「狭山の池」の芝地に集まった見物の貴賎幾千万がみな声を合わせて、山王前、山王前と呼んだ。
・これを物に譬(たと)えれば、元弘のころの平高時と新田義貞との久米川・入間川の陣と変わることがない。
・狭山の池より山王前(萩之尾の文右衛門宅)まで道のり二里のあいだの里民は
妻子、老少を携え、山野に諸道具を隠し、逃げ隠れる者が多かった。
女童子の泣声、天地も崩るるばかりだった。
・寄せ来る人数、先陣すでに番場横田村にいたれば、後陣はまた石畑箱根ヶ崎にひかえたり。
馳せ違う提灯、松明(たいまつ)は夏の露をすう螢火のようだ。
・先陣に進んだ若者ども、二三百人、斧に、かけや、鋸、鋤鍬(すきくわ)、えものえものをてんでんに持ち、
寄らば打たん、そのありさま、百姓軍といいつべし。」
ということで、打ちこわしの勢力は現在の青梅街道(村山道)を東方に向かい中藤村に達します。
(2)打ち毀し
①中藤村
「・中藤村萩の尾というところに、百姓文右衛門という者あり。この者占売致し候や、
この家をめがけ、かの同勢、表門長屋の前にて枯木茅草などに火を焚きつけ、時の声を上げにける。
・さてまたこの方も時を合わせ鉄砲矢砲を飛ばすといえども、
寄手、眼に余る大勢なれば、力及ばず、
みな散り散りに逃げ失せける。
表裏長屋木戸かけやをもって打ち破る。
それより物置、木部屋、油屋、穀蔵、金蔵、居宅、雪隠(せっちん)、長屋などにいたるまで打ち荒らし、
戸障子雨戸はかのかがり火へなげ込めば、猛火盛んに燃え上り、ただ白昼のごとくなり。
金銀をちりばめたる鍋釜諸 道具打ち破り、敷居、鴨居はなた、鋸をもって切り荒らし微塵になして捨てたりける。
・さて、また、ここに山釣五右衛門、その身有徳(うとく)富有ではないけれども、文右衛門一家ゆえ、
質物残らずこのところへ隠し、ある者これを見つけこの家を次手に打潰せと
隠し置きたる質物残らず焼き捨てよと下知すれば、
七ヵ所に隠し置きたる雑物、質物に火燃えつき、一つも残らず焼き捨てたり。
・ここに内野佐兵衛とて高四百石余り支配の名主あり。
この者、発明なるゆえ、いかに悪(にく)しみをうけたりけん、この者宅も打散らし、夜すでに明け方にいたり、
②高木村
・この暁きに高木村庄兵衛方へ急ぎ行き、米穀、雑穀、莚俵叺(むしろ、たわら、かます)入り、
みな広庭に持ち出し、俵叺切り散らし、雑穀、微塵にするのみならず、
油、酢、醤油を持ち出し、広庭にてたが切れば、油は流れ出でて玉川(多摩川)のごとし。
雑穀は出水の砂のごとし。このところにても 以上三ヵ所にて質物を焼き捨て、」(解散に続きます)
ここまでを整理すると打ち毀しを受けたのは
①中藤村
・文右衛門(山王前 豪商)
・山釣五衛門(山王前の親戚 商品・質物などの保管所)
・中藤村名主佐兵衛(丸山、中藤新田の開発)
・中藤村佐兵衛組百姓代与七(文中には名が出ていない)
②高木村
・高木村名主庄兵衛
で、5軒が対象になったことが記されています。
(3)解散
高木村の名主庄兵衛宅が襲われたのは、すでに夜が明け、午前9時頃でした。
その後について、「武州村山大変次第之事」は
「・最早、明くれば、二月二十九日朝巳ノ刻(午前9時~10時)にいたりければ、
いずくにまで立退き候とも、その行方知れず、みな散り散りに帰りけり。
・実に夢の覚めたるごとし。」
としています。
参加した村人達は散り散りに村に帰ったようです。
打ち壊された方は、直ちに代官所に被害を報告し、調査が始まります。
結果、総勢63名が捕らえられて、村預け、江戸送りになります。
「ほんこ(本当)に、やんだんべか」
「物持ちは、隠し始めたとよ」
「それじゃ済むめー」
「どこがやられんだか気が気じゃあんめー」
「時に、おら方じゃ、誰が行ったただや?」
「そりゃー、ひっぱたかれても、云えねえことよ」
2打ち毀し
(1)池尻へ集合、出発
天明4年(1784)2月28日の夜です。箱根ヶ崎・狭山池(瑞穂町)に、通知を受けたそれぞれの村から村人達が集まりました。前の日に張り出しのあった打ち毀しの集合場所です。
(画像:現在の池尻(狭山が池)『瑞穂町史』の表紙裏に天保年間の箱根が崎村絵図が記載されています。池は更に大きく、その周辺に数倍の芝地があったことがわかります。)
以下、「武州村山大変次第之事」から意訳します。
・「いよいよ二十八日、夜九つ(夜中の12時・午前0時)の鐘を合図に
・松竹の印やまつだけの印の高提灯を先に立てて
・合わせると二~三万人の人々が我も我もと池尻へ集まってきた。
・口々に発せられる声で野山も崩れるばかりだった。
・寄手の中に、頭取(先導者)もなく、これという評儀(評議・打ち合わせ、会議)もない。
ざわめきも静まって来た時、老人の声で「いずれへなりともこころざす方へ趣き候ように」
と下知があったけれども、応ずるものなし。
・そうした時、箱根ヶ崎三社権現(現狭山神社)の御山頂の峰で、
小声で「原山才次郎」と云う者あり。
「今、ひと言」と所望したが、返答はない。
・時が過ぎようとするとき、また、老人の声で「山王前」(さんのうまえ)という声あり。
・この時、四、五百人、口を揃えて、山王前、山王前と二~三返(ぺん)、いうやいなや、
・「狭山の池」の芝地に集まった見物の貴賎幾千万がみな声を合わせて、山王前、山王前と呼んだ。
・これを物に譬(たと)えれば、元弘のころの平高時と新田義貞との久米川・入間川の陣と変わることがない。
・狭山の池より山王前(萩之尾の文右衛門宅)まで道のり二里のあいだの里民は
妻子、老少を携え、山野に諸道具を隠し、逃げ隠れる者が多かった。
女童子の泣声、天地も崩るるばかりだった。
・寄せ来る人数、先陣すでに番場横田村にいたれば、後陣はまた石畑箱根ヶ崎にひかえたり。
馳せ違う提灯、松明(たいまつ)は夏の露をすう螢火のようだ。
・先陣に進んだ若者ども、二三百人、斧に、かけや、鋸、鋤鍬(すきくわ)、えものえものをてんでんに持ち、
寄らば打たん、そのありさま、百姓軍といいつべし。」
ということで、打ちこわしの勢力は現在の青梅街道(村山道)を東方に向かい中藤村に達します。
(2)打ち毀し
①中藤村
「・中藤村萩の尾というところに、百姓文右衛門という者あり。この者占売致し候や、
この家をめがけ、かの同勢、表門長屋の前にて枯木茅草などに火を焚きつけ、時の声を上げにける。
・さてまたこの方も時を合わせ鉄砲矢砲を飛ばすといえども、
寄手、眼に余る大勢なれば、力及ばず、
みな散り散りに逃げ失せける。
表裏長屋木戸かけやをもって打ち破る。
それより物置、木部屋、油屋、穀蔵、金蔵、居宅、雪隠(せっちん)、長屋などにいたるまで打ち荒らし、
戸障子雨戸はかのかがり火へなげ込めば、猛火盛んに燃え上り、ただ白昼のごとくなり。
金銀をちりばめたる鍋釜諸 道具打ち破り、敷居、鴨居はなた、鋸をもって切り荒らし微塵になして捨てたりける。
・さて、また、ここに山釣五右衛門、その身有徳(うとく)富有ではないけれども、文右衛門一家ゆえ、
質物残らずこのところへ隠し、ある者これを見つけこの家を次手に打潰せと
隠し置きたる質物残らず焼き捨てよと下知すれば、
七ヵ所に隠し置きたる雑物、質物に火燃えつき、一つも残らず焼き捨てたり。
・ここに内野佐兵衛とて高四百石余り支配の名主あり。
この者、発明なるゆえ、いかに悪(にく)しみをうけたりけん、この者宅も打散らし、夜すでに明け方にいたり、
②高木村
・この暁きに高木村庄兵衛方へ急ぎ行き、米穀、雑穀、莚俵叺(むしろ、たわら、かます)入り、
みな広庭に持ち出し、俵叺切り散らし、雑穀、微塵にするのみならず、
油、酢、醤油を持ち出し、広庭にてたが切れば、油は流れ出でて玉川(多摩川)のごとし。
雑穀は出水の砂のごとし。このところにても 以上三ヵ所にて質物を焼き捨て、」(解散に続きます)
ここまでを整理すると打ち毀しを受けたのは
①中藤村
・文右衛門(山王前 豪商)
・山釣五衛門(山王前の親戚 商品・質物などの保管所)
・中藤村名主佐兵衛(丸山、中藤新田の開発)
・中藤村佐兵衛組百姓代与七(文中には名が出ていない)
②高木村
・高木村名主庄兵衛
で、5軒が対象になったことが記されています。
(3)解散
高木村の名主庄兵衛宅が襲われたのは、すでに夜が明け、午前9時頃でした。
その後について、「武州村山大変次第之事」は
「・最早、明くれば、二月二十九日朝巳ノ刻(午前9時~10時)にいたりければ、
いずくにまで立退き候とも、その行方知れず、みな散り散りに帰りけり。
・実に夢の覚めたるごとし。」
としています。
参加した村人達は散り散りに村に帰ったようです。
打ち壊された方は、直ちに代官所に被害を報告し、調査が始まります。
結果、総勢63名が捕らえられて、村預け、江戸送りになります。
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Citation
“天明の打ち毀し(武州村山騒動)2,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1722.