天明の打ち毀し(武州村山騒動)3
タイトル (Title)
天明の打ち毀し(武州村山騒動)3
詳細 (Description)
騒動の後 (天明4年・1784)
「行ってみたけど、ひでえ(ひどい)もんだぜ」
「家はぶっこされて」
「稗(ひえ)や粟(あわ)が庭におっぴろげられてんだ」
「おれーらが苦労してとった(収穫)にな」
「値段のつり上げ根性が悪いのよ」
「質物も踏んじゃかれて、どうすんだんべ」
「そのぐれえの事しなくちゃ、奴らにはわかんめえ」
「だけんど、芋窪で大勢つかまたとよ」
「そりゃ、困ったな」
「どうにかしなくっちゃな・・・・」
(画像:打ち毀しの一行が中藤村(武蔵村山市)から押し寄せてきた道 この道に打ち毀されて出た品々があふれた 高木村(東大和市))
被害の届け出、調査
襲われた5軒は、さっそく幕府へ訴え出ました。すると、「御公儀様はなはだ御驚かせたまい、何にもせよ、民百姓のかように騒動すること、上天を恐れざる仕方、不届きにつき、」として、3月2日、町奉行所から取り調べの一行が村々にきました。
中藤村 牧野大隅守配下の同心10人
高木村 曲淵甲斐守配下の同心10人
でそれぞれ中藤村と高木村に宿泊して取り調べました。
取り調べの結果
その結果は、先に「武州村山大変次第之事」の記事を紹介しました。東大和市域では、そこに記された以上に詳しい、打ち壊しを受けた側の「打毀諸道具書上帳」が『里正日誌』(2p340~346)に記されています。
高木村名主庄兵衛は「狼藉者一件覚帳」を記しました。そして、近隣の名主が揃って確認をしています。煩雑になりますが、江戸時代の状況を知ることができますので、書き出してみます。
高木村名主・尾崎幸蔵、奈良橋村名主・岸勘兵衛、蔵敷村名主・内野杢左衛門、後ヶ谷村名主・真野新助、同・杉本勘左衛門、清水村名主・五十嵐清左衛門、廻り田村名主・小町亀八、同村名主・江藤太郎右衛門、野口村名主五郎右衛門、同長左衛門です。芋窪村を除き近隣の名主が名を連ねています。高木村名主・尾崎幸蔵が記されているのは、高木村には天領と私領があり、打ち毀しを受けたのは私領名主庄兵衛であることによります。
その内容は
一、居宅 四間半 拾壱間
きりきず 中ほど
此内 はしら参拾弐本 内八本 はしら 中ほどよりきり切
居宅
戸前四拾六枚 打ち破りを負うと共に
内四本 からかみ かべ残らず打ち破り
一、二間半 弐間 にかい付
打ちこわし
一、三間 二間半 にかい付
にかい いたはずし
・・・・・
と詳細で、居宅から物置まで打ち毀されています。また、貯蔵していた穀物や醤油、油などとともに、質屋として預かった品物も焼かれています。その様子を「武州村山大変次第之事」は次のように記します。
「評に曰く、高木庄兵衛、萩ノ尾文右衛門両家にて打ち荒らしたる
・俵数積りて二三千俵ほど雑穀とす。
・質物はおよそ金高四五千両ほど焼き捨てたり。
・油百樽余り切り流す。
・金銀銭は残らず、紛失なり。
・打ち潰れたる諸道具は山のごとし。
さて、また盗みやすきものは金銭ならん。寄手の中に盗賊も多きや。かようの時は実気なる仁も欲心を発するものなり。実に両家売留め人数ならんや、かくのごとくの大難を引きうくることはその身に覚えあるべし。浮世にこれなき雑穀を沢山に積み重ね、千も二千も持ちながら占売いたし候てかくあるべきことなり。」
(画像:高木名主庄兵衛・「狼藉者一件覚帳」の一部 「右残らず取り出しふみちらかし」「あるいは井戸へ打ち込んだ」と記されている。)
村預け・江戸送り
打ち毀された方と共に、打ち毀しに参加した村人も取り調べられました。その結果は次のようです。
「すでに辰三月三日桃の節句と悦び勇み楽しむところ、当日一番、多摩郡羽村にて名主小源太、同羽助、組頭伝兵衛、百姓次郎右衛門右四人御手入れにそれ初めとして・・・」として
羽村では名主小源太・同羽助・組頭伝兵衛・百姓次郎右衛門を皮切りに、太郎右衛門・彦右衛門・源右衛門・政五郎・要八・勘七・勘右衛門、小作にて源蔵の計一二名、
・川崎村(羽村市)二名、
・福生村(福生市)二名、
・箱根ケ崎村(瑞穂町)二名、
・石畑(瑞穂町)一名、
・殿ケ谷村(瑞穂町)二名、
・残堀(三ツ木村)五名、
・原山(中藤村)一名、
・中藤新田(国分寺市)一名、
・芋久保村(東大和市)一四名、
・七日市場(青梅市)一名、
・今寺村(青梅市)二名、
・二本木村(入間市と瑞穂町)一名、
・高根村(入間市と瑞穂町)一名、
・寺竹村(入間市)一名、
・青梅村(青梅市)一名、
・三ケ島村(所沢市)・北野村(所沢市)などから一四名
以上、総勢63名が捕らえられて、村預け、江戸送りになったことを伝えます。
悲しいですが、「六十三人囚人ども、御吟味中、病死の者多し。」としています。
村の位置を図にすると次のようになります。37ヵ村の参加とされますが、半分以下の18村しか明らかではありません。狭山丘陵周辺の実態を知りたいです。
こうして事件は終わりました。そして、疑問が残ります。捕らえられた63人中、なんと、14人が芋久保村(芋窪・東大和市)の村人です。
・突出しています。なぜ、このようになったのか?
・また、打ち毀しの背景には何が考えられるのか?
「行ってみたけど、ひでえ(ひどい)もんだぜ」
「家はぶっこされて」
「稗(ひえ)や粟(あわ)が庭におっぴろげられてんだ」
「おれーらが苦労してとった(収穫)にな」
「値段のつり上げ根性が悪いのよ」
「質物も踏んじゃかれて、どうすんだんべ」
「そのぐれえの事しなくちゃ、奴らにはわかんめえ」
「だけんど、芋窪で大勢つかまたとよ」
「そりゃ、困ったな」
「どうにかしなくっちゃな・・・・」
(画像:打ち毀しの一行が中藤村(武蔵村山市)から押し寄せてきた道 この道に打ち毀されて出た品々があふれた 高木村(東大和市))
被害の届け出、調査
襲われた5軒は、さっそく幕府へ訴え出ました。すると、「御公儀様はなはだ御驚かせたまい、何にもせよ、民百姓のかように騒動すること、上天を恐れざる仕方、不届きにつき、」として、3月2日、町奉行所から取り調べの一行が村々にきました。
中藤村 牧野大隅守配下の同心10人
高木村 曲淵甲斐守配下の同心10人
でそれぞれ中藤村と高木村に宿泊して取り調べました。
取り調べの結果
その結果は、先に「武州村山大変次第之事」の記事を紹介しました。東大和市域では、そこに記された以上に詳しい、打ち壊しを受けた側の「打毀諸道具書上帳」が『里正日誌』(2p340~346)に記されています。
高木村名主庄兵衛は「狼藉者一件覚帳」を記しました。そして、近隣の名主が揃って確認をしています。煩雑になりますが、江戸時代の状況を知ることができますので、書き出してみます。
高木村名主・尾崎幸蔵、奈良橋村名主・岸勘兵衛、蔵敷村名主・内野杢左衛門、後ヶ谷村名主・真野新助、同・杉本勘左衛門、清水村名主・五十嵐清左衛門、廻り田村名主・小町亀八、同村名主・江藤太郎右衛門、野口村名主五郎右衛門、同長左衛門です。芋窪村を除き近隣の名主が名を連ねています。高木村名主・尾崎幸蔵が記されているのは、高木村には天領と私領があり、打ち毀しを受けたのは私領名主庄兵衛であることによります。
その内容は
一、居宅 四間半 拾壱間
きりきず 中ほど
此内 はしら参拾弐本 内八本 はしら 中ほどよりきり切
居宅
戸前四拾六枚 打ち破りを負うと共に
内四本 からかみ かべ残らず打ち破り
一、二間半 弐間 にかい付
打ちこわし
一、三間 二間半 にかい付
にかい いたはずし
・・・・・
と詳細で、居宅から物置まで打ち毀されています。また、貯蔵していた穀物や醤油、油などとともに、質屋として預かった品物も焼かれています。その様子を「武州村山大変次第之事」は次のように記します。
「評に曰く、高木庄兵衛、萩ノ尾文右衛門両家にて打ち荒らしたる
・俵数積りて二三千俵ほど雑穀とす。
・質物はおよそ金高四五千両ほど焼き捨てたり。
・油百樽余り切り流す。
・金銀銭は残らず、紛失なり。
・打ち潰れたる諸道具は山のごとし。
さて、また盗みやすきものは金銭ならん。寄手の中に盗賊も多きや。かようの時は実気なる仁も欲心を発するものなり。実に両家売留め人数ならんや、かくのごとくの大難を引きうくることはその身に覚えあるべし。浮世にこれなき雑穀を沢山に積み重ね、千も二千も持ちながら占売いたし候てかくあるべきことなり。」
(画像:高木名主庄兵衛・「狼藉者一件覚帳」の一部 「右残らず取り出しふみちらかし」「あるいは井戸へ打ち込んだ」と記されている。)
村預け・江戸送り
打ち毀された方と共に、打ち毀しに参加した村人も取り調べられました。その結果は次のようです。
「すでに辰三月三日桃の節句と悦び勇み楽しむところ、当日一番、多摩郡羽村にて名主小源太、同羽助、組頭伝兵衛、百姓次郎右衛門右四人御手入れにそれ初めとして・・・」として
羽村では名主小源太・同羽助・組頭伝兵衛・百姓次郎右衛門を皮切りに、太郎右衛門・彦右衛門・源右衛門・政五郎・要八・勘七・勘右衛門、小作にて源蔵の計一二名、
・川崎村(羽村市)二名、
・福生村(福生市)二名、
・箱根ケ崎村(瑞穂町)二名、
・石畑(瑞穂町)一名、
・殿ケ谷村(瑞穂町)二名、
・残堀(三ツ木村)五名、
・原山(中藤村)一名、
・中藤新田(国分寺市)一名、
・芋久保村(東大和市)一四名、
・七日市場(青梅市)一名、
・今寺村(青梅市)二名、
・二本木村(入間市と瑞穂町)一名、
・高根村(入間市と瑞穂町)一名、
・寺竹村(入間市)一名、
・青梅村(青梅市)一名、
・三ケ島村(所沢市)・北野村(所沢市)などから一四名
以上、総勢63名が捕らえられて、村預け、江戸送りになったことを伝えます。
悲しいですが、「六十三人囚人ども、御吟味中、病死の者多し。」としています。
村の位置を図にすると次のようになります。37ヵ村の参加とされますが、半分以下の18村しか明らかではありません。狭山丘陵周辺の実態を知りたいです。
こうして事件は終わりました。そして、疑問が残ります。捕らえられた63人中、なんと、14人が芋久保村(芋窪・東大和市)の村人です。
・突出しています。なぜ、このようになったのか?
・また、打ち毀しの背景には何が考えられるのか?
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“天明の打ち毀し(武州村山騒動)3,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1723.