砲台用ケヤキ運搬のため道普請をせよ
タイトル (Title)
砲台用ケヤキ運搬のため道普請をせよ
詳細 (Description)
ーペリーが去った直後の江戸湾の警備と村ー
幕末の日本を大きく変えたペリー来航です。嘉永6年(1853)
・6月3日、真っ黒な船体に蒸気を吹き上げて江戸湾に姿を現し
・6月9日、久里浜に上陸、大統領親書の受け渡しが行われ
・6月10日~11日、幕府の抗議を尻目に、江戸湾奥深く進入し、測量を継続して
・6月12日、明春に再来することを告げて、大砲を発射しながら江戸湾を去りました。
江戸市中はおお騒ぎで、物価があがり、庶民は苦労しました。狭山丘陵周辺でも中藤村(武蔵村山市)の指田(さしだ)さんが
・6月11日、雷。当月、異国黒船、相州浦賀に入り、海手所々の固めあり、然れども、江戸に船入る事能わず、諸色高直(しょしきこうじき)になる、在々織物の類を買う者少なく、値段安く、織る者 難渋(なんじゅう)す(『指田日記』上p243)
と日記に書きました。(諸色高直=いろいろな物の値段が高くなる)
江戸湾巡視 台場の建設
江戸湾を含め幕府あげての対応が続きます。今後の防備態勢が再検討されます。代官江川太郎左衛門と東大和市周辺の動きに絞ります。『東京百年史』は次のように記します。
「ペリーが退去してから六日目、幕府は江戸湾防備のため、若年寄・本多忠徳(ほんだだだのり)に武藏・相模・安房・上総海岸の巡視を命じた。
この一行には勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)や江川太郎左衛門らが加わっていた。
忠徳らは熱心に防備施設の状態を調査した後、内海防備の充実を強調し、台場の設置を進言した。当初の計画は
・第一線を観音崎と富津洲に、
・第二線を横濱本牧と木更津、
・第三線を羽田沖、
・第四線を品川沖として台場構築を案出したという。
当初の計画案によると、一一ヶの砲塁を築く見積りで、
・南品川猟師町より東北深川洲崎の海岸に連珠のように二列一一基と、
・品川猟師町の海岸に一ヵ所と合計十二ヵ所の砲台を築造の予定であった。(港区史)」
(『東京百年史』第一巻p1440)
・6月19日、江川太郎左衛門(英龍)は勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)格を命じられました。地方の役人から、幕政に参与できる立場への昇格です。
英龍は、かねてからの海防に対する想いをこの時とばかり吐露します。
軍船の購入、製造、航行の習熟、海外渡航まで説いたとされます。その中で、上記の台場建設が進言されました。
青梅街道を大筒(おおつつ)車台用ケヤキが運ばれる
まだ、台場建設が決定される前です。江戸湾防備の一環でしょう。7月になると、東大和市周辺に動きが起こります。嘉永六年『里正日誌』の記事です。
・7月5日、代官勝田次郎より
・大筒(おおつつ)車台用材として青梅村(東京都青梅市)のケヤキ類を伐り出し、
・小川(小平市)→柳沢(やぎさわ 田無市)→中野(中野区)→内藤新宿(新宿区)、
・吉祥寺(武蔵野市)→無礼(むれ 三鷹市)→仙川(三鷹市・調布市)→上下高井戸(杉並区)→内藤新宿
・まで運び出し、道中差支えなく通行させるようにせよ
との命令が出されます。
『所沢市史』は
「負担額は不明であるが、軍需物資最優先の姿勢がうかがわれる。」(『所沢市史』上p802)とします。
次いで、『指田日記』は
・7月9日、大筒台(おおつつだい)の御用木、青梅入りより出るにより、新江戸街道の普請人足村々に当たる(『指田日記』上p243)として、
・青梅から大筒台の御用木を運ぶので、これに支障のないように、
・新江戸街道=現在の桜街道を整備せよ
との命令が来て、村人が道普請をしたことが記されます。
東大和市域も通過しました。現在のイトーヨーカドー、ヤオコーの間を通る道です。
当時の道筋の様子は御嶽菅笠の青梅橋図で想像できます。
この道を
・江戸時代初期には江戸城や町家建設のための石灰が運ばれ
・幕末には砲台づくりのケヤキの木材が息せき切って運ばれました。
大筒車台とは?
この時期にはまだ江戸湾の中への台場の建設は決まっていないので、湾岸に設けられた従来の砲台に「大筒」を備えることが緊急に行われたことがわかります。運ばれたケヤキが実際に、どのような「大筒車台(おおつつしゃだい)」に使われたのか把握できません。是非お教え下さるようお願いいたします。翌年の嘉永7年(1854)に造られた品川区東大井の「浜川砲台」(新浜川公園内)がとても参考になります。手持ちの画像がないので、韮山の江川家住宅に展示されている「ボートホイッスル砲」のレプリカを添付します。
雨乞いの中で緊張が伝わる
地元の状況です。村人が道普請にかり出される一方で、
・17日、原山雨乞い
・18日、原山請雨
・21日、太神宮神楽、夜、説教浄瑠璃(せっきょうじょうるり)連来る
と、
◎雨が少なかったのでしょう、雨乞いが行われ
◎神楽が奏上され、説教浄瑠璃が演ぜられる一面もありました。
一方、対外的には
・7月18日、ロシア使節プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に来航する。
と更に緊張が高まり、
・7月23日、英龍、品川台場建設を拝命
・8月2日、英龍、幕府海防掛に任ぜられる
と品川台場の建設が決まり、狭山丘陵周辺を治める代官江川太郎左衛門英龍は一挙に重要局面に名を現わしてきます。それに応じて村人達にも慌ただしい時代が訪れます。
幕末の日本を大きく変えたペリー来航です。嘉永6年(1853)
・6月3日、真っ黒な船体に蒸気を吹き上げて江戸湾に姿を現し
・6月9日、久里浜に上陸、大統領親書の受け渡しが行われ
・6月10日~11日、幕府の抗議を尻目に、江戸湾奥深く進入し、測量を継続して
・6月12日、明春に再来することを告げて、大砲を発射しながら江戸湾を去りました。
江戸市中はおお騒ぎで、物価があがり、庶民は苦労しました。狭山丘陵周辺でも中藤村(武蔵村山市)の指田(さしだ)さんが
・6月11日、雷。当月、異国黒船、相州浦賀に入り、海手所々の固めあり、然れども、江戸に船入る事能わず、諸色高直(しょしきこうじき)になる、在々織物の類を買う者少なく、値段安く、織る者 難渋(なんじゅう)す(『指田日記』上p243)
と日記に書きました。(諸色高直=いろいろな物の値段が高くなる)
江戸湾巡視 台場の建設
江戸湾を含め幕府あげての対応が続きます。今後の防備態勢が再検討されます。代官江川太郎左衛門と東大和市周辺の動きに絞ります。『東京百年史』は次のように記します。
「ペリーが退去してから六日目、幕府は江戸湾防備のため、若年寄・本多忠徳(ほんだだだのり)に武藏・相模・安房・上総海岸の巡視を命じた。
この一行には勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)や江川太郎左衛門らが加わっていた。
忠徳らは熱心に防備施設の状態を調査した後、内海防備の充実を強調し、台場の設置を進言した。当初の計画は
・第一線を観音崎と富津洲に、
・第二線を横濱本牧と木更津、
・第三線を羽田沖、
・第四線を品川沖として台場構築を案出したという。
当初の計画案によると、一一ヶの砲塁を築く見積りで、
・南品川猟師町より東北深川洲崎の海岸に連珠のように二列一一基と、
・品川猟師町の海岸に一ヵ所と合計十二ヵ所の砲台を築造の予定であった。(港区史)」
(『東京百年史』第一巻p1440)
・6月19日、江川太郎左衛門(英龍)は勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)格を命じられました。地方の役人から、幕政に参与できる立場への昇格です。
英龍は、かねてからの海防に対する想いをこの時とばかり吐露します。
軍船の購入、製造、航行の習熟、海外渡航まで説いたとされます。その中で、上記の台場建設が進言されました。
青梅街道を大筒(おおつつ)車台用ケヤキが運ばれる
まだ、台場建設が決定される前です。江戸湾防備の一環でしょう。7月になると、東大和市周辺に動きが起こります。嘉永六年『里正日誌』の記事です。
・7月5日、代官勝田次郎より
・大筒(おおつつ)車台用材として青梅村(東京都青梅市)のケヤキ類を伐り出し、
・小川(小平市)→柳沢(やぎさわ 田無市)→中野(中野区)→内藤新宿(新宿区)、
・吉祥寺(武蔵野市)→無礼(むれ 三鷹市)→仙川(三鷹市・調布市)→上下高井戸(杉並区)→内藤新宿
・まで運び出し、道中差支えなく通行させるようにせよ
との命令が出されます。
『所沢市史』は
「負担額は不明であるが、軍需物資最優先の姿勢がうかがわれる。」(『所沢市史』上p802)とします。
次いで、『指田日記』は
・7月9日、大筒台(おおつつだい)の御用木、青梅入りより出るにより、新江戸街道の普請人足村々に当たる(『指田日記』上p243)として、
・青梅から大筒台の御用木を運ぶので、これに支障のないように、
・新江戸街道=現在の桜街道を整備せよ
との命令が来て、村人が道普請をしたことが記されます。
東大和市域も通過しました。現在のイトーヨーカドー、ヤオコーの間を通る道です。
当時の道筋の様子は御嶽菅笠の青梅橋図で想像できます。
この道を
・江戸時代初期には江戸城や町家建設のための石灰が運ばれ
・幕末には砲台づくりのケヤキの木材が息せき切って運ばれました。
大筒車台とは?
この時期にはまだ江戸湾の中への台場の建設は決まっていないので、湾岸に設けられた従来の砲台に「大筒」を備えることが緊急に行われたことがわかります。運ばれたケヤキが実際に、どのような「大筒車台(おおつつしゃだい)」に使われたのか把握できません。是非お教え下さるようお願いいたします。翌年の嘉永7年(1854)に造られた品川区東大井の「浜川砲台」(新浜川公園内)がとても参考になります。手持ちの画像がないので、韮山の江川家住宅に展示されている「ボートホイッスル砲」のレプリカを添付します。
雨乞いの中で緊張が伝わる
地元の状況です。村人が道普請にかり出される一方で、
・17日、原山雨乞い
・18日、原山請雨
・21日、太神宮神楽、夜、説教浄瑠璃(せっきょうじょうるり)連来る
と、
◎雨が少なかったのでしょう、雨乞いが行われ
◎神楽が奏上され、説教浄瑠璃が演ぜられる一面もありました。
一方、対外的には
・7月18日、ロシア使節プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に来航する。
と更に緊張が高まり、
・7月23日、英龍、品川台場建設を拝命
・8月2日、英龍、幕府海防掛に任ぜられる
と品川台場の建設が決まり、狭山丘陵周辺を治める代官江川太郎左衛門英龍は一挙に重要局面に名を現わしてきます。それに応じて村人達にも慌ただしい時代が訪れます。
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Citation
“砲台用ケヤキ運搬のため道普請をせよ,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年10月15日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1731.