幕末の村の領主様
タイトル (Title)
幕末の村の領主様
詳細 (Description)
東大和市域の幕末の村の姿です。一般的な様子は『新編武蔵風土記稿』などに描かれますが、今回は視点を変えて、村の領主・支配関係から紹介します。
安政2年(1855)3月、東大和市域には次の7ヵ村がありました。
・芋窪村(芋久保村)、蔵敷村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、宅部村、清水村
・宅部村は現在の村山貯水池に沈んだ一部にありましたが、後ヶ谷村、清水村との境界が複雑で明確に出来ないため、□印で位置を示しました。
◎全体として、細く長い村が、激しく入り組む境界をもって接する姿は江戸初期以来変わっていません。
◎狭山丘陵の麓に営まれた古代からの村を親村として、玉川上水、野火止用水際まで、新田開発によってつくられた経過がそのまま継続されています。
◎注意点は、村によっては幕府領と旗本領があることです。
この経過は次によります。
・徳川家康の関東入府とともに、1590年代に家康の家臣が領主(地頭)として各村に配属されて来ました。地頭は地元に陣屋を設けて家族とともに住み、江戸へは馬で通勤登城したと伝えられます。
・その後、江戸市中の整備につれて、家臣は江戸に引き上げ、扶持米とりとなりました。残された領地は幕府の直轄領となりました。
・しかし、東大和市域では、芋久保村(芋窪村)、高木村、清水村で、一部が家臣の領地として残り、幕末まで、幕府領、旗本領として混在していました。その状況は次の通りです。
幕府領、旗本領の混在
多くが幕府領で、代官が管理をしました。東大和市周辺では、伊豆韮山を本拠地とする江川太郎左衛門がその任に当たっています。
ただし、芋久保村は当時、拝島寄場組合(よせばくみあい)に属していたことから、代官は中村八太夫でした。
原資料による詳細
高木村の例をあげます。下記の通り、石高と共に家数、馬数、除地が記されます。そして、代官の支配地、旗本知行地別に名主を初めとする村役人が設けられています。一つの村に統治に関する二組の組織がありました。
・特に、高木村の旗本酒井氏の知行地では、65石の内21石が隣接する奈良橋村地域内にまたがっています。(別資料による)
・さらに、添付の別に伝わる図では、代官支配地の一部も奈良橋村内にあることが示されています。
・江川太郎左衛門御代官所に「元」が付けられていますが、理由は調査中です。
高木村の混在状況
一定の取り決めがあったと思われますが、混在は相当に入り組んでいます。東大和市域内では唯一、この図が残ります。
・江川太郎左衛門代官所支配地には天領名主として尾崎家(金左衛門)、酒井才次郎知行地には私領名主として宮鍋家(庄兵衛)が存在しています。
その管理対象地は図のようで飛び飛びです。さらに、隣接する奈良橋村にも両家の管理対象地が分散して混在が及んでいます。
・奈良橋村の一部が高木地域にあります。
◎同じように混在が記録される清水村の場合は、代官支配領域の具体的な区分けが出来ません。その地域には人家がなかったことがわかっています。芋窪村の場合は資料がありません。
この書き上げが行われた背景
この書き上げは、安政2年(1855)3月に行われています。その背景には異国船渡来の時期で、地域に広がる不安対策があり、関東取締出役が提出を求めたものでした。
嘉永7年・安政元年(1854)
・1月9日、ペリーが、旗艦を先頭に蒸気船3、帆船4の大陣容で浦賀沖に再来航。
江戸市中の混乱と共に村にも不安な空気が流れる。
・1月18日、関東取締出役から「異国船渡来につき関東取締出役御達」として
・1月19日、所沢村へ当時の組合村の大小惣代が呼び出されて、厳重取り締まりが命じられた。
・2月10日、ペリーとの交渉が神奈川で開始され、2月末まで4回にわたり行われた。
和親と薪や水の給与、漂流民救助について合意がなされた。
開港場に、アメリカは神奈川を求め、日本側は下田を提案。
・3月3日、日米和親条約が締結されました。
「石炭・食料の供給と難破民の救助」を認め、「通商」は拒否することで交渉は妥結
日米和親条約(神奈川条約)を締結し、下田・箱館の二港を開港。
・3月4日、アメリカ艦隊が下田に入港。上陸したアメリカ兵が下田周辺を歩く。
・6月13日、江戸湾防備のための台場つくりに中藤村御林から松材切り出し
・7月5日、同上
安政2年(1855)
◎3月1日、村々に、関東取締出役から組合村高、地頭姓名、質屋、道案内人などの書き上げが命ぜられました。
近年、押し込み、盗難など治安の乱れが見られるので、3月30日までに、日光道中千住宿まで提出せよ、との命令です。(里正日誌7巻 p63)
これまでの幕府体制下とは異なった空気を帯び始めた地方に、関東取締出役は厳密な地域把握の必要性から報告を求めたものと推測します。
なお、東大和市域では
◎3月4日、幕府の命令で狭山、神明社のご神木である大欅を幕府御用船の船材に用いるために切り出す、など、切迫した状況が生まれました。
平安を祈ったのでしょうか、狭山霊性庵には、双体地蔵尊が建立されています。嘉永7年(1854)4月16日の日付が刻まれています。
混在の影響
この混在は、明治初年の府県制の実施に当たって、村人達を相当に困らせたと思われます。
安政2年(1855)3月、東大和市域には次の7ヵ村がありました。
・芋窪村(芋久保村)、蔵敷村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、宅部村、清水村
・宅部村は現在の村山貯水池に沈んだ一部にありましたが、後ヶ谷村、清水村との境界が複雑で明確に出来ないため、□印で位置を示しました。
◎全体として、細く長い村が、激しく入り組む境界をもって接する姿は江戸初期以来変わっていません。
◎狭山丘陵の麓に営まれた古代からの村を親村として、玉川上水、野火止用水際まで、新田開発によってつくられた経過がそのまま継続されています。
◎注意点は、村によっては幕府領と旗本領があることです。
この経過は次によります。
・徳川家康の関東入府とともに、1590年代に家康の家臣が領主(地頭)として各村に配属されて来ました。地頭は地元に陣屋を設けて家族とともに住み、江戸へは馬で通勤登城したと伝えられます。
・その後、江戸市中の整備につれて、家臣は江戸に引き上げ、扶持米とりとなりました。残された領地は幕府の直轄領となりました。
・しかし、東大和市域では、芋久保村(芋窪村)、高木村、清水村で、一部が家臣の領地として残り、幕末まで、幕府領、旗本領として混在していました。その状況は次の通りです。
幕府領、旗本領の混在
多くが幕府領で、代官が管理をしました。東大和市周辺では、伊豆韮山を本拠地とする江川太郎左衛門がその任に当たっています。
ただし、芋久保村は当時、拝島寄場組合(よせばくみあい)に属していたことから、代官は中村八太夫でした。
原資料による詳細
高木村の例をあげます。下記の通り、石高と共に家数、馬数、除地が記されます。そして、代官の支配地、旗本知行地別に名主を初めとする村役人が設けられています。一つの村に統治に関する二組の組織がありました。
・特に、高木村の旗本酒井氏の知行地では、65石の内21石が隣接する奈良橋村地域内にまたがっています。(別資料による)
・さらに、添付の別に伝わる図では、代官支配地の一部も奈良橋村内にあることが示されています。
・江川太郎左衛門御代官所に「元」が付けられていますが、理由は調査中です。
高木村の混在状況
一定の取り決めがあったと思われますが、混在は相当に入り組んでいます。東大和市域内では唯一、この図が残ります。
・江川太郎左衛門代官所支配地には天領名主として尾崎家(金左衛門)、酒井才次郎知行地には私領名主として宮鍋家(庄兵衛)が存在しています。
その管理対象地は図のようで飛び飛びです。さらに、隣接する奈良橋村にも両家の管理対象地が分散して混在が及んでいます。
・奈良橋村の一部が高木地域にあります。
◎同じように混在が記録される清水村の場合は、代官支配領域の具体的な区分けが出来ません。その地域には人家がなかったことがわかっています。芋窪村の場合は資料がありません。
この書き上げが行われた背景
この書き上げは、安政2年(1855)3月に行われています。その背景には異国船渡来の時期で、地域に広がる不安対策があり、関東取締出役が提出を求めたものでした。
嘉永7年・安政元年(1854)
・1月9日、ペリーが、旗艦を先頭に蒸気船3、帆船4の大陣容で浦賀沖に再来航。
江戸市中の混乱と共に村にも不安な空気が流れる。
・1月18日、関東取締出役から「異国船渡来につき関東取締出役御達」として
・1月19日、所沢村へ当時の組合村の大小惣代が呼び出されて、厳重取り締まりが命じられた。
・2月10日、ペリーとの交渉が神奈川で開始され、2月末まで4回にわたり行われた。
和親と薪や水の給与、漂流民救助について合意がなされた。
開港場に、アメリカは神奈川を求め、日本側は下田を提案。
・3月3日、日米和親条約が締結されました。
「石炭・食料の供給と難破民の救助」を認め、「通商」は拒否することで交渉は妥結
日米和親条約(神奈川条約)を締結し、下田・箱館の二港を開港。
・3月4日、アメリカ艦隊が下田に入港。上陸したアメリカ兵が下田周辺を歩く。
・6月13日、江戸湾防備のための台場つくりに中藤村御林から松材切り出し
・7月5日、同上
安政2年(1855)
◎3月1日、村々に、関東取締出役から組合村高、地頭姓名、質屋、道案内人などの書き上げが命ぜられました。
近年、押し込み、盗難など治安の乱れが見られるので、3月30日までに、日光道中千住宿まで提出せよ、との命令です。(里正日誌7巻 p63)
これまでの幕府体制下とは異なった空気を帯び始めた地方に、関東取締出役は厳密な地域把握の必要性から報告を求めたものと推測します。
なお、東大和市域では
◎3月4日、幕府の命令で狭山、神明社のご神木である大欅を幕府御用船の船材に用いるために切り出す、など、切迫した状況が生まれました。
平安を祈ったのでしょうか、狭山霊性庵には、双体地蔵尊が建立されています。嘉永7年(1854)4月16日の日付が刻まれています。
混在の影響
この混在は、明治初年の府県制の実施に当たって、村人達を相当に困らせたと思われます。
Item Relations
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Collection
Citation
“幕末の村の領主様,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年10月15日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1732.